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第41話

―――――― 「ん"…イデっ」  目が覚めると、部屋の電気は付けっぱなしで、それでそこがどこかのラブホテルの一室だと思い出した。  たいして広くもない部屋に、ひとりきりだった。  ベッドから転がるように降りて、重い腰をあげようとするも、腰が抜けてしまったようでうまく動けない。  仕方なく這いずって風呂場まで行き、熱いシャワーを出して頭からかぶった。  こんな体質になって、誰かの精液がないとダメで、仕方なく誰でもいいからとフェラして食いつないできた。  その時はそれで良かったし、仕方ないと思ってやり過ごしてきたけれど、いつもどこかに虚しさがあった。  今回のことは、そんなのより余程ヒドい。  大学で先輩たちに襲われたときはとは、全然違った。  それは多分、あの頃はまだ飯田のことが好きだと自覚してなかったからだ。俺も相手も満たされるのならそれでいいと、どうせそういう生き物だからと軽く考えることができた。  だけど今は違う。  俺も、本当は誰でもいいわけじゃなかったんだ。  甘くとろけるのは精液の味そのものだけじゃない。満たされていたのは単なる欲求だけじゃなくて、心だったんだと気付いた。  もう、遅いんだけどさ。  湯気の立つ浴室には、大きな鏡があった。ちらりと視界に入ったそこに、泣き腫らした眼と叩かれて赤くなった頬、至る所に噛み跡や赤く鬱血したキスマークが映った。  出来るだけそれらの痕跡を目に入れないように、ボディーソープをバカほど押し出して体を洗う。こんなに汚れているのにその汚れは何一つ落ちてはくれない。 「ぅ、ふ、ぐすッ……」  ダメだ、また泣いたら目が腫れてしまう。わかっているのに、涙は勝手に溢れて止まらない。  随分時間をかけてゴシゴシ体を洗って、風呂場から出ても涙は止まらなくて、床に乱雑に散らかった服を集めて身につけたころには、ついに動けなくなってしまった。  早くここから出て帰りたい。でも帰ったらきっと、家族にこの泣き腫らした顔を見られてしまう。叩かれた頬もきっと、心配をかけてしまうだろう。  そうなると、友達のいない俺は、気軽に頼れる人もいないのだとまた悲しくなって涙が出た。  動きを止めると思い出されるのは、昨日のあの先輩の行為ばかりだった。いくらやめてと懇願してもやめてくれず、薬で動けない体を押さえつけられてものすごく怖かった。  飯田だって似たようなものだったけれど、多分、俺は飯田を信頼していたから平気だったんだ。普段の飯田は優しくて暖かくて、絶対に俺を傷付けることはなかった。  だったらどうして美波と会ってたんだよと、また考えてもわからない無限ループのような思考にはまっていく。  いつまでもここにいるわけにはいかない。まとまらない思考を、首を振って物理的に押しやり、サイフとスマホくらいしか入っていないショルダーバックを持って部屋を出る。  薄暗くじめじめした廊下を歩いて、古ぼけたエレベーターで階下に降り、そのまま外へ出ると、そこがどこかもわからないまま道路を歩く。  足の付け根も腰も、歩いているだけでズキズキと痛み、昨日の行為の激しさをイヤでも思い出す。スマホで時刻を確認すると、6時20分と表示されていた。昨日、カラオケにいたのは一時間もないから、あの後夜通し犯されていたようだ。  そりゃあこんなに疲れているわけだ。  また涙が出そうになって、頑張ってそれを堪えると、なんだか歩くのが億劫になった。早朝の人通りの少ない狭い道の端で、雑居ビルの外壁を背に座り込む。  こんなところで泣きたくない。膝に額を押し付けて、目を閉じて必死で涙を堪える。  これからどうしよう。日曜だから、家にはダディもマミィもいるだろう。姉の誰かも、もしかしたらいるかもしれない。  帰れない。  じゃあいっそ、もうここで寝てしまおうか。  これ以上何が起きたって、今より惨めにはならないだろうし。  疲れた。  と、色々諦めそうになった時だった。  手に握っていたスマホが、ヴー、ヴーと僅かに振動した。そういえば、昨日は無断外泊したことになる。うちはそこまで厳しい家ではないけれど、泊まりの時は、家族に必ず連絡を入れておかなければならない。  だからきっと、家族の誰かが心配して掛けてきたんだと思った。電話に出ないと、さらに心配をかけるのとになる。  そう思って、ロクに画面を確認せず通話ボタンを押して耳に押し当てた。 「もしもし」  勤めていつも通りを装って言った。そうしないと、きっと声が震えてしまうから。 『美夜!今どこ?』 「え、飯田?」  電話越しの声を聞いて驚いた。てっきり家族の誰かだと思っていたのに、相手は間違いなく飯田だった。 『泣いてる?どうした?何があった?』  矢継ぎ早に繰り出される質問に、言葉が上手く出てこない。どうしてか胸に熱いものが込み上げてくる。飯田の声を聞いただけで、こんなに安心するなんて思わなかった。 「な、泣いて、ないよ」  グスッと鼻を啜ると、電話の向こうで飯田が舌打ちをこぼした。 『迎えに行く。そこにいて』 「わかった…」 『何が見える?』  言われてあたりを見渡すと、派手な電飾の古びた看板が沢山あって、そこがちょっと如何わしい飲み屋街だとわかった。  多分駅から15分程離れた所だ。いつも酔っ払いが徘徊しているからと、あまり通らないようにしている場所だ。  