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第4話(終)
子供の頃からの親友だった冬弥のことが好きなのだと気づいたとき、紅蓮は自分のことが穢らわしいケダモノのように思われた。二人の間にある友情というまじりけのない美しいものを、自分の不純な感情が汚してしまったような気がした。冬弥に自分の恋愛の話を聞かせてきたこともあった。冬弥はどうして僕みたいなオタクの童貞に相談するんだと笑いつつ親身になって聞いてくれたが、紅蓮は自分の恋人が男であったりすることを、いつも隠して話していた。大切な友人だからこそ、自分が恐るべき異物であることを知られたくなかった、そうだと思われて心が離れるのが怖かった。けれど、いつからか、知ってほしいと思いはじめた。知って受け入れてほしいと思いはじめた。冬弥のことが好きなのだと理解してからは、その気持ちを隠したまま友人として接していると、大切な友人を騙しているという罪悪感に苛まれた。複数の欲求が絡まり合い、耐えられなくなって、告白した。十数年の友人関係をぶち壊すことは覚悟の上だった。
冬弥は顔に出さないから、嫌悪感どころか、さして驚いた様子も見せなかった。
それどころか、嬉しそうにはにかみさえした。そして、紅蓮のケダモノを、彼はあっさりと受け入れた。
結果として友情は壊れず、友情の上に、恋人という付加価値が乗っかっているような形だ。紅蓮はそう思っている。
――けれど、もし、『断ってくれてもいい、ずっと良い友達でいよう』とあらかじめ説明していたら。
結果は変わっていたのではないか。
そういう考えが、紅蓮の頭にはよく過ぎる。冬弥は親友を失うのを恐れただけなのではないか。紅蓮との友人関係を壊さないために、恋人関係をプラスすることを甘んじて受け入れたのではないか。
好きな人と恋人になれたことは、紅蓮は純粋に嬉しい。それでも、もしも冬弥が自分に合わせて無理をしてくれているだけなのだとしたら、すごく辛いし、そんな関係は終わらせた方がよいのではないかとも思う。
――ナーバスになっているのは、ドライブの車中の夜道ですら恋人らしい雰囲気にまったくならなかったからだった。冬弥が寝ている間に用意したドライブソングも雰囲気づくりにはまったく功をなさなかった、それもこれも目を覚ました冬弥と結局ゲームで白熱してしまったからだ。道中は一生懸命メロンを運んでいた冬弥の四十匹の赤ピクミンたちが紅蓮の仕掛けた地雷により見事に爆死した事件の話題でもちきりだった。
でも、冬弥と罵り合いながら本気でゲームでぶつかりあうのは、この上なく楽しいのだ。
冬弥がもしも無理をして苦しんでいるなら、恋人を解消して友人に戻ったっていい。自分たちなら良好な関係を保てる気がした。
喫煙所で一本煙草を吸い終える頃になって、便所に行っていた冬弥が暗闇から帰ってくる。「水が冷たかった」と言ってしきりに手をこすりあわせていた。山の上だから、そりゃそうだろう。夜風も街より幾分冷たい。火照った頭を冷ますには丁度よかった。
冷ましても、行こう、と微笑みかけてくる冬弥を見ると、また勝手に頭が火照る。
頷いて、歩きはじめる。隣を歩いている。はあ、と指先に息を吐きかけている。かわいいな、と思った。恋人を解消したっていいが、できるならずっと、恋人のままでいられればいい。
展望台へ歩く途中でいくつか二人組とすれ違う。いずれも男女のカップルだった。彼らの目線を感じると、自分たちは彼らにどう見えているんだろう、なんて無意味なことを気にしてしまって、口を閉ざしてしまう。
