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第42話
飯田の部屋について、しばらく。
早朝の街中で座り込んでいたために冷えた体に、飯田の入れてくれた甘さ控えめのコーヒーが染み渡る。
飯田の部屋には、有名メーカーのコーヒーマシーンがあって、豆は専門店で購入している。
だからとても美味しいのだ。
と、しばし現実逃避したところで、ソファに隣り合って座った飯田が口を開く。
「美夜が勘違いしてる原因を作ったことには、めちゃくちゃ反省してる。そうだよな、あんなところで待ち合わせするんじゃなかった」
とても落ち込んでいるようで、いつもより声のトーンが低い。
「なんで美波と会ってたんだよ?」
訊ねると、飯田はまたもバツの悪い顔をした。
「それなんだけど、実は、その日の少し前に街で美優先輩と美波さんが一緒にいる所に出会してさ。美夜がなかなかオレに真剣に向き合ってくれないから、相談に乗ってもらうことになって……ちょうどあの日都合がついたからわざわざきてくれたんだ」
と言いつつ、飯田が自分のスマホを取り出して、俺に差し出した。
受け取って画面を見ると、メモアプリが開いてあった。
件名は空欄で、内容のところに箇条書きでなにやら色々書いてある。
よくよく読んでみると、甘いものが苦手、ハンバーグが好き、でも料理は和食が得意、ポテチはうすしお派、コーヒーは微糖などの細かいことから、家では割とお子様だとか、寝相が悪いだとか、十日に一度くらいの割合で寝言を言うだとか、靴下に穴が空いても気にしないとか、思い込みが激しいとかそんなことが書かれてあった。
「美夜のこと知りたくて、美波さんに色々聞いたんだ。美優先輩に聞いてもなんだか容量を得ないし、その点美波さんはとてもためになることを話してくれた」
確かに、美優は大らかだけど、裏を返せば適当な性格をしている。その点美波は、何事も分析して考察する性格なので、美波に聞くのは確かに効率がいい。
そう思って見ると、確かに何事も分析する美波らしいなぁと思わないでもない。というか、一緒に住んでいる家族からこんなふうに見られているのかと思うと多少ゾッとするが。
飯田はきっと、必死だったんだろう。
飯田の真剣さなんて知らないふりして、俺は男同士なんてうまく行くわけない、精液さえもらえればそれでいい、なんて思っていたんだから。
俺が自分の気持ちに気付かないから、飯田を不安にさせていた。
今ならそれがよくわかる。
「美夜が勘違いして、嫉妬してくれたのは嬉しい。でも、美夜が何も言ってくれないから、このままじゃダメなんだろうって、勝手に思ってて、そんな時美波さんに会ったから、本当に藁にもすがる思いだったんだ」
「飯田……」
「オレばっかり先走って、美夜が本当はどう思ってるかを疎かにしていた。ひとりの人を大事にしろって言われた時、やっぱりオレの気持ちはちゃんと伝わってなかったんだって知ったんだ。そりゃ一緒に住むなんてできないよな」
ごめんな、と飯田は言って、俺の頭をクシャリと撫でる。
「俺も、ちゃんと話さなかったから」
都合よく利用してやろうと思っていたのは本当だ。だから、一緒に住もうと言う飯田のことを面倒だとも思っていた。
でも、離れてみてわかった。俺は飯田が好きだ。精液の味だけではなくて、心が満たされるのは飯田だけなんだと気付いた。
「さっきの話」
「さっき?」
「美波さんに勝てないからって言ってのはさ、オレのこと、本気だったって思っていいんだよな?」
「えっ、と…」
そうだ、きっと俺の気持ちなんて、飯田にはすでに伝わってしまったんだろう。勝てないから離れるというのは、前提として好きだけどという枕詞がついたっておかしくない。
俺は一度ゴクリと唾液を飲み込んで、本当の気持ちを伝えようと口を開いた。
そんで閉じた。
飯田が期待に輝いた瞳を翳らせる。
そうだ、俺、昨日好きでもない知り合ったばかりの人にめちゃくちゃにされて、沢山痕を付けられたばかりだった。
汚れている。こんな自分を、飯田に知られたくない。あの先輩は、最初から姉ではなく俺を狙っていたようだった。バカでアホで、世間知らずの俺はまた、こうして飯田を裏切るかもしれない。厄介なことに淫魔の血は、それを咎めるどころか嬉々として受け入れるだろう。
だって、昨日だって少しでも、気持ちいいと思っていた自分を覚えている。何度も何度も奥に出されて、心はともかく体は確かに反応して求めて、受け入れていた。
