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第二十五話 願い⑥

 いつもの小さな山を、スーッと登って、てっぺんの開けた場所に立つ古い御堂の前へやって来た。  歩けなくなってから、一度だけ冬夜に連れて来てもらった。  四月の花見の時だ。  ここは、地元の人だけが知っている花見ポイントで、御堂の周りを囲むように大きな桜の木が立っている。  ばあちゃんとの思い出の場所でもあった。昔はここで、兄と妹とばあちゃんと、弁当を持参して花見をしたのだ。  ばあちゃんとの思い出が多いのは、両親が共働きで、家にいないことが多かったからだ。俺たち三兄弟、いつもばあちゃんの家にいた。  昔からばあちゃんは、ここの御堂に稲荷寿司を備えるのが日課だった。足腰の元気な時は毎日。少しずつ体力が衰えると、二日に一度、三日に一度と、回数が減っていった。  最初の頃は、俺たち兄弟も手伝っていた。ばあちゃんが行けない時は、代わりに稲荷寿司を持って来ていた。  丸皿に三つ。季節に合わせて、中身の具材を変えて。  ばあちゃんは、ここに嫁いできてからずっと続けていた。  何も祭られていないような、寂れた御堂に、どうしてお供物をしているのかと聞いたことがある。  するとばあちゃんは、ここには偉大な神様が居られるんだよ、姿は見えないけれど、確かにいらっしゃるんだよ、と言った。  俺はガキで、ばあちゃんは何を言っているんだ?とバカにしていた。  バカにしていたのに、俺はその神様に恋をした。 「ああ、もう、時が来たのか」  冬夜は、出会った時と同じ和服姿だった。頭にぴょこんと可愛らしい狐の耳と、ふさふさの尾が四つ。心なしか、ションボリしているように見えた。 「そうみたい。あー、やっと解放された。辛かったよ、それはもう死にそうなくらい辛かった」 「よく耐えたな。お前はやっぱり強い子だ」 「病気になってからの俺しか知らないくせに」  俺は拗ねたように言った。冬夜はフフンと鼻を鳴らして笑う。 「お前は知らないだろうが、お前のことは小さい頃から知っている。幸の孫は、どれもうるさいくらい元気だと思って見ていた」  |幸《さち》というのは、俺のばあちゃんの名前だ。 「幸はここに嫁いできた頃、毎日メソメソと泣いていた。生まれ育った地を離れて寂しがっていた」 「ばあちゃんが?ホントに?」 「ああ。ここの、縁側に座ってな。オレはもともとただの狐で、ここの御神体でも何でもなかった。天狐にはなって神格を得ても、どうでもいいとすら考えていた」  冬夜はまるで遠い日を思い出すように、視線を御堂に向けた。そこに泣いているばあちゃんでも見ているようだった。 「ただの暇つぶしのつもりだった。オレはある時、狐の姿を幸の前に晒したのだ。いつまでも泣いている幸が鬱陶しくて、ここはオレの居場所だ、泣くならよそでやれと言いたかったのかもしれない」  でも、と冬夜は薄く笑う。 「幸は、オレを見て笑顔を浮かべた。銀狐だと言って、嬉しそうに笑った。それからも幸はここへ通って来た。何故か、オレもそれが楽しくて、毎日ここで幸を待っていた」  冬夜がどんな気持ちでいたかはわからない。でも俺は、なんだかちょっと妬いた。  だってばあちゃんのこと、好きだったのかもしれないと思うと居た堪れない。というか、そんなこと考えている自分が居た堪れない。 「幸はオレに一方的に、どうでもいいことを話した。家族のこと、故郷のこと、いつからから、お腹にできた子供のこと。その子供の成長も、ついには孫ができたことまで」  そこで、冬夜は深く長く、息を吐き出した。軽く目を瞑る。次に瞼を開けたとき、灰色の目には悲しい色が浮かんでいた。 「長く関わりすぎたと反省はしていた。あまりにも泣くものだから、オレはなかなか幸から離れることができなかった。でも、長い年月の中で、家族が増えて笑顔となった幸に、オレはもう必要ないと思った。いつまでもこの世のものではないものに、心を囚われてはいけない。だから、孫が産まれたと同時に、オレはここを一度去った」 「なんで関わっちゃダメなんだ?」  疑問に思って聞いてみる。すると冬夜は、淡々とした口調で答えた。 「この世のものではないものが、この世のものと長く接すると、その人間の存在がこちらに引っ張られてしまうのだ。神隠しなんかは、人と妖者が深く交わってしまい、人がこちらへ戻れなくなって起こるのだ。