もちろん展望台にもぽつぽつと人がいる。冬弥が「おー」と言って街並みを見下ろし、いそいそとスマホを取り出す間、紅蓮は周りの目ばかり気にしていた。「あのへんが紅蓮の家、あのへんが大学、今度行く水族館はあっちのほう」冬弥は珍しく声を弾ませ、スマホでしきりに写真を撮りはじめる。紅蓮はなるだけ小さな声で相槌を打った。ちらちらと見られている、気がする。自分たちが男同士であることを、周囲の他の恋人たちに、懐疑的な目で見られているかもしれないことが、嫌だ。自分はいいけれど、自分のせいで、冬弥にまで変な目を向けられているとしたら。
そっと窺う。スマホ画面の中に一生懸命夜景を収めようとする、少し頬の上気した、綺麗な冬弥の横顔。
この顔を、自分の欲望のせいで汚してしまうのだとしたら。
「寒いな。帰ろうか」
居てもたってもいられず、そんなつまらないことを言っていた。「もう?」と冬弥が不服そうに声を漏らし、「待って、もうちょっと……」と乞うてくる。こいつにはまわりの目とか気にならないんだろうか。だとしたら羨ましいことだ。
「写真ばっか撮ってたから、まだ目で見てない」
かわいらしい言い草に紅蓮は思わず吹き出した。淀もうとしていた少し心が絆される。
「いいの撮れたか?」
「ろくに映らないんだ。頑張ったけど」
見て、と言って液晶を向けられたスマホを覗き込もうとして、紅蓮は冬弥のそばに寄った。
写真は正直まあまあだった。グーグル検索で出てくるような写真には無論到底及んでいないが、スマホで撮ったにしては上出来なのではないだろうか。画面を次の写真へスクロールしようとして、右手を伸ばした。人差し指が液晶を撫でる。
「うまいんじゃない、か」
その不意を打つように。
左手が、冷たいものに触れた。
「……っ」
触れた手が、ポップコーンみたいによそへ跳ね飛んでいかなかったのは。
紅蓮の無防備だった左手を、冬弥の右手が、するりと握り込んでいたからだった。
「……、……!!」
冷たい、手。冷たい越しに、やわらかさと、あたたかさが伝わってくる手。節立った細い指で、自分より薄い甲で、なめらかな皮膚。息が止まった。思考も停止した。心臓も止まっているかもしれない。顔も動かせず、目すら動かせず、ただ、右手の人差し指だけが、バカのひとつ覚えみたいに冬弥のスマホ画面をフリックした。
ぶれぶれにブレまくった写真だった。
繋いでいる冬弥の左手は、ちいさく震え続けていた。
紅蓮はやっと、やっとの思いで、横に並んでいる彼の顔を見た。
感情を表にしない冬弥の顔は、夜でも丸分かりなほど耳まで真っ赤に茹っていて、その目は頑なに紅蓮の顔を見ようとしない。
「……と、うや……?」
「……」
「…………」
「…………。」
長い長い沈黙が流れて、そのあいだに、触れ合っている手と手の隙間が、ぴったりと埋まっていくみたいに、肌の感覚が馴染んでいった。筋っぽい感触を味わうように控えめに握りを強めたり弱めたり、おずおずと動かしてみる。じきに冬弥の手の震えがおさまっていった。言葉を介さず、手と手をあわせて、そこで会話をしているみたい。気まずさが和らいでいく。
気まずさが和らいでいくと、入れ替わりに、泣きたくなるようなしあわせが、じわりじわりとこみ上げてきた。
黙って眼下へ目を向ける。せっかく来たのに人目を気にするばかりでちっとも夜景を見ていなかったことに紅蓮は気がついた。二人で肩を並べて見下ろす夜景は、思っていたよりもずっと綺麗だった。真っ暗な夜闇に染まる山あいの向こうに、満天の星空を集めて濃縮したみたいな、豪勢に光り輝く街並み。少し遠景に瞬いてるのは海辺の工場地帯。橋が架かっているのも見える。川のように見えるのは国道の自動車のヘッドライト。
