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第19話

 翌日の大学は、美優と二人で向かった。  俺より二つ歳上の美優は、同じ大学の四年生だ。学年も学部も違うのに、美優は俺に合わせて行動することに決めたようだ。 「お昼はカフェテリアで食べる?」 「……うん」 「じゃあ、講義終わったら迎えに来るね」 「……うん」 「三限は講義ないよね。そのままカフェテリアですごして、四限はあたしも講義があるし、五限終わったら一緒に帰りましょ」 「……ん」  俺の講義室にまでついてきた美優が、勝手に俺の予定を決めていく。  美優は上の姉に主導権を握られて育った。そのためこうして、俺相手には主導権を握ろうとする。もちろん末っ子の俺には、誰に対しても力関係は明白なので、俺の意見が聞かれたことはない。 「じゃあ、また後で!」  騒がしい姉が、バタバタと行ってしまうと、とたんに講義室の学生がヒソヒソと話し出す。 「さっきのって美優ちゃんだよな?」 「同じ大学の四年って聞いたことあるけど、本当だったんだ」 「実物の方が可愛い」  そんな声が聞こえて来る。  美優は幼い頃から劇団に所属していて、高校生のころ、何度かテレビにも映ったことがある。今は学業優先だが、卒業後は大手芸能事務所に所属することが決まっている。  快活で人当たりのいい美優は、他の姉たちよりもとっつきやすく、明るく笑う顔は確かに可愛い(贔屓目かも)。  そんなだから、大学でもそこそこ知名度があった。残りの姉三人も芸能関係ということが知られているから尚更だ。  でも、実は弟がいる、なんてことは、姉四人全員どこにも明かしていないのである。  ヤボったい前髪に、ダサい伊達メガネの俺なんかが弟だと知られると失望されるから、だと俺は思っているが、いないことにされている方が注目されない分かえって都合がいい。  姉たちの仕事について聞かれても、知らないから答えることもできないし。  というわけで、嵐のような美優が去ると、当然話題はこうなる。 「てか、なんで美優ちゃんがあんなヤツと話してんの?」 「あのクソビッチ、男だけじゃなくて美優ちゃんにまで手ェ出したのかよ」 「ほんと節操ねぇよな」 「つか、美優ちゃんも美優ちゃんだよね」 「あんなに可愛いのに男見る目ないんだ」  ヒソヒソと小さな声で話していても、それが大人数となると、イヤでも耳に入って来る。  これだ。これがダメなんだ。俺は別にどうでもいい。なんと言われても痛くも痒くもない。でも、将来のある姉が悪く言われるのはイヤだ。  俺のせいで美優が悪く言われるのは気分が悪い。  やっぱ美優に言おう。俺と一緒にいちゃダメだってちゃんと言おう。心配してくれるのは嬉しいけれど、それは家の中でだけでも十分なのだ。  そう決めて、とりあえずは講義に集中することにした。  退屈で長い講義が、いつもより苦痛に感じた。  それと、最近気にならなくなっていた飯田の視線を、痛いほど感じた。 ――――――  結果的に言うと、美優は俺の話を聞いてもなお、付き纏うのをやめなかった。 「なんて言われようと可愛い弟のことほっとけないでしょ」  カフェテリアでの昼食後、俺のことは心配ないから一緒にいるのはやめようと伝えた。美優はキョトンとした表情を浮かべたのち、俺の言いたいことを理解したようだった。 「ちょうどいいじゃん。付き合ってることにしておけば」 「なんでそうなるんだよ」 「お姉ちゃんとしては、弟が好き勝手に言われてるのはイヤよ。それに、本当はあたしたちの中で一番可愛いのは美夜なんだから」  思わず、俺は口をあんぐり開けて美優を見た。  俺が?姉たちより可愛い?  そんなはずない。だって、俺は無愛想で、友達もいなくて、いつも俯いて歩いているようなヤツなのだ。女みたいな顔だと言われるのがイヤだった。男らしさに憧れだってある。  せめてもう少し、ダディの遺伝子を受け継ぎたかった。まあ、ダディが男らしいかと言われればそんなでもないが。  俺が思うに、そう、飯田みたいなヤツが男らしいと思う。無骨な手とか、背が高くて爽やかな笑みができる飯田はカッコいい。 「可愛いよりカッコいいって言われたい」  ボソボソと呟くと、美優がケラケラと鈴のように軽やかに笑った。 「わかってないなぁ。美夜は自分のこと全然わかってない」 「それは美優もだろ。俺は姉ちゃんたちと違って、顔も性格も良くない」 「口が悪いのは同意見よ。でもね、美夜は自分を過小評価し過ぎ。こっちのことは、あたしたちの方がよく知ってる。美夜はモテるよ。あたしたちより、余程ね」  ずっと四人の姉に反対の意見を言わずに生きてきた。否定の言葉を言っても、本気じゃないよというスタンスでいた。  姉には概ね従っているけれど、やっぱり受け入れられないこともある。  今回はそれだ。美優の言葉は、俺を高く評価してくれるものだけど、自分では到底受け入れることができなかった。  