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第34話

――――――  女性が髪を切ることに特別な思い入れがあることは、万国共通のことだ。  海外の映画でも、失恋して髪を切る、就職や退職を機に髪を切る。新しい環境に身を置く際によくある描写だ。  そうやって今までの自分という殻を脱ぎ捨て、気持ちを改めて次へ向かう。まさにわかりやすい切り替え方法だ。  それと同じように、俺は今まさに、新しい自分に生まれ変わったのである。  ……なんて、そんなことは全然ない。  本来のインキャ根暗気質は、髪を切った程度でどうこうなるものではないのだ。  女性はすごいなぁ。髪型が変わっただけで、どうしてアメコミヒーローのように強くなれるのだろう。俺なんかきっと、毒クモに噛まれて糸がでるようになっても、はたまた大金持ちで超人になれるスーツがあったとしても……悪を捌く正義のコウモリ男になったとしてもだ。  断言しよう。性格は変わらない。困っている人々を助けたり、可愛いヒロインを悪の手から救ったりできるわけがない。したがって、俺と言う人間が急にヨウキャのパーティーピーポーになったりはしないのだ。 「美夜、美夜!いつまでトイレにこもっているのよ!?講義始まっちゃうでしょ!!」  大学の人気のないトイレの、例の如く一番奥の個室に立てこもって約五分。美優がドアをガンガンと蹴り付けてきた。 「だ、だって!みんな俺を見てるよぅ!!怖い怖い、俺が何したって言うんだよぅ!!」  お姉さん、ここ、男子トイレだし、女優の卵なのにドアを蹴るなんて何事か?と思いはしても出る気はない。  大学へ着いてすぐのことだ。いつもは伊達メガネや前髪で見えなかった(見ないようにしていた)のに、やっぱり周りの視線が気になった。いつもなら気にしないように出来たのに、今日はなんだか視線の量が多い気さえする。  髪切りすぎたかな?変かな?服装はいつもと変わらないけれど、やっぱどっかおかしいのかな?  そう考え出したらもうダメだった。逃げよう。そうしよう。と、トイレに駆け込んで今に至る。 「みんなが見てるのはこのあたしよ!!」  ドアの前で、美優が自信満々に叫ぶ。励ますつもりなのだろうけど、それを自分で言うのはどうかと思った。 「ねぇ美夜、あたしは今の方がいいと思うなぁ」  押してもダメなら引いてみようとでも言うのか、美優は今度は猫撫で声で話し出す。 「美夜の大きくてグリーンの差し色が入った瞳も、小さな鼻も、ピンクの唇も、やっぱり隠しておくのは勿体無いよ?美夜のこと全然知らない人も、それだけできっと好きになっちゃう。あたしの眼も美夜みたいにマミィ似だったら良かったのになぁ」  と、美優が言うように、五人の中で俺が一番マミィに似ている。男としてはすごく残念だ。 「じゃあ交換しよう。お願い、俺にダディの遺伝子をわけてくれ」 「ムリ!っていうかそれ嫌味だからね!」 「俺だって美優の言ってること全部嫌味に聞こえる!」  はぁ、とドアの向こうで大きなため息が聞こえた。 「もう、知らない!美夜なんかトイレの妖精になればいいのよ!」 「淫魔より妖精の方がマシだよ」  これはガチでそう思った。淫魔じゃなくなるのなら、一生トイレ掃除する妖精になった方がマシだ。 「いいもん。あとは圭吾くんにまかせよーっと」  え?圭吾くん?  飯田のことか? 「美夜がエッチなトイレの妖精になってるって、メールしといたからすぐ来てくれるよ」 「エッチじゃない!」  というか、いつのまに連絡先を交換していたんだ?それに圭吾くん呼び!!俺だって未だに飯田って呼んでるのに!!  問い詰めようとドアを開けて外に出る。美優はもうそこにいなくて、閉まりかけたトイレのドアを急いで開けて廊下に顔を出す。  しかしそこで不運なことに、入ってこようとしていた人に思いっきり顔をぶつけた。 「ぷぎゅうっ」 「うわ、ごめん!」  目をパチパチさせて見ると、やっぱりというか、目の前には飯田がいた。  飯田は驚いた顔をしていたけれど、すぐに心配そうにこちらを伺ってくる。 「大丈夫か?」 「……うん」  飯田の顔がすぐ近くに迫る。ああ、やっぱり飯田はカッコいいなぁ。  俺と違って、シュッとした鼻筋や、薄い唇は男らしくてカッコいい。  好きだと自覚したからか、いつもより割増でカッコよく見える。