背後を人の足音が通り過ぎ、風に流された笑い声が聞こえてくる。
ぎゅ、と、冬弥の右手が、紅蓮の左手を少しだけ握りしめた。
ぎゅう、と強く握り返した。
なんだか、笑えた。笑いを堪えてゆるゆると唇を歪ませながら冬弥の顔を見やってみると、同時にこちらへ振り向いた冬弥が同じ顔をしていたので、二人で肩を寄せ合ってくつくつと笑った。きっとさっきの笑い声も自分たちを笑ったのではなかったのだろうなと紅蓮は思った。だって、二人の間の空間が埋まって繋がっているとき、そこには二人きりのふわふわな世界があるだけで、相手を除く他の存在のことなんて、露ほども気にならないからだ。
「帰るか」
「うん」
最後に焼き付けた夜景から目を切り、踵を返す。歩きはじめると同時に解かれた冬弥の手を、紅蓮は自分から掴みにいった。指と指との間に自分の指を入れる、いわゆる恋人つなぎ。こっちのほうが恋人っぽい。
「なあなあ冬弥」
にぎにぎ、と彼の掌をやわく揉みながら、紅蓮はふわふわな心地で問いかける。
「あとで左手も握っていいか?」
「……また今度な」
*
帰りの車中にて。
「なあなあ冬弥」
お気に入りのドライブソングをご機嫌に口ずさみながら、赤いセダンが山道を駆け下りていく。助手席の冬弥が「ん」とかわいく返事をすると、紅蓮は片手をハンドルから離し、冬弥の方へと差し向けて見せた。
「手繋ぎたい」
ぺしん。その手が叩かれる。
「危ないだろ運転中は」
「真面目だなあ」
「普通だよ」
「信号で止まってる間はいいだろ?」
冬弥は少し考えてから、「それなら」と小さな声で了承した。明らかに照れている。かわいい。
すぐに街中へ戻ってきた。川のように見えていた国道を走り抜けながら、青信号を見かけるたび「止まれ! 止まれ!」と連呼する。冬弥は呆れながらも笑ってくれた。笑った顔は本当にかわいかった。
赤信号に引っかかる。確実に停止してから、あたらめて手を差し出した。右手が伸びてきて、きゅっと握ってくれる。へへへ、と思わず気味の悪い笑いが漏れた。カッコ良い恋人にはいつまでも進化できなさそうだ。
歌いながら手の感触を堪能していると、「興味ないんじゃなかったのか」、と、冬弥がぽつりと呟く。もう少しで聞き逃しそうな、ため息のような声だった。
「ん? 何が?」
「え、こういうことに」
「こういうことって?」
「だから、その」冬弥は照れたように言い淀む。照れた顔はいつも最高にかわいくて愛おしい。「手を繋いだりとか……そういう恋人っぽいことに」
紅蓮はウンウンと冬弥のかわいい声を聞きながら、ご機嫌に手をにぎにぎしつつ言われたことを咀嚼した。
そして思わず顔を向けた。
「え!?」
「ほら、信号青」
「おっとォ」
ハンドルを握りなおしてアクセルを踏む。ほどくたびに左手が寂しい。
「俺が恋人っぽいことに興味ないって思ってたのか!?」
「だって全然そういうことしようとしなかったじゃないか。そっちから告白してきたのに、ずっと友達の延長線上みたいな感じで、そういう雰囲気にもならないし」
「でもお前それが楽だって……」
慌てて言いかけ、はたと記憶を手繰り寄せる。
それが楽だと言う前に、彼は何と言っていたか。
――なんか代わり映えしないな。
――デート感がない。
――昼飯がマックって言うのもいまいちデート感ないよな。
極めつけは、こうだ。
――付き合ってるのに手が当たってすまんっていうのは、違うんじゃないか?