それと、神にみそめられたものは、総じて寿命が短いと言うだろう」  ふーん、と俺が首を傾げると、冬夜は呆れた顔で首を振った。 「ともかくな、オレは幸の前から去り、ねぐらを変えた。その間にも幸が、稲荷寿司をここへ供えていると知っていたが、所詮は人間のすること。すぐに忘れて、そのうち天寿を全うすると思っていた」  冬夜はそう思っていたけれど、実際ばあちゃんは認知症になるまで、できる限りここへやって来て、稲荷寿司を供えていた。  それほど、冬夜との出逢いがばあちゃんの救いになっていたのだ。  ばあちゃんと冬夜がどんな時間を過ごしていたのかはわからないけれど、きっと俺なんかと違って、尊い時を共に過ごしたんだろうと思った。 「たまに様子を見にくることはどうしても辞められなかったんだが、その時にお前のことを知った。三兄弟の中で、一際うるさいのがお前だった」 「失礼な!まあでも、確かに俺が一番ヤンチャだったかもしれない。いつも兄に怒られてた」  冬夜が俺を見た。その目は、さっきまでの哀愁はもうなくて、ただ俺を見て懐かしそうに笑っていた。 「幸の三人の孫の成長は、オレにとっても楽しいものだった。三千年も生きて来たことが信じられないほど、充実した日々だった」 「まるでジジイだなぁ」 「そうだ。お前が思っているよりオレはもうジジイなんだ」 「開き直った!!」 「オレがジジイで、お前がどんどん大きくなると、仕方ないことだが、幸も歳をとってしまうんだ」  今度は俺が悲しい気持ちになる番だった。きっと、冬夜も同じ気持ちなんだと気付く。 「幸が病を患っていることに気付いていた。それは治らない病だ。神格を得たオレにも、それはどうすることもできなかった。オレの後悔は幸のことだ。何もできなかった。ただ、見ているだけで、あっけなく死んでしまった」  認知症を患って、突然訳のわからないことを叫んで暴れるばあちゃんを覚えている。ものすごく怖かった。  ずっと優しいばあちゃんしか見てこなかったから、そんなふうになってしまったことに、怖くて、恐ろしくて、関わるのを辞めてしまった。  それは俺も後悔している。自分がこうなって、それこそ余計に後悔が大きくなった。 「俺だって、何もできなかった。というか、できることがあるかも考えなかった。みんなは俺にたくさんのことをしてくれたのにな」 「いや、幸のことがあったから。お前のことがあったから、お前の家族は前よりも絆を深めることができたんだ」 「そっか…そうならいいなぁ」  人は経験でしか得られないものがある。俺もそれはよくわかっているけれど、経験が一生の傷にならなけらばいいな。 「ここからは、オレの自己満足の話だが、聞きたいか?」 「もちろん。きっと俺が知りたかったこと、なんだろ?」 「ああ」  冬夜が徐に片手を上げ、ちょいちょいと手招きする。俺はそれに誘われるように、冬夜へと歩みを進める。  てっきり触れられないと思っていたのに、冬夜の手は、俺の腰をガッシリ掴んで、膝の上に迎え入れてくれた。 「久しぶりの冬夜の感触だ」 「そんなことはないだろう?毎日この手を握っていたはずだが」  冬夜は俺の右手を掴んで持ち上げると、手の甲に軽くキスを落とす。  照れ臭いけれど、それだけで俺は幸せな気分になれた。 「んで、冬夜の自己満足ってなんだよ?」  本当は抱きしめてほしいし、キスもしたいけれど、その前にちゃんと聞いておかなければ。俺はいつまでこうしていられるかわからないのだ。 「幸が亡くなってすぐ、お前の運命が見えた。この元気な子は、可哀想に近く病に侵されて死ぬのかと、漠然と理解した」  ばあちゃんが死んですぐか。そんな前から、俺のこの運命は決まっていたんだなぁとなんだか感慨深い。  その当時ならきっと信じなかっただろうけど、発症してから今に至るまで、本当にあっという間だった。こっちの方が余程信じられない。 「オレは迷った。幸の大事なものがなくなることが嫌だと思った。幸の時のような後悔はしたくないとも思った。しかしオレに何ができるのか、手を出してしまったら、さらに寿命を縮めてしまうことにならないかと悩んだ。そうして悩んでいるうちに、お前はひとりで耐えようとした」  そうだった。  最初の頃、俺は病気のことを、家族に話せないでいた。言ってしまったら現実を受け入れなければならない気がした。  まだ二十歳だ。これから、もっともっと俺の人生は続いていくはずだと思いたかった。 