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第22話

「柴さん」 呼ばれて顔を上げると、デスクの前に鹿野目が立っていた。柴田に話しかけに来るのは大体班のリーダーが多く、所員は余り近寄って来ない。いつも真中相手に怒号を飛ばしているから、若干恐れられているのかもしれないと思い、できるだけ若手には優しくフランクに接しているつもりなのだが、彼らの上司を叱り飛ばしているのを見られているので、それもどこまで功を奏しているのか不明である。鹿野目も個人的には少ししか話したことがないが、何となくその人となりは分かっているつもりであった。4月から鹿野目が移った班のリーダー、堂嶋はリーダーに昇格した後も何かとうじうじしては柴田に色々相談を持ちかけてくる困った人だったので、柴田も密かに鹿野目のことは心配していたが、入った当初に堂嶋が例のごとくうじうじしていた以降は、何も言ってこないので、それはそれなりに上手くやっているのだと思っていた。 「鹿野、どうした」 「すみません、ちょっと柴さんに相談したいことがあるんですけど」 「俺?なに、改まって、良いけど」 律儀に鹿野目が頭を下げて、柴田は少しだけ嫌な予感がした。ちらりと鹿野目の机がある堂嶋班の様子を見やると、堂嶋はデスクにおり、佐竹と何やら談笑しているようだった。堂嶋ではなく自分なのかと、このシチュエーションであえて聞く必要はないと思いながら、聞いたほうが良いのだろうかと柴田が考えていると、目の前で鹿野目がさっと半身になる。 「すみません、会議室かどこか、入ってもいいですか」 「・・・あー・・・いいけど」 「ありがとうございます」 それは他の所員には聞かせられないということか、何やらますます厄介な匂いがしてくる。デスクに肘を突いたまま鹿野目を見上げて柴田は思った。余りそういうことには関わり合いになりたくはないが、この目つきの悪くて可愛げのない鹿野目が自分を頼ってきているのだから、それには答えてやらねばならないという、柴田は柴田なりの意地もあったしおそらくプライドもあった。柴田は纏まりなく考えながら、鹿野目の締まった背中を見ていた。そして鹿野目に先導されるように、言われるままふらりと立ち上がる。事務所を出る寸前に、柴田はもう一度堂嶋の様子を見やった。堂嶋はやはり先程確認したのとほとんど変わらない様子で、自分のデスクに座ったまま、佐竹の話に相槌を打っているように見えた。ただ柴田がそこから視線を反らそうとしたその一瞬、堂嶋がこちらを見たような気がしたが、その真意を柴田は知らない。 エレベーターホールは節電とか何とかで、定時を過ぎると電気が消えるようになっている。今日もすっかり暗くなっていて、窓の外から洩れ入ってくる光だけが頼りだった。今の季節は別段それで構わないが、秋から冬は本当に真っ暗で懐中電灯でも持って歩きたいような気分になる。エレベーターの表示板だけが煌々とオレンジに輝き、ずっと3階で止まったまま動かない。見上げたままじっと待っていると、背中にぼすっと何か当たったような衝撃がして、ふっと振り返ると堂嶋が鞄をぶつけていた。鹿野目と視線を交わすと、悪戯が見つかった子どもみたいな顔をして、無邪気に笑った。 「へへ」 「お疲れ様です」 「なんだよ、冷たいなぁ、鹿野くん」 「・・・他になんて言って欲しいんですか」 「いやまぁ。別に何でもいいんだけど」 本当に何でもないようにははっと堂嶋は笑って、鹿野目の隣に立って同じように全く動かないエレベーターの表示板を眺める。 「鹿野くん、今日のお昼間柴さんと話してた?」 「・・・あぁ、はい」 見ていたのかと鹿野目は少しだけ意外に思った。堂嶋は余り視野の広い人間ではない、そのことで柴田に怒られることもしょっちゅうあるようで、自分でも自覚があるらしかった。ただそれはもう癖みたいなもので、本人は気にしているようだったが、あまり改善されているようではない。 「何の話してたの?」 「・・・デュエットの話です」 「え?ほんとに?」 「佐竹さんが話を通しておいてくれって言っていて・・・」 「うわぁ、ばっかだなぁ・・・柴さん怒ってたでしょ・・・そういうの後輩にやらすあたり佐竹くんらしい・・・」 「怒っていたっていうか、呆れていたみたいですけど」 ふっと息を吐くように鹿野目が言って、堂嶋はそれを見上げてにこっと笑った。それに気付いた鹿野目は、ぎこちない動作でふっと堂嶋から視線を反らした。 「鹿野くん今日さぁ、行ってもいい?」 「・・・―――」 反らした視線を元に戻すと、鹿野目のグレーのジャケットの袖口を堂嶋が掴んでいるのが見えた。視線はこちらにない。それを振り払ってしまいたい衝動にかられながら、鹿野目は何でもないふりをして手のひらで口を覆って、せめても考えるふりをした。 「堂嶋さん、何か色々、吹っ切れてきていませんか」 「うん、そうかも。だって俺、鹿野くんのこと好きだし」 「・・・スキとか・・・」 段々性質が悪くなってきている。鹿野目は口を手で覆っていて良かったと思った。歪んだ口元など堂嶋には一番見られたくなかった。 「セックスも慣れてきたら気持ちいいし」 「・・・―――」 小声でぼそぼそと漏らす堂嶋を見ながら、鹿野目は腕を強く振って袖口から堂嶋の重みを振り払った。そうしないと遣り切れなかった。 「・・・え?なに?」 「いいですよ、来てもらっても」 それに驚いたように堂嶋は声を上げた。本当にまるで何にも知らない人のようだと鹿野目は思ったけれど、それ以上は何も言えなかった。堂嶋の方は見ないで呟くと、しんと冷えた空気に僅かに体温が灯ったような気がした。それでも絶対的に自分はこの男のことを拒否できないのだ、悔しいけれど。そうして多分そのことを堂嶋は分かっている。分かっていて言っているし、している。だから袖口の重みを振り払ったのは、鹿野目にとっては狭い世界でのせめてもの抵抗だった。 「あ・・・うん」 堂嶋が曖昧に呟く。どうしてその腕を掴むことが出来ないのだろうと思っていた。きっと今だって同じように思っている。そしてそれに答えなど見つけられないことを、鹿野目はよく分かっているし、だからこそ期待もはじめからしないでいるのだ。

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