デート感の話を持ち出してきたのは冬弥で、ドライブデートを提案してきたのも冬弥。ドライブを提案すれば車を取りに戻らねばならない、つまりおうちデートに持ち込むことも織り込み済み? ということは ……デート感を模索しようとしていたのは、冬弥も同じだったと言うことだ。
「確かに楽だけど、せっかく付き合ってるのにそれだけってのもな」
照れくさそうに頬を掻いている。つまり、楽だって言ったのが照れ隠し。なんだ、紅蓮は、冬弥が無理をしているのではなんて気にする必要などなかったのだ。だって、冬弥もずっと、紅蓮と同じ気持ちでいてくれたのだから。
(同じ気持ち、か)
うれしくて、うれしくて、カッコ悪いと分かっていても、勝手に頬が緩んでしまう。
「このあとどうする? お前の家まで送ろうか」
「駅でいいよ。ああでも、帰るにはまだ早いし」
「どっかで飲むか」
「君の家で飲もう。つまみでも作るよ」
「よしきた!」
家なら人目もないし、手も繋ぎたい放題だ。心が弾むのを抑えられず、弾んだ心が勝手に高く飛んでいくのも、もう紅蓮には止めようがない。手を繋ぐだけじゃなく、抱きしめたり、キスをしたり、あわよくばその次も……いやいや、ゆっくりやらなければ。焦らず、少しずつ、一歩ずつ前へ進んでいこう。そうでないと、自分の心臓が持たない。自宅が全焼してしまう。
とはいえ紅蓮の脳裏に無意識に過ぎってしまうのは、昼間したようなやましい妄想の数々だった。妄想というか、ベッドに寝そべっていた冬弥の色っぽい姿だった。あのときにも、冬弥は恋人らしさなど微塵も意識せず他人の家で無防備に寝ていたのではなく、どうすれば恋人っぽい雰囲気が出るのか、悩んでいたというわけなのだ。
……ん?
ということは……?
「……あれは……あれは何だ……?」
「え、どれ?」
冬弥が車窓を流れていく景色へ異物を探してキョロキョロするが、紅蓮の視線は運転しながらも完全に昼間の光景を捉えている。
「俺の布団で寝てたのは……あれは……どういう意味だ……?」
左手後方に見えないものを見ようとしていた冬弥が、固まり、押し黙った。
「君の匂いがするとか言ってたのも、もしかして『恋人っぽいこと』したくて鎌かけてたのか……?」
手前の信号が赤に変わり、するする、セダンが停止する。
そっ、と紅蓮は冬弥の右手に手を重ねた。
指先で、彼の手のひらを、すり……と撫でてみた。
――びくん、と、冬弥の肩が小さく跳ねた。
「…………!!」
ゆっくり進もうという数十秒前の誓いが、脆くも瓦解した瞬間である。
「冬弥……」
「……」
「こっち向いて」
「あ、あれは……ちが……」
「分かった。よしよし、急いで帰ろう」
「やっぱり駅で降ろしてくれ……」
「降ろさんぞ!」
信号が青に変わる。セダンがぎゅんっと元気よく加速した。
「止まるな! 止まるな!」
信号は次々青になってどんどんセダンを通してくれる。
「明日休みだろ? 泊まっていくか?」
「いいよ、帰るよ」
バックミラーに映る冬弥が真っ赤っかの涙目だった。かわいすぎてびっくりした。
「泊まる準備してないし」
「服なら貸すって」
「君の服デカいから」
「着れりゃいいだろ」
「寝る場所ないし」
「うちのベッド、広いからな……」
冬弥の言葉を引用した。うぅ、と彼が顔を隠す。
「……」
「なあなあ」
「……」
「手を繋ぐ以外にも、いろいろしたいんだが……」
顔を隠したまま返事をしない。
だんだん紅蓮まで恥ずかしさで気が引けてきた。だが、ここで身を引いてしまっては、『恋人っぽいこと』の恥ずかしさハードルなど到底超えられるはずもない。
「うちについたら」
運転に注意を配りつつも、意を決して、紅蓮は言った。
「ぎゅってしていいか」
「……」
しばらくご機嫌なドライブソングだけが車内を席巻した。
「……」
両手で顔を隠したまま、悩みに悩んで、やがて、ちょっとだけ顔を覗かせ、冬弥は涙目で紅蓮を見やった。
「……してみたいな……」
「だろ!? よし、しよう! どんどんしよう!」
「どんどん、はちょっと、まだ心の準備が」
もごもごと言っている。目に涙が溜まりすぎて、そろそろ泣きだしてしまうんじゃないか。
「は、はじめてなんだ、こういうの……知ってるだろうけど……」
「知ってるよ。ごめんごめん」
「ゆっくり、してくれ」
不安げに控えめに、すがりついてくるような言葉に、紅蓮は大きく頷いた。
「うん。大事にする」
――ぶおおぉーん、と頼もしいエンジン音を鳴らしながら、光に溢れた夜の街を、セダンは走り抜けていった。
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次回はおまけの初夜を投稿します
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