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アスタロト(序1)

1-1  呼び出すなら、水曜日が良い。  特に、『望』みを叶えるならば『望』月の宵闇の深夜が丁度良い。 「うがあ=くとぅん=ゆふ くとぅあとぅる ぐぷ るふぶ=ぐふぐ るふ とく ぐる=や つぁとぅぐぁ いくん つぁとぅぐぁ いあ いあ! ぐのす=ゆったが=は いあ! いあ! とぅとぅぐぁ!」  少年は――その見た目、外見に相応しい年相応の大声を以って、悪魔を召喚しようとしている。呪文の詠唱は数度に渡って行われる。小一時間を超過し、咽喉は枯れ掛け自分自身の呼び出しに応じないのではないかと思い、その子供は小さな手には不釣り合いな豪華な装飾が施された指を丸めて、ギュウッっと握り拳を作った。  ……呼び出すなら、水曜日が良い。  殊に、月食の時節なら尚良い……。  そのようなことを、遠い先祖の大魔術師が独自に使っていた魔導書に記されていたのだが、その子には魔法の才覚や大悪魔を呼び出す資格がないのではないかと思いだすも、気を取り直して血のしわぶきさえ吐いても構わないほど、呪文を幾度も繰り返すのだ。 「うがあ=くとぅん=ゆふ くとぅあとぅる ぐぷ るふぶ=ぐふぐ るふ とく ぐる=や つぁとぅぐぁ いくん つぁとぅぐぁ いあ いあ!」  ――やがて、(ついたち)の如く、分厚い群雲が満月を覆い隠した。星空の一筋の明かり、月光の一帯の光りさえ届かないその暗がりはまことに不気味なものであった。まだ年端もいかない少年は、夢中で大悪魔を呼び出す呪文を繰り返しているため気付くことはなかったが、例え闇に通ずる魔術師の端くれとはいえども、斯様に漆黒なる夜の帳が覆う暗月の様子は十二分に震え上がるのには十分なものであった。  そんな中、夜の世界が暗がりを纏っているその時、少年の爪先より少し前にあった、鶏の生き血で描かれた魔法陣がポウと光った。少年は驚いたように――しかし決して悪魔を一時的に閉じ込める陣の内側に入らないように気を付けながら注視していると、その光は顕著なものへと変化していく。  血液特有の滑りやてかりを有した光沢とは異なる、『血の通った』魔界からの訪問者の来訪を知らせるランプ。  硝子が爆ぜるような、流氷が軋むような音がしたかと思うと、真新しい贄となった鳥の血が一気に凝結した。新鮮さの感じられない輝血のような様子から、酸化することによって赤黒い錆びのようなものになった粉『布陣』は、毒の花の香と共に顕現した存在により吹き飛ばされることはない。  魔法陣は檻だ。  魔界にして異形のモノを一時的に縛り付ける鎖でもある。  そう簡単に消えるものではないのであった。 「私の名前はアスタロト」  魔界の住民は――羊のように丸みを帯びた悪魔の冠を頭に付けた存在は、そう名乗る。足元にはアネモネの花が咲き乱れ、幽世の存在が現世に出現したことによって、分厚い雲は隠していた月の姿をあらわにして、逃げるように何処かへ去る。  窓辺から漏れ出す月光の(ひかり)の中、少年はこれまで、どれほど魔術書や魔導書を読み漁っても正確な召喚法が確立していなかった存在の呼び出しに成功したことに、内心驚きを隠せないでいた。  血潮を浴びそのまま放置したような赤黒い髪の毛。白目が黒く、黒目が赤い。瞳の中心にはかつて太陽神だった頃の名残を思わせる、限界にまで窄められいっそ十字架に近い波型なき四芒星。片手の手の甲には中指一本だけ長く伸びた鋭利な爪があり、両手首には金輪があった。蝙蝠のような硬質な羽根と、先端がスペード型のしなやかな尻尾。首元には羽毛の付いたファーのある外套を羽織り、宙に浮きながら見下ろしている。  