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第51話

 翌日の月曜日、いつも通り講義を終えて飯田と大学を出たところ、路上に停まっていた車から声をかけられた。 「美夜!!」  黒いワゴンタイプの普通車だ。助手席の窓が少し空いていて、その向こうに大きなサングラスと整った鼻筋が見えた。  誰だ?と、マジマジとその人物を見る。飯田は隣で首を傾げていた。 「美夜!あたしよ!」  と、再度かけられた声で、やっとその人が誰かわかった。 「美香?」 「あたし以外に誰がいるっていうのよ!?」 「ごめん、サングラスがデカすぎてわからなかった」  サングラスがデカいというか、美香の顔が小さいのかもしれないが、ともかく、うちの次女が人目も気にせず大声で俺を呼んでいた。 「そんなことどうでもいい!ともかく、乗れ!」 「え?」 「いいから乗りなさい。そこのキミも!」 「オレも?」  飯田は驚いた顔をして俺を見た。そんな顔されても、俺だって美香が何を考えてるかなんてわからない。  ただ、姉には逆らえないことだけはハッキリしているので、俺はため息を吐いて言った。 「ごめん飯田。悪いけどついてきて」 「あ、ああ。わかった」  しぶしぶと車に近付く。タイミングを見計らったように、後部座席のスライドドアが自動で開く。  俺と飯田は頭にハテナを浮かべたまま車に乗りこんだ。またもタイミングを計ったようにドアが閉まる。  運転席には、シワひとつないグレーのスーツを着た男性がいた。銀縁の眼鏡が真面目な印象を与える、三十代くらいの男性だ。助手席の美香は、俺たちが車に乗るのを見届けたっきり、なにも話そうとはしなかった。  帰宅を急ぐ学生たちが歩く道を、俺たちの乗った車が走り出す。  なんとなく空気が重くて、一体なんの用なのか気にはなったけれど、口を開く勇気は俺にはなかった。  飯田は普段と変わらない様子だったけれど、俺が隣り合った手に触れると、ぎゅっと握り返してきたので、結構不安だったのかもしれない。  静かな車内に息苦しさを感じながらしばらく揺られていると、車は大きなビルが立ち並ぶエリアへと向かっていることがわかった。  時間にして約30分ほどだろうか。  不安を抱えたままたどり着いたのは、これまた大きなビルの地下駐車場で、俺たちはそこで降ろされ、地上階へと繋がるエレベーターに押し込まれる。  美香は明らかにイライラした様子で、時々深いため息を吐き出した。四人の姉の中で一番気性の荒い美香は、怒らせるととても怖い。鋭い目つきで睨まれて、マミィの背に何度隠れたことだろう。  大概は美香が過剰に怒っているだけで、いつもならマミィが諭して収まるのだが、今回はどうやら、本当にお怒りでいらっしゃるようだ。  チン、と無機質な音がして、エレベーターが目的地の階数で止まる。  エレベーターから降りると、せかせかと廊下を歩いかされて、会議室と書かれた部屋に押しやられた。 「美夜、ここどこかわかる?」  そこそこの広さの会議室には、テーブルが真四角になるように配置されていた。その奥に一人スーツの男の人が座っている。ダディと同じくらいの歳だろうか。高そうなストライプのスーツに派手な柄のネクタイ、いかつい顔つきのおじ様といった雰囲気の男の人だ。他にも何人か人がいて、でも、みんな深刻な顔をしていた。 「わかんない。何?俺なんかした?」  大学二年生で、社会というものに触れることもなく育ってきた俺は、ここにいる人たちの雰囲気にすっかり気押されていた。 「ここ、あたしや美麗、美波、美優が所属する芸能事務所。あのおっさんがその社長」  と、美香は早口で捲し立てるようにこの場にいるそれぞれを紹介してくれたが、俺はまったく覚えられなかった。それより、どうしてそんなところに連れてこられたのか、そればかりが気になっていた。 「美夜くん、はじめまして。私はここの社長の藤浪だ」 「…はじめまして」  藤浪さんは目つきこそ鋭いけれど、口元は笑みを浮かべていた。ただし、この場で口元だけでも笑っているのは藤浪さんだけだ。 「急に呼び出して悪いね」 「いえ…それより、一体何のようです?」  雰囲気に負けそうで、はやくここから出たかった。そのためには呼び出された理由を聞かなければ。芸能事務所なんて、俺には縁のない未知の世界過ぎて怖い。 「昨日、美波のところへ差し入れを持って行ってくれただろう?」 「はい」 「そこでちょっと、まずいことが起きてしまってね」  心臓がドキリと跳ねた。知らずに何か問題でも起こしたのなら、謝らなければ。なにせ俺はこの世界のことを何も知らない。何かやらかしていても自分では気付いていないこともあるだろう。  そう思って、潔く謝ろうと口を開く。しかし、すぐにまた閉じることになった。  テーブルにそっと差し出された一枚の写真。  そこには、明るい茶髪の長身の男と、薄いピンクの髪の小柄な人物が、顔を寄せ合っている姿が写っていた。  どう見たって、明らかにキスしているとわかる写真だ。そして、どう見たって、そこに写っているのは、俺と飯田で間違いない。  どこかから隠し撮りでもしたのだろうか、多少ぼやけてはいるけれど、昨日のライブハウス裏口だというのも一目瞭然だった。 「これ……」  誰が撮ったのか?