12 / 28

第十一話 自覚⑤

「じゃあ、俺もう歩かない方がいいってことですか」  翌日の昼、わざわざ仕事を休んで、両親がやってきた。  残念なことに、俺は一時入院ということになっていた。目が覚めたとき、そこが病院だったからとても驚いた。  病室は四人部屋で、俺のベッドは窓際だった。カーテンで仕切られた狭い空間に、どうしたって目を引いてしまう車椅子の無骨さが、イヤでも現実を突きつけてくる。 「律くん、歩くのがダメだと言っているわけじゃないんだよ。ただ、車椅子の使い方も知っておいて欲しい」  主治医の先生は、四十代前半のとても優しい話し方をする人だ。いつも俺を気遣ってくれる。何度だって説明してくれるし、絶対にイヤな顔をしない。 「俺には、お前はもう歩くなと言われているようにしか思えない。どうせ車椅子の使い方がわかっても、そのうち手も動かなくなるんだから、そんなのやったってムダだ!!だったら、這いずってでも歩いていた方がマシだッ!!」  誰も、何も言わなかった。だた啜り泣く俺の声だけが、シーンとした病室に響いていた。ボタボタと勝手に溢れ出す涙は一向に止まる気配もなく、まず母さんが顔を覆って去って行った。その後を追うように、父さんも出て行ってしまう。  さらには、また来るよと言って先生とリハビリの羽山さんも行ってしまった。  俺はひとり。  取り残された気分だった。  悲しかった。惨めだった。昨日まで、俺はちゃんと歩けていたのに。  誰ももう一度歩けるようになるとは言わなかった。 「ふう、グスッ、ぅ……」  なんで俺ばっかりこんな目に遭うんだ?  俺が一体何したっていうんだ?  もうやめたい。  生きていたく無い。  これからもっと、もっと辛いことがあるんだ。  次はどこだろう?  手が動かなくなったら、その次は?  話せなくなる?  どこもかしこも動かなくなる?  それで、息ができなくなって、どうなる? 「律、律。泣くな」  優しい声。顔を上げる。冬夜の灰色に煌めく瞳が傍にあった。吸い込まれそうなその瞳を見つめていると、どうしたことかいつのまにか涙が止まった。 「少し外の空気でも吸いに行こうか」 「勝手に出て行ったらダメだと思う」 「なぜだ?」 「だって……」  俺はもう歩けないんだ。  それを自分の口で言うことが、まるで拷問みたいに感じた。熱した鉄を腹に流し込まれるみたいに、ジクジクとイヤな痛みさえ感じる。 「バカだな。お前が歩かないなら、オレが代わりに歩いてやる。どうせ歩けたってオレの背中が好きなくせに、しょうもない意地を張るな」 「別に、意地張ってるわけじゃない!」 「お前は威勢のいい子だったな、昔は」 「へ?」  どう言う意味だろうと首を傾げると、冬夜はニヤリと微笑んだ。それからベッドに腰掛けて、早くしろとばかりに俺を見る。  仕方ない。冬夜はいつも強引で、俺にはどうしたって逆らえない。  それに嬉しかったのもあった。病院へ運んでくれたこと、きっとそのままずっと手を握っていてくれたこと、そして今日も、傍にいてくれたこと。  全部が嬉しくて、だから俺は、冬夜には逆らえない。  冬夜の首に腕を回し、大きな背中に身を寄せた。冬夜はゆっくり注意を払いながら、俺の尻の下に腕を回して持ち上げる。  おんぶされるのは何度目だろう。  冬夜のいうように、俺はこうされるのが好きだった。御堂からの帰りは、疲れただのなんだの理由をつけて、毎回おんぶしてもらっている。  出来るだけ揺れないように気を使ってくれているのがわかる。  そのまま廊下に出て、まっすぐエレベーターへ向かって行く。一階についてすぐ、どうしても我慢できないくらいお腹が鳴った。密着しているから、当然冬夜にはバレバレだ。 「クッフフ、さっきまでビービー泣いていた奴が、今度は腹の虫とは笑える。何か買ってやろうか」 「うるさいなぁ…つか、お金あんの?」 「多少はな」  神様だからお賽銭か?だったらなんか悪い気もする。今度また何か作って返そう。そう考えて、ふと気付いた。  さっきまで落ち込んでいたのに、俺はまた、次は何をしようかと考えることができていた。冬夜に何か作ってあげる自分を想像した。  死にたいと思っているのも事実だけど、同じくらい生きたいとも思っている。ただ少し、目の前の現実が受け入れられないだけで。  院内の売店へ入り、狭い通路をおんぶされたまま進む。 「冬夜、何か食べたいものある?」 「ん?」 「退院したら、また作りたいなって思って。何がいい?」 「稲荷寿司がいい。それよりお前、早く選べ」 「わかった。あ、俺肉まんがいい。まだ外寒いし」 「何?あんまんにしろ。そして半分こだ」 「え?ケチくさ!…まあいいけど」  俺をおんぶしたまま、冬夜は器用にお金を払ってあんまんを受け取る。  熱い湯気に甘い匂いが混じっていて、またお腹が鳴った。  病院の外には、小さな中庭がある。  手入れの行き届いた花壇と、ベンチがいくつか置かれている。  そのひとつに腰掛けて、ふたり、半分こしたあんまんを食べた。 「本当に歩けないのかな」  信じられない。だから確かめたい。  もしあのまま病室にひとりだったら、きっと立ってみようとは思わなかっただろう。 「オレが支えてやる」 「うん」  病室からそのまま出てきたから裸足だったけど、そんなこと気にしている余裕はなかった。  冬夜の手を掴んで、ひと思いに立ってみる。 「あっ」  ガクリと膝が折れた。冬夜の手が咄嗟に腰を支え、そのまま膝の上に引き寄せられる。そのおかげで、無様に地べたにへたり込まずに済んだ。 「なんか、めちゃくちゃ不思議だ。感覚はあるのに、自分の足じゃないみたいだ」 「アホ。どうなっても、自分の体は自分のものだ。大事にしてやれ」 「うん」  冬夜の手が愛おしげに膝を撫でる。 「お前が行きたいところには、オレも行ってやる。したいことがあれば言えよ。律はひとりじゃない」 「ん」  どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう?  神様からしたら、俺なんてただの人間の一人なのに。  聞いてみたいけれど、聞かない方がいい気もする。  だから、取っておくことにした。  最期まで取っておく。  それが俺の、最期の楽しみだ。

ともだちにシェアしよう!