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第二十六話 冬夜

 その少年は、梅雨のジメジメした道を、泥を跳ね上げて快活に走り回っていた。  背中に泥が跳ね上がる。白いシャツを着ていることなんて、全くどうでもいいようだった。  見かねた少年の兄が嗜めるも、まったく聞く耳を持たず、案の定ぬかるんだ地面に足を取られてすっ転ぶ。  少年は涙目で体を起こし、それを兄が宥めた。少年は泣かなかったが、服が台無しになった。  幸の三人の孫は、うるさいくらいに元気だった。  もはや関わるまいと決めたことなど何処へやら、オレはこの儚くも生命力に溢れる小さな命を、飽きずに追っていた。  人には定められた天命がある。  天つ神からの直々の勅命だ。覆ることはない。  その定めの中で、そうとは知らず足掻く愚かな生き物が人というものなのだ。  それをわかっていたのに、狐の姿とはいえ幸の前に姿を表してしまっただけではなく、その孫の天命にまで手を出した。  最初はただの興味本位。その次に、幸への後悔の念から、オレは律に声をかけた。  人間は脆くて弱い。  律もそんな儚い存在だった。肌を重ね合わせ、その温かさを感じても、一年もしたら消えてしまうものなのだと、残念に思った。  でも律は、自分の未来がない事を知っても、懸命に生きる努力をした。  セックスしたかったなぁと言っていた男とは思えないほど、律は自分の生に誠実だった。  幸のことがあった時、オレは後悔した。  もう少し早くに覚悟を決めておけば、幸が病で気が触れる前に、眷属にならないかと誘えたかもしれない。  いや、でもそうすると、辛い記憶を持ったまま、オレと同じ時を生きなければならなくなる。  人にとってそれはとても辛いことだとは、わかっているつもりだ。  そうして悩んでいるうちに、幸は死んでしまった。  もうあんな思いはしたくない。  これはオレのエゴだ。ただ自分が救われたいだけで、幸の時の無念を、律に押し付けた。  でも律は、そんなオレを好きだと言う。  なにも知らないくせに、愛しいと思ってくれる。  そんな律を、いつしか自分自身も愛しく思っていることに気付いた。  オレは覚悟を決めた。  せめて律が人としての天寿を全うし、それでも、オレと居たいと言ってくれるなら、今度こそ眷属として、その想いに応えよう。  人は産まれ変わる時、全ての記憶を置いていく。  そうして辛かったことを、嫌だったことを忘れて、また新しい人生を歩んでいく。  もし律がオレと共に生きることを選べば、辛い記憶を忘れることは出来なくなる。それに、長い時を生きなければならないことで、親しかった者の死を目の当たりにするかもしれない。  だから最期まで話さずにいたのだ。  そしてその日、律はオレを選んでくれた。  健気で愛しい人の子は、長らく見ることができなかった、満面の笑みを浮かべて、オレの手を取ってくれた。  この笑顔が消えないように。  オレは律を、今度こそ護ってやりたいと思う。 「何考えてんの?」 「ん?ちょっとな」  律は今、オレと御堂に住んでいる。肉体を失くし、オレの眷属となった律は、さながら幽霊のような存在だ。この世の者に見えず、話すこともできない。 「それより、本当に行ってきたのか?」 「あー、うん……あのさ、あんな姿の俺のこと、よく見てられたよなぁ」  律は先ほどまで、自身の葬儀に顔を出しに行っていた。何故そんなことをするのかと聞くと、特に理由はないと言いつつ、その表情は固かった。  しかし、戻ってきた律に、もう暗い影はなかった。 「あんなガリガリになっちゃって、みんなめちゃくちゃ怖かったろうな」 「そんなことはない。見た目がどうあれ、律自身に変わりはない。お前のそばにいたものは、お前の全部を受け入れたからこそ離れなかったんだろう」 「……そうだね」  にこりと笑う律は、やはり昔見た、快活な少年のままだ。本来はこうして笑っていられただろうに、天命とはなんと残酷なことか。 「それよりさぁ、有澤のヤツ、ホントムカつく!!」 「どうかしたのか?」 「それがさ、愛香、俺の前でやっと泣いてくれたんだよ。お兄ちゃんごめんね、さようならって。ちゃんとお別れしてくれて良かったんだけど…有澤がこれ見よがしにハンカチなんか渡してさぁ!!アレ、あいつの常套手段なんだよ、ナンパする時の!!」  律が怒りに任せて地団駄を踏んだ。 「俺の妹に手ェ出したらゆるさねぇからな!」 「そう言うわりに、本気で怒っているわけではなさそうだな」 「うぐっ!?ま、まあ……有澤は本当にいい友人だったから……」  律の黒曜の大きな瞳が揺れる。病に臥せる前の姿の律は、人の子の中でも中性的で魅力のある青年だ。本人は気付いていないが、なかなか好ましく思われていたに違いない。  それが今はオレだけのものだ。こうして眷属にした事を後悔してはいないし、オレを選んでくれたことは素直に喜ばしく思うが……下心がなかったかと言われれば嘘になる。  この可愛らしい生き物を、自分だけのものにしたいと、邪念があったのも認める。  神格を得ているとはいえ、そもそもは狐の妖だ。本質はさほど変わらぬということだ。 「律、妹の心配もわかるが、せっかくこうして共に時を過ごすことができるようになったのだ。ほかにする事があるだろう?」  ニヤリと笑んで言えば、律は途端に顔を赤くした。  ころころと表情が変わるのも昔のままだ。人の子は本当に忙しない。 「そ、そう、だよな…俺両想いってことなんだもんな……」 「何を今更。オレはお前を愛しいと思っているぞ」 「っ、あ、えっと、その」 「おいで、律」  その足で、手で。  今まで一方的に握るばかりだった手。  これからは、自由に動かせるその手で、好きなだけ触れて構わないんだ。どこにだって、自分の足で行けるのだ。  見たいものを見よう。行きたいところへ行こう。  そうして共に時を過ごそう。  お前はよく頑張ったから。しばらくは、たくさん褒めてやろうと思う。  律は顔を真っ赤にして、でも花のように笑う。そして地を踏みしめ、こちらへ両腕を伸ばして飛びついてくる。 「俺を選んでくれてありがと。もう離れないからな」 「離れたくても離してやるつもりはない」  選んだのは律の方だ。  オレを選んでくれて。精一杯生きてくれて、ありがとうと言うべきなのはオレの方だ。

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