少年は呆然とした様子で、間抜けにもポカンと口を開き、指輪を装着していた手とは逆の手の平に所持していた、先祖の遺品である本を落としてしまう。落下したショックで魔術書の頁が幾らかパラパラと捲り返ったが、丁度開いたそのページには伝説の馬であるバヤードを乗りこなす方法や捕獲法などについて記載されている。  アスタロトは横目でチラリと本の内容を見て、次いで怪訝に少年の方を眺めた。アスタロトの表情が無であることも手伝って、どこか怒っているような雰囲気があるが、実際はそうではない。単純に彼の悪魔は、今は故人になりながらも知人の遺品を少年が所持しているのか分からなかったのである。それがゆえ、話を聞かなくてはならないと思った。確認をしなければならないとそう感じたのであった。 「……少年よ、ひとつ聞きたいことがあるのだが、その本はどこで手に入れた?」 「ほ――本ですか?」  少年は狼狽えた。悪魔と云えば、召喚してすぐ契約の話に入るのではないかと思っていたが、よもや契約後の雑談に纏わるものが劈頭第一の主題に入るとは思ってもみなかったからだ。想定していなかったと、云っても良い。 「これはあの」少年は魔術書を大事そうに抱えながらしどろもどろになりながら云う。本物の悪魔を目の前にして緊張度が高まっているのだ。「ご先祖様の私物です。何か困ったことがあったら使うように、一子相伝の虎の巻なのです」 「虎の巻……」  アスタロトは少年の問いを聞いて、どこか納得できない心持ちでいた。ここにいる子供の言葉を無条件に鵜呑みにするならば、先祖……といったか……その人物が死んで、どれほどの時間と月日が流れて来たのだろう。現世現代における世情はそれほど詳しくはないが、異世界からの訪問者、いわゆる異世界転生なる者たちによって、本来あるべき歴史が塗り替えされ、元同業者として天使たちは堕落した悪魔を使役していた時期があったはずである。  その歴史改竄の大混乱収束以降、アスタロトは名を呼ばれもせず、存在を希われず、ウトウトと好きなだけ微睡むだけの生活を送って来た。その時間を数値で表すならば、ざっと五百年ほどである。  アスタロトの知人にして個人たる人物は大魔術師といっても過言ではないほどの実力を有した、男であった。少年を見る限り、残滓さえ残っていないほど大魔術師の血が薄れて、直属の子孫ではなく別の家系の他人といっても差し支えない状態になっているが、片鱗とでも云うべきか。今はまだ、そう名乗ることさえ烏滸がましいが、順調に成長していけば非常に優秀な魔術師になることは想像に難くない。  だが、それでも……少年の将来性を看破した上でも、あのシャルルマーニュ十二勇士の一員であった、魔術師・モージとは似ても似つかない存在のようにしか思えなかったのである。  だから、疑った。  それは少年が盗んだものや買い取ったものでなくとも、モージの直属の子孫から手に入れたもの――奪ったものではないかと、そう考えたのである。  今回、アスタロトはしつこく自分を呼び出す魔法詠唱の言葉があまりにも煩く、そうして煩わしくなって出てきたが、それは契約をお断りするために顕現しただけである。  俄に目を細めながら「どうして私を呼び出したのだ」と、悪魔契約時に一番最初に行われる運びに流れを変えながらも、少年の懐を探り出すのであった。 「えっと、貴方を呼び出した目的ですか?」 「ああ、そうだ。何の計画もなしに、単なる好奇心で召喚したわけではあるまい? 何事にも無頓着な私とは云えども、悪魔としてそれなりの矜持というものがある。人間と我々は対等な存在であるが、お友達感覚の勘違いした認識で接してもらっては困るのだよ」 「ぼ……僕が、呼び出したわけは――!」  少年はそういって前のめりになった。これがもしも一歩足を進めていたら、悪魔を閉じ込めていた魔法陣なる檻の中に入り込んでいたことだろう。