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第45話 番外編 飯田の話1
大学へ入学してすぐの頃、オレはカフェテリアの自販機前で、盛大に小銭をブチ撒けた学生と遭遇した。
カフェテリア入り口脇、人通りの多いお昼時。
それなのに、誰もその学生を助けてやろうとはしなかった。
慌てる学生は、薄いピンク色の髪をしていた。随分と奇抜な色だけれど、大学生なんてそんなものだ。同じ学部には他にも、緑や青、紫なんてヤツもいて、だからそこまで目立ったりはしない。
それより、小銭を拾う横顔が気になった。
長い前髪にメガネをかけたいかにもインキャな雰囲気なのに、チラッと見えた唇が妙に艶かしくて、一瞬女の子かと考えたが、小さく舌打ちをする声が聞こえて、やっぱり男なんだと理解した。
手を貸してあげたのは、ほんの気まぐれだった。
いつもなら見て見ぬふりをするが、この時はなんでか、吸い寄せられるようにその子の方へ寄って行って、散らばった小銭を拾ってあげた。
その子は一瞬驚いたように息を詰まらせ、オレが拾った小銭を奪うように握って、ペコリと一度お礼をして去っていった。
結局顔は見えなかったけれど、その日から、オレはいつでも、春のうららのせせらぎに映る、鮮やかな桜のようなピンクの頭を追っていた。
――――――
その日は金曜日で、五限までの講義を終えたオレと美夜は、いつものように正門までの道のりを歩いていた。
「なあ、今日は何が食べたい?」
友達から始まったこの関係も、恋人同士になって二ヶ月すぎた。まあ、最初の一ヶ月はお互いに勘違いしたままだったが、カラオケでのことがあってやっと正式に恋人同士になってから、さらに一ヶ月。
ほとんど毎日美夜の手料理を食べているオレは、体重が3キロ増えた。
その程度ではあまり変化はないけれど、風呂場の体重計に乗るのが楽しい。美夜がオレのために作ったものが、しっかり体に馴染んでいると実感できる瞬間だ。
「飯田!聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。美夜の手料理なら、なんだっていいよ」
美夜は大学では俯き気味の地味な(髪の色以外)学生のひとりだけど、こうして二人の時には色んな表情を見せてくれる。
「なんでもいいってのが一番困るんだっての」
頬を膨らませて、ブツクサと文句を言う。そんな姿がマジで可愛い。見下ろした先、短くなった前髪の下に大きな瞳。少し緑がかったその瞳は、彼がクォーターである証みたいなものだ。
「じゃあ、あれ。なんだっけ?赤いやつ」
「赤いヤツ?」
美夜がキョトンとした顔で見上げてくる。それから、ああ!と頷いた。
「トキトゥラか?」
「それ!」
「わかった。じゃあスーパー寄っていい?トマト買わないと」
「いいよ」
ふんふんふーんと、美夜は鼻歌を歌いながら歩く。だれでも一度は耳にしたことのある、70年代だな80年代だかの洋楽を、美夜はよく口ずさんでいる。
美夜の姉の美波さんはアイドルとして歌手活動をしていて、何度かテレビで歌っているところを見たことがある。遺伝なのかなんなのか、美波さんも美夜も歌が上手い。
それは多分、大学でもオレしか知らない事実だ。
オレだけが知っている美夜が、どんどん増えていくことが、今のオレの楽しみでもあり、幸せを感じる瞬間でもある。
美夜は外見を変えて、多少周りと交流を持つようにはなったが、それでもオレの前と他では全然違う。
大学から二駅、オレのマンションの近くのスーパーに寄る。美夜は買い物カゴを取って、それを当たり前のようにオレに押し付けてくる。
ん、と差し出されたカゴを受け取ると、ニマッと可愛らしく微笑むのだ、オレは一生美夜の荷物持ちでもいいと思う。
野菜コーナーに立ち寄って、乱雑に積まれたトマトを真剣に見つめる美夜の横顔を見ながら話を振った。