俺には価値がない。だって、華のような四人の姉と比べるとただの雑草みたいな存在だし、性格が良いわけでもない。  誰かに好かれる人には、好かれる要素があるんだと思う。そうやって友達も恋人も作れる。  俺には無理。こんな俺を、好きになってくれる人なんていない。どうせ姉に似た顔が好きなんだ。だから勘違い。姉たちに会えば、そっちの方がいいと誰でも思うはずだ。 「ちょっとトイレ」  なんだか居心地が悪かった。美優が嘘偽りない笑顔で俺を見ているからかもしれない。  そんな顔をしたって、本当に俺自身はなんの可愛げもない人間で、今までに人から好かれたことなんてない。  ……いや、なくないな。  また飯田だ。話さなくなってしばらく経つのに、思い出したように飯田の顔が浮かんでくる。  飯田は俺を好きだと言った。  俺はそんなわけないと否定した。あのまま完全に関わりを経っておけば、男に抱かれるなんてことは……いや、なくないな?  むしろ、初めてが先輩たちや見知らぬだれかだったらもっと傷付いていたかも。  でも、でもさ?  飯田はめちゃくちゃ怖かった。普段の温厚な彼はどこへ?と、頭が真っ白になるくらい怖かった。  さらに俺に酒を飲ませて襲うようなヤツだった。  そんなヤツの好きを、誰がマジメに受け取るのか?  思い出すとイライラしてきて、洗った手を思いっきり振った。ほとんど無意識にトイレまで来てようを足していた。鏡に映った自分は、十年ぶりに外に出た引き篭もりのような見た目だった。  要するに、自分の前髪のせいで周りが見えていなかった。 「美夜っ」  ビクッと身体が震える。顔を上げると目の前の鏡には、ヤボったいメガネの俺と、その後ろに飯田が映っていた。 「い、飯田っ?なんかよう?」  非常にマズい。飯田とはあの日、逃げ帰ってから一度も口を聞いていないし、今まさに脳裏に飯田の顔が浮かんでいたから、とてつもなく気不味かった。  そんでもって、ここは狭いトイレの中で、ふたりきり。  飯田とトイレという組み合わせは、密閉した火災現場の窓を不用意に開け放つのと同じくらい危険だ。 「あ、えっと…美夜がひとりでトイレ入るのが見えて、それで……」  そんな捨て犬みたいな顔してもダメだぞ。また襲う気か?なら俺も黙ってない!! 「げ、激辛スプレーがあるんだぞ!!」 「え?」  俺はポケットから手のひらに収まるくらいの、プラスチックのスプレー容器を取り出した。黒いフィルムには、唐辛子の絵が描かれてあるそれは、また無理矢理襲われそうになった時のためにと、美優が持たせてくれたものだ。 「ちょ、美夜!?物騒なものはしまってくれ!!」 「物騒なのはお前だ!!このスプレー、ホントに痛いんだからな!?」  めちゃくちゃ気持ちを込めて言った。これを買ったとき、長女にお試しと言って吹きかけられたことがある俺が言うのだから間違いない。効果は抜群だ。 「オレの話聞いてくれよ!あの日のこと、ちゃんと説明するから!!」  二、三歩後退りながらも、飯田が言い募る。俺はスプレーを掲げて後ずさろうとしたが、腰が洗い場にぶつかってそれ以上下がれなかった。 「あん時、お前にシャンパンを出したのは確かに悪かったと思ってる!」 「だったらもう俺に近付いてくるな!!俺…俺、飯田のこと信用してたのにっ!!」  色々思うことがあった。それはここ最近ずっと俺の中にわだかまりを作っていて、飯田の顔を面と向かって見たとたんに溢れ出した。涙となって。 「ふっ、ぅう…グス、ひぅ…」 「ええっ!?な、なんで泣くの!?」 「う、ううるさいっ、あっち行け!!」  まるでそう、前に見たどこかの国の競技のに、俺たちは狭いトイレで向かい合い、お互いを牽制し合っている。  飯田は全く諦める気はないようで、ジリジリとこちらへ迫って来る。それをスプレーで威嚇する。  緊張感がトイレを支配した、そんな中。 「遅い!何やってんの!?また襲われてるの!?」  バァン!!とトイレの押戸を開けて、美優が駆け込んできた。男子トイレだとかはどうでもいいようで、美優は俺と飯田の姿を見て、迷うことなく判断を下す。 「美夜は渡さないんだからね!!」  叫ぶと同時に俺の手からスプレーを奪い取る。あっという間のことに、俺は動けなかった。飯田もビックリして目を見開いている。 「成敗っ!!」  プシュゥウウ  容赦ない唐辛子スプレーの攻撃。飯田は慌てて後ずさったが、狭いトイレのせいで見開いた目に直撃を喰らった。 「ギャアアアッ!?!?!?」  顔を覆ってしゃがみ込んだ飯田。  うわぁ……、と思わず同情する俺。だけど、そんな俺の手を掴んで美優は走り出す。  ごめん飯田。でも、飯田が悪いんだからな。  そう自分に言い聞かせて、俺は手を引かれるままに走った。

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