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第50話

――――――  土曜日の夜、俺はいつものように飯田の家にいた。 「んぁ、は、やっ、もうムリ!いいだ、あああっ!!」  たっぷり溜めた湯船に浸かったまま、なんだかよくわからないままにそういう雰囲気になって、現在。  三度目を受け止めたところだった。 「美夜…可愛い」 「ん、ふぁ…ん、ぅんん」  最後の締めのような、飯田の優しく労うようなキスに、脳みそが蕩けてしまったようで、必死に飯田の唇を貪った。 「最近積極的で嬉しい」  唇が離れると、飯田が優しい笑みを浮かべて言う。俺は飯田の足の上に乗っかったまま、背中に腕を回してしがみついた。 「だって……好きなんだもん」  俺は案外、甘えたな性格だったことに最近気づいた。外ではともかく、人目のないところでは、常にどこか触れていたいなんて考えている。  末っ子気質なのは自覚していたが、姉にベタベタしたいと思ったことはないので、これは完全に飯田にだけの甘えだ。  付き合いたての頃は、飯田に吊り合う人間でもないのにと、どこかおっかなびっくりだった関係も、半年も経てばやっと本音が言えるようになるのだ。 「オレも好きだよ。美夜がそばにいてくれるだけで幸せだ」  濡れた髪をかきあげて、飯田のきりっとした瞳が柔和な表情を浮かべる。水滴が真っ直ぐ通った鼻筋を伝い落ちていくのを、ぺろりと舌を出して舐めとった。汗の味なのか、それすら蕩けるような甘さがあって、思わず全身舐めたくなった。 「美夜、くすぐったいよ」 「んー…飯田、おいしい」  首筋に顔を埋めて、飯田の肌をぺろぺろと舐める。  飯田にも、俺が感じているこの甘さがわかればいいのに。そしたら俺がどれだけ飯田に夢中かわかるだろう。 「そろそろあがろう?のぼせちゃうよ」 「ん」  飯田が俺の脇に手を入れて、ひょいっと持ち上げる。温めのシャワーを出して体を洗い流し、風呂場から出る頃には二人して肌が真っ赤だった。 「何か飲む?」 「水」 「はいよ」 「ありがと」  ソファに座って、飯田が渡してくれたミネラルウォータを飲む。よく冷えた水が、火照った体に染み渡った。  そうしている間に、飯田が俺の頭にドライヤーをかけ、髪を乾かしてくれる。最近は毎日これだ。飯田のそばは、実に快適だ。 「明日はどうする?何かしたいこととかある?」  隣に座った飯田が聞いてくる。いつもなら日曜日は買い物にでかけたり、近くの映画館へいったり、もしくは借りてきたものをゆっくり観るのだが、あいにく明日は予定がある。 「明日…美波のライブだから、差し入れ持って行かなきゃ」 「美波さんの?」 「ん…俺んち、いつも誰かのイベントがあると、家族の誰かが差し入れを持っていくことにしているんだ。いつもお世話になってますって、スタッフさんたちにあいさつしたりして。さすがに地方の時は行けないけど」 「そうなんだ」 「いつもはマミィとか他の姉が行くんだけど、明日はみんな仕事だからって、俺にその役が回ってきた」  なんて、良い家族のフリをしているだけで、実際は仕事のチャンスを狙っているのだ。美波の現場には、レコード会社関係者が多いし、美香の現場にはファッション関係者が多い。美優の場合は、テレビ局関係者が多く関わるので、あいさつはアピールするための口実だ。  そうやってお互いの現場に出入りしているうちに、差し入れするのが善岡家の恒例行事になってしまったため、たまに俺やダディまで駆り出される。 「へぇ、じゃあ、明日は一緒にいられないのか」  飯田がしょんぼりした声を上げる。 「飯田も来てよ」  そう言うと、飯田は困惑した顔をした。 「いいのか?オレ、一般人だけど」 「俺だって一般人だよ。差し入れなんて適当に渡して、どっか出かけようよ」  もともとそのつもりだった。明日のライブ会場の近くには、大きなショッピングモールがある。そこで一日ブラブラするのも悪くないと思っていたからだ。 「わかった。美夜、もう眠い?」 「んー」 「じゃあ寝ようか」 「ん」  先ほどから何度も目を擦っていたので、眠いのがバレバレだったようだ。風呂場で三回もシたら、そりゃ眠くもなるのだ。  飯田がまた俺の体をひょいっと持ち上げて、軽く横抱きにする。以前は恥ずかしかったけれど、慣れてしまえばどうってことはない。  飯田の心臓の音を片耳で聞き、くっついたままベッドに入る。  途端に意識がふわふわして、俺は飯田の腕に収まったまま気が付いたら眠っていた。 ――――――  翌日、電車で40分ほどの場所にある、大きなライブ会場へとやってきた俺と飯田は、あまりの人の多さに辟易していた。  最寄駅からライブ会場までの道は、オシャレな女子でごった返している。美波たちは、女性アイドルグループとして売っているけれど、ファッション誌の表紙を飾ることも多く、だから女性ファンも多いのだ。  ライブの開場は午後5時。現在昼前なのに、もうこの人だかりかと、うんざりしながら道を歩き、会場へ向かう。  会場は大きなライブハウスで、事前に指定された裏口から中へ入り、近くにいたスタッフに声をかけると、美波の楽屋まで案内してくれた。 「遅い」 「はいすいません」  楽屋へ入るなり、椅子に座っていた美波が言う。