この、深いダークブラウンの瞳に見つめられるだけで体が熱くなる。  あ……勃ちそう。  そう思って、慌てて視線をそらした。そらして、気付いた。  俺は、恋をしたのは初めてかもしれない。  今まで誰とも目が合わないように生きてきた。容姿のことを揶揄われるののが嫌で、視線という視線を避けてきた。結果として、人と深く繋がりを持つこともなかった。  誰かと心を通わせるには、目を見ることがいかに大切なのかを実感した。視線があわなければ、当然相手の考えてることも、自分の考えてることも通じはしないのだ。 「美夜……髪、似合ってる」  飯田の一言と視線の熱量で、それが本心なのだと理解した。嬉しい。マミィのおかげだ。なんて、さっきまで逃げて隠れていたことなんて忘れて、本当に嬉しいと思ってしまった。俺はとっても単純なヤツなのだ。 「あ、ありがと」  真っ赤であろう顔を見られるのが恥ずかしかった。同時に心臓が破裂しそうなくらい高鳴っているから、音が聞こえないかと不安になる。  しかし、である。  心の反応とは別の、俺の中のマジメな俺が頭の片隅で言ったのだ。  コイツ、今俺のことエロい視線で見てるけど、昨日はきっと美波にも同じような顔をしていたに違いないぞ!騙されるな俺!  確かに、と思った。  俺が髪を切ったのは、他でもない、飯田を見返してやろうと思ったからだ。  マミィに言われた。中身を変えるのは難しいけれど、まずは外見を変えることから始めましょうと。そして、いずれは飯田よりもいい人(もはや男女は問わない。精液が必要なのと、恋愛をするのは別だ)を見つけるのが目的なのだ。  それを忘れてはいけない!! 「飯田ァ!!」 「え"っ、なに!?」  意を決して叫ぶと、飯田はギョッとして一歩後ずさった。 「俺は変わるのだ!見てろよ、このイケメンクソ野郎が!」 「は?え?」 「お前なんか精液以外用はないのだ!精液奴隷なのだ!」  ピシリと人差し指を突きつけて言い切る。ついでに睨みつけておく。  言ってやったっ!!よく頑張った俺!!心臓がバックンバックンと不自然なくらい動いているけれど、言いたいことは言ってやった。俺の勝ちだ!!  ふう、とひとつ息を吐いて呼吸を整える。飯田は、ポカンと薄く口を開いたまま固まっていた。  ……あれ?飯田、なんか笑ってね? 「ふぅん、そう。オレって美夜にとってそんな扱いなんだ?」  飯田が口を開く。トイレの空気が、重く冷たくなった気がした。 「そ、そうだ!だって、あの、えっと」  美波と会ってるくせに、と言えばいいのだが、姉に負けたのがちょっと悔しくて言い出せない。それに飯田の付き合おうというのが、そもそも遊び前提だったなら、他の子とあってるでしょ!?と言うのもなんだか女々しい気がする。俺が勘違い野郎になってしまう。 「それって、美夜は奴隷のオレにグチャグチャのドロドロにされて喜んでる変態ってことだよな?」 「えぇ!?」 「むしろ逆なんじゃないの?オレのちんこ欲しくてなんでも言うこと聞いちゃう淫乱ちゃんだろ?美夜の方がオレの性奴隷じゃん」 「ンなっ!?」  こ、この野郎!!それってやっぱ俺とは遊びだったってことか!? 「なぁ美夜、髪なんか切ってどうしたの?前のままでも良かったのに、オレのためにエロい顔が見やすいようにしてくれたの?」 「違う!」 「メガネもさ、やっと取ってくれた。正直邪魔だったんだわ……顔にかけられねぇし、壊しそうで気を使うから」 「い、いいだ?」  飯田の声が徐々に低く、重くなっていく。口角を吊り上げて不気味な笑みを浮かべている。  ヤバい。俺の本能が逃げろと言っている。  俺はクルリと身を翻し、トイレ奥の個室へと駆け込もうとした。本当はトイレから出たかったけど、そのためには飯田を押しのけねばならない。それはムリだと判断し、個室立て篭もりを選んだのだ。  が、飯田の方が歩幅が大きい。俺が個室に入ってドアを閉めようとしたところに、飯田のつま先が邪魔をした。  あ、これ、デジャヴだ。  そう思った時には遅かった。 「奴隷はトイレでするのが好きみたいだな。ま、どこでもすることは同じだけどさ」  飯田の手が伸びてくる。俺の首を鷲掴みにする。  ガチャリと鍵の閉まる音がした。

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