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第十六話 意志②

 六月後半、兄が家に帰ってきた。  兄は俺の六つ上で、俺が高校生の頃にはすでに家を出ていた。都会の名門大学に進学して、俺にはよくわからないけどなんかすごいことを学んで、有名企業に就職して、とりあえず家族の自慢の兄だ。  中村優は、責任感が強くて真面目で実直で、裏を返せば融通の効かない兄だった。 「母さんも父さんも、律がこんな状況でどうして家で面倒見てるんだよ!?」  兄は帰ってくるなり怒り出した。 「律にもっといい環境で、長生きしてほしいと思わないの!?」  母さんはオロオロと父さんの顔色を伺った。発言する前に他者の顔色を伺うところが、母さんの欠点だった。  父さんは真一文字に唇を噛み締めて、言うべき言葉を熟考している。父さんはいつも考える時間が長すぎるんだよ、と俺は思った。  そんでもって妹の愛香は、リビングに顔を出しもしなかった。 「律がこんなら状態で、本当に満足していると思ってる?」  兄の欠点は、人の話を聞かないことだ。  俺はこうなってはじめて家族のことをよく見るようになったけれど、どうしたって欠点ばかりが見えてしまうのは、俺が今卑屈な感情に支配されているからだと思う。  だけど、兄のその言葉を聞いた時、間違っているぞ!とはっきり言ってやりたくなった。 「ゆう、に、ぃ」  途切れ途切れの言葉を、必死に紡いでみる。弱った肺に精一杯の吸気を取り入れて、本当はあんまりしたくないけど、思い通りに動かない筋肉に力を込めて。  兄のことを呼んだ。 「ゆ、にぃ……」 「律!どうした?律も言いたいことがあるなら、言ってもいいんだぞ!!」  開け放たれた襖はリビングに繋がっている。シーンとしたリビングにも、俺の声は届くかどうかわからないけど、頑張って話してみる。 「おれ、な…ここ、ぇ、しにたい……えん、めいも、しない、で……こ、これいじょ、いきて、いたくない」  もう何ヶ月か前から決めていた。  もし自発呼吸ができなくなったら、気管切開しないでと。  人工呼吸器を使えば、自分で呼吸できなくなっても命は取り留めておける。  でも、そうやって無理矢理体を保つことになんの意味があるのか?  生きるといのは、友達と遊んで、美味しいものを食べて、話して、たまにオナニーしたりなんかする、どうでもいい日常のことを言うんだ。  それなのに、呼吸が自分でできないことが、生きていると言えるのだろうか。  今だって、一日中ベッドに横たわったまま、本来なら出来るはずの自分の世話を、他人に任せっきりにしている。  生きているという意味は、どこに行ってしまったのだろうか? 「律!!大丈夫、そんな悲観的になる必要はない!!お兄ちゃんがもっと生きられるようにしてあげるから!!」  兄は、どうやら俺の気持ちを汲み取ろうとはしてくれないようだった。  そうだよな。  家族の死は、どう考えても辛いものだよな。  生きていて欲しいと願うのは、当たり前のことだよな。  それはよくわかるよ。俺だってもし兄や妹、父さんや母さんと立場が逆だったら、どんな状態でも生きていてほしいと願ったと思うよ。  でもさ、兄ちゃんは、誰かに下の世話をしてもらわないと生きていけないこの状況になっても、生きていたいと思う?  そのうち、鼻からチューブを入れて、ドロドロの食事を注入されることになっても、生きていたいと思う?  大好きな人に好きだと言えない、触れられない、抱きしめることも、キスも、セックスもできないのに、生きていたいと思える?  俺と同じ境遇を体験しなければ、絶対にこの悔しさや悲しさはわからない。  兄は唇を噛みしめて、まだ何か言いたそうにしていた。 「とりあえず、今日はここまでにしておくよ。また明日話し合おう」  兄のその言葉で、この日はお開きとなった。  父さんがおやすみと言って、静かに襖を閉める。しばらくして、リビングから母さんの泣く声が聞こえた。  その晩、俺はとても幸せな夢を見た。  俺は前の元気な体で、冬夜のいる御堂にいた。  冬夜は俺の後ろにいて、いつもみたく少し強引に力強く腕をまわしてきて、ギュッと抱きしめてくれた。  振り向くと唇に熱い感触があって、そのまま舌を強引に捻じ込んでくる。  両手を絡め取られ、俺はされるがままに押し倒されてしまった。  脳みそが蕩けてしまいそうな情熱的なキスと、有無を言わさない手の力強さに、抵抗する気すらなく受け入れる。  冬夜の舌が首筋を降りていく。ゆっくりと、確実に俺の気持ちよくなるところを責め立てる。  もうどれくらいこんなふれあいをしていないだろう。  恋しい。愛しい。この感覚を、懐かしく思う自分が悲しい。  夢の中の冬夜には、とてもリアルな感触があった。  いっそ生々しいその感触は、目が覚めてもしばらく消えてはくれなくて、だからより一層、生きることが辛くなった。

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