見えるものをそのまま伝えて、また下を向いた。 『切らないで、美夜。大丈夫、すぐ行くから』 「ん」  優しく宥めるような声だ。飯田とは別れたはずなのに、どうして優しくしてくれるのだろう。それにひどく心配しているのは、なぜなんだろう?  迎えに来てくれるのは嬉しいけど、今の俺を見たら、きっと飯田は呆れて、俺のこと本当に嫌いになってしまわないかな。  嫌われても仕方ないよな。だって、お別れを言い出したのは俺の方だし、飯田にはもう別の大事な人がいるんだから。 「美夜!」  その声は、スマホ越しじゃなくて頭の上から聞こえた。  ビクッと肩が震え、恐る恐る顔を上げる。 「いいだ、っ!?」  途端に、まるで潰されるんじゃないかというくらい強く抱きしめられて驚いた。  冷たいアスファルトに両膝をついて、ぎゅっと、後頭部に回した手に力を込めて、飯田は俺を優しく強く抱きしめる。  いつもの爽やかな香水の匂いに混じって、少し汗の匂いがした。走ってきたのか、耳にかかる息が荒い。 「今までどこにいたんだよ?めちゃくちゃ心配したんだけど」  答えられなくて、黙って首を左右に振る。飯田はひとつため息を吐いて、俺を離すとスマホを操作した。 「あ、美波さん?」  通話を始めた飯田が、はっきりと美波の名を口にする。飯田に見つけてもらえて嬉しいと思っていたのに、またズーンと沈んだ気持ちになる。 「今美夜見つけました……はい、わかりました」  飯田はスマホをデニムのポケットにしまい、改めて俺に顔を向けた。さっきまでの焦りは少し引いて、今度は心配そうな顔をしている。 「帰ろ、美夜。家……は、イヤだよな…オレの部屋でもいい?」  そう言って手を差し伸べてくる。だけど、俺はそれを振り払った。 「やっぱり自分で帰れる。来てくれて嬉しかったけど、放っといて」 「そんな顔でどこに帰るつもりだよ?」 「なんとかする」 「ダメだ!なんかあったらどうするんだよ!?」  もう遅いんだって。と、言いそうになって慌てて口を閉ざした。これ以上飯田に迷惑をかけたくない。もう関係ない人なのだ。それに、まだ好きだからこそ言いたくない。 「美夜、オレは諦めてない。美夜のこと愛してる」  だからおいで、とまた手を差し伸べてくる。そんな飯田に、俺はついに爆発した。 「ウソ付き!」 「え!?」 「飯田はどうせ、俺とは遊びなんだろ?そりゃ俺なんかより美波の方が何万倍も可愛いし、頭もいいし、アイドルだし、女の子だし……俺なんか勝てるわけないのに……飯田も、本当は姉に近付きたくて俺に話しかけてきたんだろ!?」  ああ、言うつもりなかったのに。心が参っていると、ついカッとなって吐き出してしまう。  飯田はどんな顔をしているだろう?図星をつかれて驚いているか、はたまた開き直って笑みでも浮かべていたなら、俺は多分一生立ち直れない。  ……あまりにも反応が無いので、チラッと視線を向けてみた。  目の前の飯田は、まるで理解できない言語でも聞いたかのような顔をしていた。  つまり、とても困惑しているようだった。 「ちょっと……何言ってんのか理解できないんだけど」 「……え?」  その瞬間、多分俺も飯田と似たような表情をしていたと思う。 「もっかい言ってもらっていい?」 「え、と、だから、飯田の本命は美波なんだよな?美波に近付くために俺と仲良くしてたんだろ?俺とは遊びのつもりで、それで、」  俺は何か間違ったことを言っているのかな?飯田のアホヅラを見ていたら自信が無くなってきた。 「その、根拠は?」 「根拠?」  それはもちろん、 「大学で俺と帰るの断って美波と会ってただろ。偶然見かけたんだよ……」  そこでやっと、飯田が頷いた。ああ、とバツの悪い顔で声を漏らす。  ほらみろ。やっぱり俺は間違ってなかった! 「見られてると思わなかった…ごめん。だからあんなこと言ったんだな。やっとわかった」 「最低だよ。美波が相手だったら俺に勝ち目ないじゃん」  飯田の口から本当のことを聞きたくなかった。これでは認めたも同然じゃん。  ただでさえ最悪の気分が、さらに重く沈んでいく。 「勘違いさせて悪かった。完全にオレのミスだ。ごめん、美夜」 「そうだぞ!俺、飯田は本当に俺のこと好きなんだと思ってたのに……」 「あ、それは間違いない。オレの本命は未来永劫美夜だけだ」 「美波とのこと、それならそうと言ってくれれば……?え?なんて?」  未来永劫?なんだその恋愛映画みたいなセリフ。 「だから、オレが愛してるのは美夜だけだって。勘違いさせて悪かったってのは、美波さんとのこと!」 「へぁ?」  ポカンと口を開けて飯田を見やる。すると飯田は、両手で俺の頭をしっかりホールドして、チュッと触れるだけのキスをしてきた。 「愛してる、美夜」  目の前に、いつもの真剣な眼差しがある。ダークブラウンの瞳が、真っ直ぐ俺を…俺だけを見ているようで、目が離せなくなった。 「とにかく、一度オレの部屋へ帰ろう。何があったのか知りたいし」  飯田は俺の手を引いて立ち上がり、行くよと言って歩き出した。  あまりのことに、さっきまで酷く感じていた体の不調はすっかり忘れ、俺は放心状態のまま飯田に手を引かれて歩いた。  大通りに出る。飯田がタクシーを拾い、それに押し込まれる。飯田の部屋にたどり着くまで、俺は脳内に沢山のハテナが浮かんだままだった。  

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