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第5話

 人の恋心とは、かつて文豪が奥ゆかしく表現したように、直接的に伝えれば受け入れられるものではないと思う。  パンを咥えて走っていれば、曲がり角でぶつかって、急に一目惚れして惹かれるということもないと思う。  確かに俺とソイツはぶつかったけど、それが恋の始まりになんてならない。現実とはそういうものだ。  普段大人しく目立たない俺と、人気者が釣り合うわけもない。そういうのは御伽噺であって、現実に起こるわけがない。  そして一番の問題は、俺もアイツも男だということだ。  だから俺は、昨日のことは無かったことにした。一万円は手切金だ。もう俺に絡んでくるなという、そういうつもりもあっての、一万円だ。  それなのに、である。 「あ、善岡…おはよ」  大学の正門を潜ると、まるで待ち構えていたかのように、ソイツはそこにいた。少しはにかんだ笑みと、一生懸命に振り絞ったみたいな声で、明らかに俺に対して挨拶の言葉を投げかけてきた。  どうやら本当に待ち構えていたらしい。 「……」  俺はわかりやすく、聞こえていないフリをして通り過ぎる。  昨日帰宅してから思い出したのだが、いきなり俺に告白して来たこの男は、学部内でも何かと目立つグループで、それはもうたいそうオモテになる飯田圭吾(いいだけいご)だ。  俺とは一生絡みのない人種だと思っていた。それなのに、飯田は俺の後をついてくる。 「なあ、ごめん、無視すんなよ!お願い!」  それでも気に留めることなく、むしろより一層歩調を早めて歩く俺に、飯田は長い足で悠々とついて来た。  すれ違う学生がその異様な光景を見ているのがわかる。もとより俺は学内で淫乱とか変態と噂されているし、飯田は目立つ容姿をしている。  講義室に入ると、俺はいつもの最後列窓際の目立たない席に座る。そこなら人の視線もあまり気にならないからだ。だけど、飯田は当然のように俺の右隣に座った。 「善岡、あのさ、昨日はいきなりあんなこと言ってごめん。その、悪かったよ、本当に。だからさ、とりあえず友達から始めてくれないかな?」  友達?  公開処刑(告白)しておいて、とりあえず友達から始める?  一体何を始めようというのか。  俺には何も始める気はないし、とにかく目立ちたくない。 「無視かぁ…はー、まあそうだよな。いきなり話しかけてごめん。ビックリしちゃったよな。善岡が話してくれるまで、オレ待つよ」  良かった。そうしてくれ。そんな機会は絶対に訪れることはないだろうけどな。だからそのまま俺の隣から立ち去ってくれ。お前のせいで、さっきからずっと注目されているんだから。  と、思っていたのに、飯田は一言も話すことはないまま、俺の隣に居座り続けた。  講義が始まっても、休み時間が来ても、飯田は俺の隣から動かなかった。そうなるとどうしても、時々隣を見てしまうわけで。  長くて退屈な講義の合間、一瞬だけ目が合う。本当に一瞬だったのに、それだけで飯田は、これでもかと嬉しそうな顔をする。  飯田は俺をずっと見ていた。わかっていたのに目を合わせてしまったことに後悔する。  飯田の大きいけど切れ長の瞳が、すうっと細くなった。笑ってる。笑うと少し幼い印象があるな…なんか子犬みたいで可愛いかも……  …………んなわけあるか!!  ああ、視線がウザい。本当に、勘弁してくれ!!  俺はわざとらしく顔を逸らす。もう見てやるものかと、講義の内容に集中する。  まるで隣に誰も存在しないかのように振る舞う。  なのに飯田は、昼食になっても、帰り支度をし始めても、ずっと俺の隣に黙ったままいた。  そしてそれは、次の日も、そのまた次の日も続くのである。

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