「そんな時だ、お前、ここで何て言った覚えているか」  冬夜と初めて会ったあの日。  俺はここに来た。そんでもって、 「セックスしたかったなぁって、今思い出すとマジで恥ずかしいな……」 「オレはそれを聞いて、悩んでいることがアホらしくなった」  ああそうですか。 「アホらしくなって、悩むのをやめた。先の短いお前を、オレが手助けしてやることで幸に報いようと思ったのかもしれない」 「そんで強姦したの?サイテー」 「セックスしたいと言ったのはお前だから和姦だ。それに、随分と良さそうな顔をしていただろう」 「まあ、そうなんだけどさ」  ムスッとして見せると、冬夜は俺の頭をくしゃくしゃに撫でた。無茶苦茶だけど優しい手つきに、思わず笑みが溢れてしまう。 「誤算だったのは、お前に耳と尾を見られたことだ。普通は見えないはずなんだが、すでに彼岸に近い存在だったお前には見えてしまったようだ」 「隠す気ないのかと思ってた」 「結果的にバレてしまって良かった。あとから説明するのも面倒だ」  ってことは、隠していてもいずれ話すつもりではあったのか。 「そんで?ずっと俺の傍にいてくれることにしたのはわかったけど、それが自己満足?」  冬夜の胸にもたれて、上を見上げる。灰色の瞳と真っ直ぐ目が合った。 「いや、本題はこれからだ。お前と過ごすうちに、オレはお前を死なせるのが惜しくなった。そしてお前はオレを好いてくれる」 「大好きだよ、今も。これから天国でも地獄でも、もうどっちでもいいけどさ、離れてもずっと好きだよ」  そろそろお別れだからと、俺は素直に自分の気持ちを言った。冬夜は俺の頭の中をのぞいていたから知っているだろうけど、やっぱり自分の口で、声で伝えられるのは嬉しい。 「お前の想いは知っていたのに、今まで応えてやれなくて悪いと思っている。ただ、お前にはお前の人としての生を全うして欲しかった」 「十分全うしたよ。したかったこと、行きたかったとこも、けっこう叶えてもらった。後悔はないよ」  後悔はないか。実際のところ、ないことはないんだけど。  でも口に出してそう言える日が来ると思っていなかった。  家族にも、有澤にも、冬夜にも、大きな感謝でいっぱいだ。 「今、お前がそう言ってくれたことが、オレにとってどれほどの救いか。だから心置きなく伝えることができる」 「ん?」  俺はまた、冬夜の顔をマジマジと見つめた。 「オレと共に、生きる気はないか?」  ……?  どういうこと? 「人の世に未練がないのなら、これからはオレと、長い時を共に生きてはくれないか」 「えぇ、と、へ?」 「律がまた、人としてこの世で生きたいのなら、輪廻の輪に戻り、生まれ変わることができる。しかしオレと生きてくれるなら、オレは律を自分の眷属として傍におきたい……ダメか?」  冬夜の手が俺の手を握っている。言葉に自信はないくせに、決して離すまいと手が物語っている。  答えは決まっていた。  そんなの、ひとつしか思い浮かばなかった。 「俺の最後のお願い、聞いてくれる?」  冬夜はムスッとした顔をした。俺はこの、とっても歳上の狐の神様が、案外人間っぽい表情をするのが好きだ。  俺のことでこうして色々な表情を見せてくれるのが嬉しい。 「なんだ?」  本当は、最期に冬夜の気持ちを聞こうと思っていた。  どうして俺の傍にいてくれたのか?  俺のこと、どう思っていたのか?  もし、別の出逢い方をしていたら、先はあっただろか?と。  だけどもう答えはいらない。  今、冬夜が言ってくれた言葉が全てだから。 「永遠に、俺の傍にいてください」  迷いは無かった。  もう二度とこの世に生まれることができなくても、たった一度のこの人生に、真剣に寄り添ってくれた冬夜が好きだ。  変わらず手を握っていてくれる温かさが愛おしい。  そして何より、 「冬夜の長い寂しさを、俺がそばで癒してあげるね」  どうにもならない辛さ、寂しさを知っている。  そんな時に寄り添ってくれる人がいることが、どれだけ励みになるのかも知っている。  辛く苦しい夜に、好きな人がいることを想うと、どれだけ救われるかも知っている。  これからは俺が、冬夜を支えるのだ。 「律。ありがとう」  俺は、灰色の瞳に、これまで以上の笑みを向けた。

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