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第十五話 意志①

 六月の雨は、どんな体調であっても憂鬱だ。  例え手足が動かなくたって、たった今飲んだ水を吹き出したって、憂鬱だから仕方ない。 「そんな顔しても、梅雨はしばらく続くぞ」  冬夜は俺の吹きこぼした水を拭き取り、困ったように笑った。 「お、ぇ…つゆ、きらい」  この一週間で、また症状が進行した。球麻痺の症状のひとつ、構音障害が酷くなったのだ。  そのせいで呂律が回らなくなって、上手く話すことが出来なくなった。  こうなると、もうホント、外に出る気も失せてしまった。梅雨のせいもあるけど。  話せなくなってくると、家族とのコミュニケーションも困難となる。出来るだけイエス、ノーで答えられるようにしてもらわないとダメで、細かい返事はできない。  もう少し姿勢を真っ直ぐしてほしいとか、ちょっとだけ喉が渇いたとか、そんなことが伝えられないもどかしさが、俺の心を酷く憔悴させた。  こんな状態になっても、考えることも、感じることも正常にできるのだ。  それと俺の日常にまた新たな変化があった。  ALSは国の指定難病で、医療保険による介護認定が受けられる。国からいくらかの補助金が出るのだ。それを点数ギリギリまで使って、訪問介護師と訪問看護師が週に何度かやってくるようになった。  一日か二日おきに誰かが来て、俺の体を隈なく観察していく。もしくは体を拭いたり、他にもいろいろやってくれる。  それがとても辛かった。俺はとうとう、家族だけじゃなくて他人の手を借りないと生きられなくなってしまったと、思い知らされているみたいで、とにかく辛かった。  食事もなかなか喉を通らなくて、どうしたってむせてしまう。冬夜がいる時は根気よく沢山食べられるようにしてくれたけど、夕食だけはどうしても食べられなかった。母さんの辛い顔を見ていると、食べたくても食べられないのだ。  俺が早く死ねば、みんな解放される。  こんな惨めな姿、一刻も早くこの世から消してしまいたい。  そんな思いから、食事を拒否するようになってしまっていた。 「とう、や」  大好きな人の名前も、ちゃんと呼ぶことができない。それだけじゃなくて、もう自分から触れることもできない。  毎日泣いていた。涙は出なくても、俺の心はいつも涙を流していた。  たった半年だ。  その間に体重は二十キロも減った。今の俺は骨と皮のミイラだ。つい先月まで、俺はまるで水を得た魚のように、出掛けることを楽しんでいたのに、そんなことが嘘のようだった。 「ん、どうした、律?」  手を握ってくれる温かさだけが、今俺が生きている証のようだった。  そしてもうひとつ救いだったのは、冬夜とは心で会話が出来たことだ。  以前から俺の心を読んでいた神様である冬夜は、俺の細かな気持ちを察してくれる。  母さんがパートでいない時、俺の世話をする人が来ない時、冬夜は、白銀の柔らかい尻尾を出して、俺を包み込んでくれた。そうしてする会話に俺の声はないけれど、この瞬間だけが、俺の唯一の楽しみで生き甲斐だった。 「はあ?お前、変な妄想ばかりして、案外元気じゃないか」  冬夜がクツクツと笑う。俺の頭の中では、夏祭りに花火を見ながら、その下でキスをする俺と冬夜のイメージがあった。恋人っぽくて憧れのシチュエーションだ。 「八月か。もう少し、先は長いな」  そうだね。でも、それで出掛けるのが最後になってもいいから、俺は冬夜と花火を見に行きたい。 「わかった。必ず行こう。そのためにはしっかり飯を食わないとな」  頑張ってみるよ。でも、どうしたって喉を通らない時があるんだ。このままだったら、そのうち鼻からチューブを入れることになりそう。 「腹に入っちまえば、なんだって同じだ」  そんなこと言うけど、冬夜はあのドロドロの液体を見ていないから楽観的に言えるんだよ。あんなの、どう考えても人間の食べるものじゃないよ…… 「それでも食べないとどうしようもない。お前、ガリガリになってしまったなぁ」  ……そうだ。  冬夜と出会った頃の俺は、もっと人間らしい姿をしていた。 「そうじゃない。オレは、律がどんな姿になっても、変わらず傍にいると約束する」  どうして?  恋人でもなんでもないのに、どうしてそんなこと言うの?  死んだらどうなるの?  それでもそばにいてくれるの?  一緒に死んでくれるの?  もう、来なくてもいいよ。  俺たちは別に、付き合っているわけじゃないんだし。  ……こんなこと、普通に言葉だけで繋がっていたら相手に知られない感情だろう。  いくらでも誤魔化せた感情だろう。  だけど冬夜には、どうしたって全部伝わってしまう。 「律…オレは逃げない。ずっと、お前のそばにいる」  好きです。  あなたのことが、大好きです。  愛しています。  伝わってほしい言葉には、冬夜は絶対に答えてくれない。

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