なんで撮られたのか?そしてそれを、どうして藤浪さんが持っているのか? 「昨日、君たちがライブハウスに着く前に、先に美香がいたのは知っているね?」 「はい……」 「最近美香を狙っているパパラッチがいるんだが、そいつがこれを撮ったんだよ。君たちは背格好も顔も似ている。その記者は、美香と君を間違えて撮ったそうだ」 「で、でも、髪色も違うのに…?」  俺はご存知の通りこの一年ほど桃色を貫いている。美香は白に近い金髪で、こちらももう長くこの色を保っている。 「美香はこの前まで海外での撮影だったからね。その記者も、髪色が変わったんだと思ったそうだ。あちらは美香に弟がいることは知っていたが、そっくりだとまでは知らなかったようだ」  つまり、美香の熱愛現場を撮ったと思ったが、実際には六つ下の弟で、その弟はゲイらしい、と明日発売の週刊誌に載るということらしかった。  なんで俺が?と、正直信じられない思いでいっぱいだった。  俺なんてただの一般人だ。それなのに、週刊誌に載る?なんで?何が面白くて、そんなことするんだ?  いや、世間は面白がるだろうと思うから、これを撮った人たちは記事にするのだ。今人気の美香たちの弟は、男と付き合っているのだと話題にして、美香たちのことを笑い者にするつもりなんだ。  だからここにいる、美香たちを大事な仕事仲間だと思っている大人たちは、怒っているんだ。俺の軽率な行動のせいで、大事な美香たちが世間から冷ややかな目で見られるから。  でも、でも。  俺個人のことで、どうして家族がイヤな目に遭わなければならないのか。イメージが大事な職業だってことは、俺だって知ってるつもりだ。でもそれは、俺のイメージじゃなくて、あくまで姉たち個人のイメージのはずだ。  まして俺が何か犯罪を犯したわけでも、非道なことをしたわけでもない。なのに、なんで? 「あたし言ったでしょ。美夜も気を付けてって。それなのにこんな写真撮られて……ホント、どうしようもない弟」  美香が盛大にため息を吐き出して言った。  その言葉が、トドメだった。 「ごめん、なさい…俺のせいで…こんなことになってごめんなさいっ!!」  謝ったら、きっと世間で割と沢山いる本当のゲイの人たちに失礼かな、なんてことを思った。だって悪いことをしたわけじゃないから。それに俺は多分ゲイじゃない。今だって女の子が好きだし、他の男と付き合うなんて考えられない。  そういう感情とは別で、飯田のことが好きだ。優しく触れる大きな手も、宥めるような声音も、背が高くて顔も良くて、いつだって俺のことを想ってくれる飯田が好きだ。  でもこの想いが、他の人を、家族を傷付ける結果になるとしたら、じゃあ俺はどうする?どうすればいいんだ? 「美夜、違うわ。別に怒ってるわけじゃない」 「でも…」 「大変なのはこちらじゃなくて美夜くんの方、だ」  美香も藤浪さんも、やれやれといったふうだ。俺は意味がわからなくて、目をパチパチさせた。 「こっちはどうとでも言えるし、別に何言われたって今更慣れたものだけど、美夜はどう?きっとこの写真も、モザイクがかかったものが出るだろうけれど、大学の人はあんただって気付く。それに、飯田くんはどうなの?あなたがもともとそっちなのかは知らないけれど、友達にも、親にだってバレるわよ」  俺はハッとして隣の飯田を見やった。大学での評価なんて、俺はすでに底辺扱いされているからどうでもいい。でも飯田は違う。  目立つ容姿でモテるし、友達も多いはずだ。俺よりイヤな思いをすることがわかりきっている。 「美夜…そんな悲しい顔しないで」  飯田は、困ったように笑っていた。まるで、自分が悪いと言っているみたいに。 「忘れた?美夜に告白したの、オレからだっただろ?」 「……ん」  忘れもしない、学部の講義室前の人通りの多い廊下で、一万円札を握りしめて、戸惑ったような顔で付き合ってと言われたことを、俺はまだ鮮明に覚えている。  今思えば、あの瞬間に俺の世界はガラッと色を変えたのだ。  飯田は藤浪さんに顔を向けて、頭を下げた。 「お騒がせしてすみませんでした。でもオレは、悪いことはしてない。周りに何と言われても、オレたちは平気です。だからどうか、そちらはそちらの最優先の対策をしてください」  行こう、と飯田は俺の手を引いて、重苦しい沈黙が支配する会議室を出た。  美香が待ちなさいと言ったけれど、俺も飯田も振り返らなかった。  ただ前を歩く飯田の大きな背中を見ていた。いつも俺を守ってくれる背中だ。飯田がいれば平気だと、たしかに俺は思っている。  でも、いつもこうして少し前を歩いて、弱い俺を守ってくれる飯田に、ただ甘えるしかできない自分が恥ずかしかった。  俺はいつも誰かの後ろを歩いている。姉や飯田の後ろを、ちょこちょこと歩く雛鳥だった。  雛鳥は、大きな親鳥の背中を一生懸命に追いかけて、追いかけて。  足元のグレーチングに気付かず、ある時道端の側溝に落っこちる。  そうして落ちてしまえば、自分で這い上がることなんてできない。親鳥が助けてくれるまで、そこで恐怖に震えて待つことしかできない。  俺はそんな雛鳥と同じだ。  でも、本当は助けのいらない、対等な番になりたいと思うのだ。

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