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第七話 自覚①

「律、無理しなくていいんだよ」  冬夜と出逢ってから、さらに何日か過ぎた月曜日。  俺は大学へ行くために身支度を整えて、玄関で靴を履いていた。今日もまた一段と寒くなると、お天気キャスターが言っていたから、母さんは俺にウザいくらいにカイロを持たせてくれた。  病気って、別に感染症とかそう言うんじゃないのに、と思ったけれど、形はどうあれ優しさは受け取っておくことにした。 「無理はしてないよ、父さん。俺、自分でできることはやっておきたいんだ。後悔しないように、さ」  靴の紐をしっかり結んで、振り返った。背後には両親が並んで立っている。心配そうな表情だ。それも無理ないか。 「何かあったらすぐに連絡しなさい」 「ん、そうする」  いってきます、と玄関を勢いよく開けた。思った以上に寒くて身震いする。でも、母さんがたくさん持たせてくれたカイロのおかげで、すぐに歩き出すことができた。  人は少なからず誰かの世話になって生きている。  冬夜の言う通りだ。俺ひとりだったら、寒さに備えてカイロを沢山持つなんてことできなかった。  こんな小さなことだけど、俺は確かに家族や周りの人達の世話になっている。  俺を支えてくれる家族に、ちゃんと話すことができてよかった。全部冬夜のおかげだ。  大学にもまた行こうと思えた。これも、冬夜があの日、泣きじゃくる俺を受け入れて、優しく撫でていてくれたおかげだ。  神様は偉大だなぁ。そんな存在を、一発ブン殴ってやるなんて考えていた自分が恐ろしい。  そんでもって、神様にあんなことやこんなことをされて、涙が出るほど感じていた自分を思い出して恥ずかしくなった。  いや、アレは事故だ。事故。  あんは恥ずかしいのは事故だったと思いたい。  冬夜の長い指のゴツゴツした感覚も、ヌルリと動く舌の感触も、硬くて熱いアレが内部を犯す圧迫感も……  俺は首を振って思考を空っぽにしようとした。思い出すと勃ちそうだ。 「律…?」  ふと呼ばれて振り返る。最寄駅のロータリーは、朝の通勤ラッシュのせいで人が多い。  その人波のなかから俺を呼んだのは、クズだけど気の良い友人、有澤だ。 「有澤、おはよ」 「律!!お前、なんで連絡くれなかったんだよ!?心配してたんだけど!!」  有澤はバタバタと駆け寄ってくるなり、ヒシッと抱きついてきた。背中に回した腕に、これでもかと力を込めるものだから、俺は苦しくて有澤の背中をタップしてギブアップを告げる。 「悪い悪い。ちょっとひとりで考えたくて、ずっと無視してた。ごめんな」 「いいよ…元気そうじゃん。良かったぁ」 「あはは、大袈裟だなぁ」  有澤が身を引いて、俺の体を上から下まで眺める。それから泣きそうな笑顔を浮かべた。 「良かった、ほんと、良かった。急に悪化したとかだったら、俺、どうしようかと思ってた。俺はお前の家族じゃないからさ、病室とか気軽に入れないだろ?もしもの時、連絡も来ないし」 「おい、お前何言ってんの?お前は俺の彼氏かよ!」  思わず吹き出してしまった。ゲラゲラ笑う俺に、有澤はムッとした表情を浮かべる。 「お前に会えなくなるのイヤなんだよ!!」 「はいはい、親に連絡するように言っとくから、これ以上笑わすな」 「俺は真剣に言ってんの!!」  未だに治らない笑いを堪えながら、俺たちは駅のホームへ向かう。大学へはたった三駅ほどで、その間満員の車内で立っているしかないのだけど、有澤は自然と手を伸ばして俺を支えてくれた。  久しぶりの大学では、よく合コンに誘ってくれていた友人たちやサークルのメンバーが話しかけてきた。  ずっと休んでいたことを気にかけてくれていたようで、俺はちょっとした芸能人みたいに囲まれてしまい、休んでいた理由をしどろもどろに答えた。  酷い風邪をひいていたんだとか、そんな感じで受け流していると、見かねた有澤が追い払ってくれてことなきを得た。  俺はこれ以上誰にも病気のことを言うつもりはなかった。  心配をかけるのは、身近な人たちだけで十分だと思っていたからだ。  どのみち大学も、近く退学することになる。車椅子で行くこともできるけど、そんな惨めな姿を見られたくはない。  病気のことを家族に話すことはできた。  でも正直、受け入れられたかと言えばそんなことはない。  今でも、自分は不幸だ、惨めだと思うことをやめられない。  少しマシにはなったけれど、みんなの笑顔を見ているのも、本当は少しツラい。妬ましい。羨ましい。どうして俺なんだよ、と不安と怒りが込み上げてくる。  泣きそうだ。泣いて喚いて、叫び出したい衝動が、ふとした時にやってくる。 「あれ、律くん、スマホ首から提げてたっけ?」  講義の前、隣に座った女子が俺を見て言った。 「ああ、最近よく無くすから」 「へぇ。なんだか小学生みたいね」  その女子はニッコリ笑って話を切り上げた。無邪気な笑顔だった。  きっと悪気はない。それはわかってる。  話さないと決めているけれど、本当のことが言えたら、少しは楽なのかな?とも考える。  俺が好き好んでスマホを首にぶら下げているとでも思っているのか?  本当は、この前の土曜日あたりから、手に力が入りにくくなっていて、スマホを落としてしまうことが増えた。  それを見かねた妹が、ネックストラップを買ってきて取り付けてくれたのだ。  ALSは運動神経の障害で、体が思うように動かなくなる病気だ。俺の場合は足から。最近、普通に立っているだけで転んでしまうことも増えた。  そんで次に症状が出始めたのが手だった。  右手の親指の付け根が、まるで言うことを聞かない時がある。そのせいで箸もペンも上手く使えなくなった。  ノートを取らないのにどうして大学に来ようと思ったんだと、自分の決断を呪いたい。上手く食事が出来ないと、途端に食への興味が薄れてしまった。  こうして日々できないことが増えて、なんにもしなくなって、そのせいでさらに筋力が衰えて。  いつか、確実に動けなくなる。 「辛いよな。なんも知らねぇヤツらに好き勝手に言われて。でもさ、こうやってちゃんと大学に来ようと思ってさ、それを行動に移すことができるお前はすごいよ」  有澤が俺の手を、動きにくくなった右手をギュッと握りしめて言った。小さな声だったけど、それはちゃんと俺の耳に届いた。  ほとんどの講義が被っている有澤は、常に俺の隣にいてくれる。 「俺だったらムリだなぁ。逃げたまんま、もう誰にも会いたいとか思えねぇわ。だから、律は偉い!!スゴイ!!大好き!!」 「フフ、大好きはいらないよ」 「え?ヒドッ!結構ガチなのに!!」 「誰にでも言うくせに。でも、ありがとう」  有澤はまたムスッとしたけど、ニッと唇を歪ませて笑ってくれた。不器用な友人。本当は俺と同じくらい泣きたそうなことがわかる。この友人が、とても涙脆いことをあの日病院に行った時に知ったのだから。 「あと何日これるかわからないけど、有澤は俺の傍に居てくれるよな?」 「当然だ。だってお前は俺の、」 「記念すべき100人目にはならないよ?」  クソぅ!と有澤が頭を抱える。  こんな時間が、とても楽しくて幸せだと、病気になって初めて知れた。  不幸中の幸いだ。今、俺はちゃんと生きているんだと、思うことができている。

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