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第十三話 束の間のひととき②

 四月になった。  俺の体調は相変わらず、いい日もあれば悪い日もあった。  そんな日々を繰り返し、それでもなんとか動けるなという今日、俺は久しぶりに外へ出た。 「本当に水族館連れてってくれるの?」  玄関で俺の靴を乱暴に履かせてくれる冬夜に聞くと、不機嫌そうな顔を上げて俺を睨みつけてきた。 「何度も言っているだろう。お前が行きたいと言ったんだから行くに決まってる!」 「俺が?いつ?」  どう考えても口に出して言ったことはない。寝ぼけてたとかなら、まあ、あるかもだけど。 「先週、お前の夢が見えた。その中で、お前は確かに水族館やら遊園地やら、海に花火に……なぜ栗なんだ?」  訝しげに言う冬夜。それで、はたと思い出す。  そういえばそんなこと考えながら寝てしまったことがあった。  いやでも、あれはただの夢だ。口に出したわけではない。 「お前、オレがなんなのか忘れたか?隠し事してもムダだ」 「あー、なるほど、勝手に人の頭ん中覗く変態だったなぁそういえば」  ジトっとした目で見やれば、冬夜は怒って俺の足を叩いた。 「何とでも言え。ただな、思っていることを夢の中で完結するな。願い事を叶えてやるのは、オレの仕事なんだから」  仕事か。  そりゃ、神様だもんなぁ。それが仕事というのはわかるんだけど。  なんだか悲しくなったのも事実だ。  俺の行きたいところに連れて行ってくれるのは、冬夜にとっては仕事なんだ。 「ん、次からちゃんと言うよ」  俺がそう答えると、冬夜は嬉しそうに笑った。 「本当に何から何までありがとうね」  母さんがやってきて、冬夜に礼を言う。こんな重い病気の人間を、好き好んで連れ出そうとする冬夜には感謝しても仕切れない、と昨晩父さんと話していたのを知っている。  その言葉に、少しだけ悲しくなった。  父さんも母さんも、俺の願いは聞いてくれないんだと思った。でもそれは仕方ない。だって怖いだろ?いつどんな症状が出るかわからない人間を、どこかに連れて行こうなんて思わないよ。  両親には日々の生活の面倒を見てもらえるだけありがたいと思っている。  それでいい。  これ以上のわがままは言わない。 「気にするな。オレは好きで、律と出掛けたいと思っているのだからな。ほら、抱っこしてやろうか?」 「ちょ、もうちょっと丁寧に扱え!!うわあああっ」  冬夜がヒョイと軽々しく俺を肩に担いで玄関を出る。母さんの心配そうでいて楽しそうな笑顔が見えた。 「気をつけてね」 「うん、いってきます!」  冬夜は父さんの車を借りていて、今日は海の近くの水族館に行く予定だった。父さんの車には俺の車椅子も積んである。移動はもっぱら、冬夜に担がれるか、車椅子のどちらかだ。  でも俺は出来るだけ冬夜に触れたくて、いつもわがままを言って抱っこしてもらう。二十歳の男が恥ずかしくないのかと思われるかもしれないけれど、なんせ俺には時間がない。  自由に振る舞える体もない。  だたわがままを言って、かまってもらうしか触れ合える方法が無い。 「律は、我慢しすぎだ。もっと言いたいことを言ってもいいんだ」  車を運転しながら(神様なのに運転できることに驚いた!!)、冬夜が静かに言った。 「本当に思っていることを、なんだって言う権利があるんだ。お前はそれを忘れてしまったのか?」  忘れているわけではなかった。  少し前までは、自分の病気のことが怖くて、ほかに何も考えられなかったというのが正直なところだ。  それから何ヶ月か経って、今はただ、誰かに迷惑をかけていないかと、そればかりが頭を過ぎる。 「この前の家族とのことも、オレは納得していない」 「あれは……」  俺は少し言葉に詰まった。  冬夜が持ち出したのは、つい先週の土曜日だか日曜日だかの晩のことだった。  俺は今、自分の体を上手く動かすことができなくて、かろうじて体幹の保持と、腕を持ち上げるくらいのていたらくなんだけど、そうなると夜間に何度か敢えて寝返りをしなければならない。  これは床ずれ防止のためで、わりと重要なことだからいつもアラームをかけて自分でやっている。  でも弱った俺には、自分でするにも限界がある。それを母さんがとても心配していて、何度も様子を見にくることがあった。  