俺はすかさず謝って、差し入れに持ってきたお菓子の詰め合わせを(スタッフさんの分まであるのでかなりの量だ)中央のテーブルに置いた。 「んじゃ」  と、踵を返す。が、 「待って待って!」 「美波ちゃんの弟さんだよね?」 「名前は?いくつ?」  などと、質問攻めにあった。美波のグループのメンバーたちだ。  そういえば、俺はこの人たちのことを何も知らないなあと思った。美波と活動して確か四年ほどになるはずだけど、名前も年齢も何も知らない。  今や日本中にファンがいる彼女らに失礼かもしれない、と妙な緊張感を覚える。 「あの、美夜です。二十歳です…俺、みなさんのことあんまり詳しくないんで…すみません」  先に謝っておこう、なんて思ってそう言った。 「二十歳?もっと下かと思った!」  そう言ったのは、メンバーの中で一番小柄な少女だ。黒髪をツインテールにしている。大きな猫目が特徴的な子だった。続いてショートボブの背の高い女の子が、美波と俺を見比べて言う。 「美波ちゃんより、美夜くんの方が可愛らしい」 「本当だ!」  それに、セミロングの茶髪をポニーテールにした女の子が同意する。 「やめてくださいよ…家で八つ当たりされるの俺なんですから」 「アハハ、ごめーん」  もうひとり、長く明るい髪にウェーブをかけた女の子が、飯田をじっと見ている。 「お兄さんは美夜くんのお友達?」  飯田はニコリと人当たりのいい笑顔で頷き、当たり障りのない挨拶を返した。 「美夜の大学の友人です。仲良くさせてもらってます」 「そうなんだ。モテそうな人」 「この前撮影一緒だった男性歌手よりイケメン」 「ああ、あの人、なんだかテレビで見る方が格好良かったね」  そういえばどこどこのグループのボーカルが、やら、あの事務所の誰々は、と、一般人の俺たちが聞いてはいけないような話が続く。  芸能界とは、もともと怖いイメージがあったけれど、あながちそれも間違いじゃないような気がした。そんなところで姉たちは頑張っているのだ。すごいなぁと一応思ってはいる。 「美波、俺もう帰るよ。頑張って」  すっかり盛り上がっている他のメンバーの邪魔をしないように、美波にそっと声をかける。美波はいつものツーンとした態度で、だけど少し笑った。 「差し入れ、持ってきてくれてありがと」 「いいよ。じゃあ、家で」  軽く手を振り合って楽屋を出た。本当は事務所の人に挨拶をするべきなんだろうけれど、俺にそこまでする義理はない。などと言い訳してみるが、本当のところは、早く飯田とデートがしたかった。 「あ、美夜、さっきまで美香が来てたの。まだ近くにいるかも」  部屋から出る寸前、美波が思い出したように言う。俺はうげぇと顔を顰め、わかったと返事を返してからドアを閉めた。  ライブハウス特有の薄暗い廊下を歩く。飯田がさっきの、と口を開いた。 「美香って、お姉さん?」 「そう。次女だ。最近仕事がひと段落したとかで、実家に帰ってきてる」 「モデルだっけ?」 「うん。あ、俺と一番顔が似てる。背丈も変わらないんだ。だから、間違っても間違うなよ」  自分、めちゃくちゃわかりやすいな、と一応反省する。飯田は俺の言いたいことがわかったようで、ちょっとムッとした顔をした。 「間違わないから」 「ん、ごめん」  以前、飯田は俺に内緒で美波と会っていた。飯田に悪気があったわけじゃない。でも、俺はそれがかなりショックだった。飯田のことは信用しているけれど、ふと感じる不安はどうしたって拭いきれない。  もともとモテる飯田と、インキャで根暗で、学部内でもいい噂のない俺が吊り合うなんて思ってない。  これはきっと永遠の課題だ。どうしたら飯田に相応しい自分になれるのか。こんな醜い嫉妬なんてしないですむのか。  いつか答えが出るのだろうか、なんてことを考えてしまう。  なんとなく沈黙が続いた。  こんな空気にするつもりはなかったとは言え、飯田にとってイヤなことを言ったのは自分だ。  ライブハウスの裏口を出たところで、少し前を歩く飯田の袖口を掴む。 「ごめんなさい」  飯田は振り返って、キョトンとした顔をした。 「イヤなこと言った…から」  素直に謝ることができた。前までは、知らんフリしてやり過ごしていた。そんな俺に飯田が文句を言ったことがない。 「気にしてないよ。おいで、美夜」  飯田はいつも通り優しかった。完璧な笑顔で、軽く両腕を広げて抱きしめてくれる。そのまま降りてきた唇が俺のと重なって、チュッと音を立てた。 「好きだからさ、美夜の気持ちもわかるよ。怒ってないけど、でもちょっと傷付いた。オレって信用ない?」 「ううん。信用してる。俺が弱いだけだ」  思ったことも、こうして全部言葉にして、大切だからこそ相手に伝えることが必要なのだ。俺も飯田も、いつも少し言葉が足りなかった。 「あー、ヤバい。どんどん可愛くなるな、お前」 「飯田の前だけだぞ」 「嬉しい」  また、飯田の整った唇が降ってきて、俺はそれを目を閉じて受け入れる。熱い舌が歯列を割って侵入し、お互いの吐息も唾液も全部交換するみたいな深いキスを交わす。 「よし、昼飯何がいい?」  飯田が名残惜しそうな顔をしながらも、そう聞いてくるので、俺はニンマリと笑った。 「もちろんハンバーグだろ」  飯田はうんざりしたような顔をして、プッと吹き出した。

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