そんな自分が、今更飯田に好きと言ってもいいのだろうか。
「美夜?」
飯田が痺れを切らして俺を呼ぶ。
「ごめん、飯田。俺、誰かひとりを好きだなんて言う資格ない。飯田も知ってる通り、俺は淫魔だから、簡単に他の人に流されて、受け入れて、満足してしまう体なんだ。昨日だって本当はイヤだったけど、でも途中からイヤだったのか喜んでたのか自信がない」
泣いていたのは事実だ。でもその涙は、気持ちの問題か、生理的なものか、もう思い出せない。
「やっぱり酷い目にあってたんだな」
飯田は、どうしてか当事者の俺より辛そうな顔で呟いた。
そういえばどうして飯田は俺のこと探していたんだろうと、ふと疑問がよぎる。
「美夜が参加した合コンのこと、直前になって知ったんだ。学部でカラオケの話が出てたことは知ったたんだけど、最初はただの仲間内の集まりだと思ってたんだよ。美夜にも友達ができたんだなぁって、単純に考えたんだけど……」
飯田が眉間にシワを寄せて怖い顔をした。今まで、飯田がこんなに怒ったところを見たことがなくて、ちょっと怖かった。
「その集まりに、男女問わず薬飲ませてお持ち帰りするって噂のOBが参加するって、あの美夜と仲の良い先輩たちがわざわざ連絡くれたんだよ」
それが土曜日の夕方だったそうだ。
そこから飯田は急いで会場となったカラオケ店へ向かったけど、俺はもういなくて、周りの人に聞いてみるとその悪名高い噂の先輩が、酔った俺を介抱して送ったと聞いたそうだ。
飯田は俺が酒を飲んではいけないことを知っているから、これはおかしいぞと思い、美優と美波に連絡を取った。
そこから三人で夜通し探してくれたみたいだった。
「先輩たち、美夜のことすごく心配してたから、また連絡入れてあげなよ」
「うん……」
つまり、飯田は俺に何があったのか、予想はついているわけだ。そりゃ見つかった時、いかにもな場所にいたし、その先輩のことも知っているのだから尚更だ。
じゃあ飯田は、それでも俺を好きだと、愛していると言ってくれたということだ。
自惚れてみてもいいのだろうか。
初恋は叶わないというのに、目の前の俺を愛していると言ってくれる人に応えてもいいのだろうか。
飯田のダークブラウンの瞳を見る。俺の目を真っ直ぐ見つめて、ニコリと微笑む。飯田は笑うと、うっすらえくぼができるのがなんだか幼くて可愛らしいのだ。
「美夜の体質も、自分ではコントロールできない厄介なところも、全部好きだよ。美夜の気持ち、ちゃんと聞かせてくれる?」
今、応えなければいつ応えるのか。
きっとこれは、神様が俺にくれた最後のチャンスだ。
神様は理不尽な現実を突き付けてきたりもする(淫魔だとか)けれど、ちゃんとチャンスもくれるのだ。
「飯田…俺、飯田のこと好きだよ。いつのまにか、本当に好きになってしまったんだ。体質も、男同士っていうのも関係ない。俺も飯田が大好きだよ」
ああ、恥ずかしい。まさか自分がこんなこと言う日が来るなんて。
熱った顔を誤魔化すように逸らす。しかし飯田の手がそれを許してはくれず、またも両手で頬を挟まれてしまった。
ゆっくり近付く飯田の整った唇。それが、俺の唇を塞いで、下唇を舐め、薄く開いた隙間から、舌が中へ侵入する。
熱く滑りのあるそれが、俺の口内を隈なく蹂躙していく。
「ん、ふ…ァ、んん」
飯田の舌が甘い。唾液美味しい。なんで、飯田のだけこんなふうに他の人のと違うんだろう。
昔から、甘いものが好きではなかった。飴もろくに口にしたことはないのに、飯田のことはずっと舐めていたい、なんて考えていると、なんとも抗えない欲求がやってきた。
……眠い。
安心してか、途端に眠気が襲ってきた。そういえばまだ早朝と言える時間だ。昨日酷使された体は、早急に休息を必要としている。
飯田がふと顔を話し、俺を見てフフッと笑った。
「眠い?いいよ、寝ても」
「…ん」
そう言って、飯田が俺の体をふわりと抱き上げる。力強い腕と、細いのにしっかりした胸が心地良くて、俺は本格的に目を瞑った。そうするとすぐに頭がふわふわとして眠気が増した。
「おやすみ、美夜。もう手離さないから……」
寝室のベッドに優しく降ろされ、暖かい布団をかけて、飯田はなおも呟く。
「美夜を襲ったヤツ、ちょっと殺してくるね」
なんか物騒な声が聞こえた気がするけれど、まあいいや。
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