母さんには、トイレに行くときも、風呂に入るときも手を貸してもらっているから、夜くらいはゆっくりしてほしいのに、何度も何度も起きてくるから、ついに体調を崩したのだ。  体調を崩すと言っても、大したことはなくて、ただ日中安静にしていたから夕食が出来ていないとか、それくらいの事だった。  中村家で、母さん以外に料理ができる人はいなくて、で、俺は言った。 「たまには外食してくれば?」と。  父さんも母さんも最初は渋った。俺をひとり、家に残していっても大丈夫かと。  でも、妹の愛香は久しぶりの(俺の成人式以来かもしれない)外食に、とても喜んだのだ。  愛香は今年高校生になったばかりで、俺が入院していたこともあって入学のお祝いが遅れていた。それも含めての、俺の提案だった。  自分の食事は、適当に高カロリーのジュースでも飲んでおけばいいし(本当はちゃんと食べないとダメだけど、あいにく動けないと腹は減らないのだ)、何かあったら電話すると言って、半ば強引に追い出した。  その一時間後、いつもより酷い痙縮の痛みで、ベッドの上をのたうち回る(実際にはあんまり動いてはいない)ことになった。  四月から新しく処方された痛み止めには、痛みのひどいときにだけ使ってもいい分量が決められていた。でも、その予備の薬を自分で飲めるような元気もなくて、父さん達が帰ってきたとき、俺はベッドから落っこちて気絶していたそうだ。  それだけなら家族の間で、まあ、たまにはそう言うこともあるよな、と済ませることができた。誰も悪くない、ただの事故だと言って笑っていられた。  だけど、そう思ったのは俺だけだった。  父さんは慌てて救急車を呼んだ。救急患者として運び込まれた俺はそのまま一泊入院して、次の日看護師が話しているのを聞いた。 「律くんのご両親、律くんを家に置き去りにして外食してたんですって」  居た堪れなくて、悲しくて、俺はベッドの上で泣いた。  家族の誰も悪くない。俺はみんなに、たまには息抜きして欲しかっただけなのに、世間はそうは思わない。  家族の介護能力不足とか、誰も言わなかったけれど、虐待だとか思っている人だっていたかもしれない。  そんなこと、ないのに。  申し訳なかった。俺がこんな状態だから、家族は嫌な目で見られてしまうのを避けられない。  それは多分今後もっと酷くなるだろう。  今でこそこうして俺はまだ話すことができるけれど、話せなくなってしまった時、誰も家族の弁解ができない。  退院して家で過ごすことになってから、またぐんと体重も減った。それを、普段から介護が十分じゃないからだと言う看護師もいた。  違うんだ。俺はちゃんと、母さんの作った栄養のあるものを食べさせてもらってる。でも飲み込めない時だってある。動かなければ、そもそも腹も減らないんだ。  だから俺は、主張するのをやめた。  これ以上、どうしていいのかわからなかった。 「言いたいことを言っても、迷惑かけるだけだからさ。みんなにはもうちょっと我慢してもらうしかないんだ。俺が死ぬのなんてわかりきってるんだから、あと少し、あと少しだけ、我慢してもらうしかないんだ」  俺が何をどう言ったところで何も変わりはしない。  健康じゃないということが、どれほど社会的弱者に成り下がるのかを、この時痛いほど理解した。 「律…お前の苦しみをわかってあげられる人間が少ないことは、とても残念に思う。だが、諦めるな。お前はまだ生きているんだから」 「生きた屍まっしぐらだけどな」 「そんなことを言うな。どうせ言葉にするのなら、もっと前向きなことを言え。例えば、今日の昼飯は何にするかとか」 「昼飯なぁ…俺に食べられるものがあるかな……」  冬夜の気持ちは嬉しい。俺がこうしてまだ笑っていられるのも、冬夜がいるおかげだ。  どれだけ言葉を選んでも、神様の前に、下手な取り繕いは返って余計だ。  なんでか俺の心まで読んでしまう冬夜に、嘘も取り繕うことも無意味だから、楽でいられるのだ。 「今日はデートなのだろう?だったら、お前はただわがままを言えばいいんだ」 「ん、そうする」  心が暖かくなる。  俺はこうして、冬夜と出会うために病気になったのかもしれない。  そうだったらいいな。  最悪の事態が、最高の贈り物に思える。  恋は不思議だ。  家族には悪いけれど、俺は今、割と幸せを感じている。

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