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第18話
事務所から少し離れた場所にあるマンションは、同棲する時に彼女が決めたものだった。ふたりで住むには少しばかり小さくて、けれどその小ささが心地が良かった。堂嶋の周辺にはそういう自分を脅かさない安心で安全なものに溢れていた。鹿野目があんな瞳で自分を見なければ多分、今頃だってそういうものに囲まれて、堂嶋は楽しく生活できていたはずだった。部屋のドアノブを握ったまま、堂嶋は深く息を吐いた。最近、鹿野目に浸食されて、鹿野目のことを考える時間が増えている。そんなこと考えても無駄なことで、鹿野目との関係は携帯のフォルダの容量を空けること以外には意味がないことだ。多分、そんな風には絶対に割り切ることは出来ないことくらい分かっているけれど、自分はそういうつもりでいなければいけないと堂嶋は何かの拍子にいつも思う。そう思っていないとこの生活の均衡はやがて崩れる。
「ただいま」
「あ、おかえり、悟くん」
奥から咲 がパジャマ姿でやって来た。もう眠る前だったらしい。堂嶋はそれに微笑んでもう一度ただいまと言うと、玄関で靴を脱いだ。咲が鞄を持ってくれて、部屋の奥に進む堂嶋の後についてくる。リビングのソファーに座ると、咲は鞄を椅子の上に置いて、キッチンへと入って行った。見ればテーブルの上には堂嶋の夕食がラップをかけられて置いてある。
「ごめん、咲ちゃん。寝るとこだったんでしょ、もう寝て。俺、自分でやるよ」
「いいの、悟くん疲れて帰って来てるんだし、できることはやるよ」
「ごめんね。いつも」
「いいって、悟くんが忙しいの、今に始まったことじゃないじゃない」
そうして咲はキッチンから顔を出して、にこっと微笑んだ。堂嶋はそれを見ながら胸の奥がずきっと痛んだ。鹿野目との関係が心も体も慣れてきて、鹿野目と二人で向き合っている分には、何も思わなくなることが多くなってきたけれど、咲の前ではなかなかそうもいかずに、堂嶋は胸が痛むのを止めることが出来ない。この笑顔の前に後ろめたいことをしていることが、堂嶋の胸の中に小さい傷を沢山作っていく。鹿野目のデータフォルダには後何枚写真が残っているのだろう、そういえばそんなことも、もう聞くことすら最近はしていない。鹿野目の純粋な愛情に対して、自分が捧げるものが何もないから、その罪悪感を満たすために部下相手に足を開いているのだろうか、見返りのない愛情の先に、何もないのが恐ろしいから。
「悟くん、そろそろ、式場とかドレスとか、見に行かない?」
「え、あ」
テーブルの上に温められた料理が並んで、堂嶋は端からそれに手を付けながら、ぼんやり考えていたことを中断して、咲のことを見やった。正面の椅子に座って、咲は首を傾げながらにこっと笑った。相変わらず安心できる笑顔だと思った。
「準備、早いうちからやっといたほうがいいよって、奈美ちゃんも言ってたし。悟くん忙しいのなら私一人で行ってもいいけど」
「いや、俺も行くよ、週末なら大丈夫」
「そう?あ、でも今週末実家帰るんだった」
そうだ、それで土曜日なら大丈夫と鹿野目に言ったことを思い出した。あの鉄仮面の表情は変わらないけれど、きっと飛び上るほど嬉しかったに違いない。考えながら箸の先っぽを噛む。素直なのか天邪鬼なのか分からないけれど、そういうところはかわいいと思えた。
「じゃあ来週末にしよう、俺、何の予定もないし」
「・・・そう?」
一瞬間があって、咲は首を傾げた。何の間だろうかと堂嶋が顔を上げると、ぐいっと咲が身を乗り出してきて、堂嶋の首筋に顔を寄せた。反射的にびくっとして体が固まる。不意にエレベーターホールで鹿野目が去り際に触れるだけのキスをしてきたことを思い出して、顔が熱くなった。
「・・・な、なんなの、咲ちゃん・・・」
「んー・・・別に、なんでもない」
すっと咲は体を椅子の上に戻して、首を振った。堂嶋は焦ったまま、咲の息のかかった首筋をそっと撫でる。自分も鈍感で鹿野目が入社当時から堂嶋のことをじっと見ていたなんて柴田に話をされるまで知らなかったが、咲も多分余りそういうことには敏感な方ではない。だから二人で喧嘩もせずに仲良くやって来た。勿論付き合ってから浮気なんてしたことが一度もなかったことも、仲良くやって来られた要因の一つなのだろうが。考えながら堂嶋は熱くなった顔を隠すみたいに、もう一度首筋を撫でた。思っていた、考えていた形とは随分違うが、多分自分が鹿野目とやっていることは相手が異性とか同性という問題はあるにしても、多分浮気と呼ばれるそれに間違いはないのだ。だから咲の笑顔に対してこんなに胸が痛くなったりするのだ。もしかして少し勘付いていたりするのだろうかと思ったけれど、それにしては分かっているのに黙っている咲は不気味だった。
「じゃあ私、もう寝るね」
「あ、うん、ごめん、ありがとう」
「ううん、食べたら流しに置いといて、明日洗うから」
「うん、おやすみ」
「おやすみ、悟くん」
にこっと笑うと咲は立ち上がって、伸びをしながら寝室へと入って行った。堂嶋はその背中を見ながら、小さく溜め息を吐いた。たとえ咲が幾分鈍感にできていたとしても、こんな二重生活はきっといつまでも続かない。この関係には終わりが来るし、終わらせなければいけない。自分のことをあんな風に真っ直ぐに愛してくれる相手と出会ったことがなかったから、堂嶋にとって鹿野目の目や手は最早煩わしいものなんかではなくなっていた。いやむしろ、それは確かな感覚を伴って、堂嶋にとって最早気持ちのいいものになっていた。だから堂嶋はそれを簡単には振り解けない。鹿野目が可哀想な思いをするのを見るのが、胸が詰まると言いながら、本当は自分の欲求を満たすために振り解けないでいるのだ。
(駄目だ、このままじゃ、はっきり、しないと)
咲がどんなに鈍感にできていたって、きっといつか鹿野目の存在に気付くだろう。気付いてからでは遅いのだ、その前に何とかしておかないといけない。食べるのもそこそこに、堂嶋は天井を見ながら考えた。何とかしないといけないのは分かっているけれど、どうすればいいのだろう。鹿野目相手に何が出来るのだろう。堂嶋はその日遅くまで考えていたけれど、結局答えらしい答えには辿り着けなかった。
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