「美夜は買い物も慣れてるよな。それも教えてもらった?」
美夜の顔くらいありそうな(大袈裟か)トマトを手に取って、備え付けてあるビニール袋に入れる。
「昔、フロリダにいた頃、グランマの故郷にもよく行ったんだ。ルーマニアのブカレスト。ルーマニアは日本みたいなスーパーは少なくて、街中のピアッツァで買い物をするのが普通なんだよ」
「ピザ食べたくなった」
「くだらねぇ…ピアッツァってのは、小さな市場みたいなもんで、生産者が露天を出して、そこから新鮮なものを直接買えるんだ。だから、新鮮なものを見る目がついたんだよ」
美夜が4つ目のトマトを袋に入れ、それをオレがもつカゴに突っ込んだ。
「へぇ、スゲェなあ。オレもルーマニア行ってみたい」
以前、アメリカにいた話を聞いたが、美夜はルーマニアの方が好きそうだなぁと思った。最近少しずつ話してくれる過去のことや家族のことは、日本でのことより、海外での思い出の方が多い。中でもルーマニアのことになると、実に楽しそうに無邪気な顔で笑うのだ。
「行こうよ。俺のグランマの生家がブカレスト郊外にあって、古い建物を改築してゲストハウスやってるんだ。だから泊まるところには困らないよ」
「そうなんだ?じゃあ、長期休暇にでも行く?」
「あ、待って。俺そんなお金ない」
途端にしょんぼりと肩を落とす。この歳になっても、美夜はアルバイトひとつした事がないと言う。
きっと家族に大事に大事にされてきたんだろう。
「それくらい出すよ」
「それくらいって値段じゃねぇよ。飯田の金銭感覚はおかしい」
「おかしくない。好きな人と好きな人の好きな場所に行くのに、金額なんて大したことない」
と、別に格好をつけたわけではないのだけど、多少意識して言い放つ。が、美夜はもう、隣にいなかった。
「あれ?」
キョロキョロと姿を探すと、いつのまにやら豚肉コーナーで熱心に品定めをしている。
「飯田、飯田!このブロック肉安いな!今日特売日なんだって!」
キラキラと目を輝かせている美夜に、オレはため息を吐き出した。
なんだかなぁ。美夜のマイペースなところは可愛いし好きだけど、時々オレの話をちゃんと聞いてるのか、本当にオレの事が好きなのか、不安になる事がある。
別に疑っているわけでもない。ただ、淫魔だという美夜の血は、きっとオレじゃなくても受け入れるだろうし、正直セックスしてる時の美夜の変わりようを見ているだけに、きっとグズグズにわけわからなくなってしまえば、オレ相手じゃなくたって、気にしないんだろう。
そんな、恋人失格なことを考えてしまって。
実はこの二週間、そういうことができないでいた。
ほとんど毎日一緒にいて、泊まっていくことも増えたのに、だ。
あと美夜が全然したいと言わない。オレの予想では、一週間保たずに求めてくると思ったのに。
「はぁ」
人知れずため息を吐き出すオレなんて気にもせず、美夜はまた鼻歌を歌いながら食材を選んでは次々とカゴに入れていく。
酒でものんで酔っ払ったら、本音も聞けるんだろうけれど、そんなことを言い出せばきっとまたケンカになるだろう。
オレの知る限り、美夜が酒を飲んだのは最初の一回きりだ。その時はしばらく口も聞いてもらえないどころか、そばに寄るのも嫌がられた。
美夜自身が酒を飲むとどうなるのかを知らなかったから、仕方のないことだと今では割り切っているけれど、思い出すと胸がキュッと痛くなる。
もうあんなふうに避けられるのはごめんだ。まるで生きた心地がしなかった。
これまで築いた関係性を、全部台無しにしたくはない。
だけど、とオレは思う。
本当に美夜は、オレの事が好きなんだろうか?
だったらどこが?なんで?
そう思うのはやめられない。
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