魔法陣は結界の一種でもあるが、その中に一度足を踏み入れれば、裸で無防備なまま魔界に突入するのも同義だ。飢えた熊の目の前に無謀にも入る愚か者と云えば、分かり易く伝わるかもしれない。 「あの、うまく云えないのですが、僕は魔法を――魔術を人助けのために使いたくって! でも、僕に魔法を教えてくれる人なんて、もういなくて……」  最後の言葉は尻すぼみに消えていった。それはアスタロトを呼び出した理由に値するものなのか自信を消失したものではなく、これまで己が経験してきた中で辛い記憶を髣髴として、うまく言葉が出せないようであった。  アスタロトは苦しそうに表情を歪ませる少年を目の前に、敢えて無言のままで俯瞰していた。沈黙に徹した方が喋り易いかもしれない配慮というより、人のこころが未だによく分からないこの悪魔はどのような言葉を差し向ければ流暢に身の上や境遇をスラスラと流し出せるのか、対応が分からなかったからなのである。 「……僕の家系は云うまでもなく分かることでしょうが、魔術師の家系です。ですが、その、五百年ほど前の大昔の話になるのでしょうか……あり得ない話かもしれませんが、天使と悪魔が協力し合って、化け物を撃退した御伽噺があるんです」  御伽噺。  当事者であるアスタロトは、もうそのような空想や伝承の一部に組み込まれているのだなと感慨深い感傷に浸った。 「その混乱期は治まって今は安定期に入っており、魔法と科学が混然一体となった世界になって、とても平和なモノになっています。安定したとでも云うのでしょうか。侵略者の存在もなく驚異となるモノもない日常となっています」  そりゃそうだろうなと、アスタロトは嬰児から少女、そして一人の立派な女性になったピグマリオンのことを思いながら、そう思う。 「まるで魔法と科学が同時に発展するのが、予定調和のようになった世の中ですが、魔法が使えないノーマルは科学の進歩を。魔法が使えるアブノーマルは魔術の研鑽をしなくてはならないのです」 「ノーマル? アブノーマル?」 「あ……単なる区別です。差別的な意味合いも何もない、単なる記号です。他にも獣人なんてのもいるのですが……」 「そうか」ついぞ聞いたことのない区分による言葉に本当に世界は変わってしまったのだなと思う。「して、それからどうした。私を呼び出すほど切羽詰まった状況というのは、どういった環境や状態を指すのだ?」 「えっと……」少年はモジモジとしながら云い難そうな態度を示す。「少し前に、僕は魔法を究めたいと云ったじゃないですか」 「ああ、そうだな。私の見たところ、お前には才覚と才能があるように見受けられる。このまま順調に成長していけば……この世界の魔法の基本レベルは分からんが、まあそれなりに輝かしい栄光を手に入れることが出来るだろう」 「お褒めに預かり光栄です。これからも精進したいところなんですが……」  素直な賛美が本当に嬉しかったのか喜色を顔に出しながらも、彼は厳しい現実を思い出してか静かに暗涙するのだ。その悲しみの堰き止めは小康状態になることなく、徐々に熱っぽく、潤んで、激しい感情へと変化していく。  アスタロトは古代王の顔に怪我を負わせた過去があり、「泣く子は敵わない」ことを身を以って知っていた。それゆえ、今にも号泣を超えた啼泣の域に入りそうな少年の精神を落ち着かせるため、気分の和らぐ鎮静効果を持つ花の香を嗅がせようとしたが、既にそれは手遅れだった。  少年が大粒の涙をボタボタと流し、しゃっくりをするように両肩を激しく上下にさせたかと思った瞬間、魔法陣の描かれた地下室に暴力的な現象が引き起こされるのだ。アスタロトの鎖骨まで伸びた髪を一陣の突風が過ぎたかと思うと、背後にあったフラスコが割れた。衝撃音とパラパラと陶器の残骸が石畳に落ちる音に目を見開いていると、目に見えない暴動はそれだけに留まらない。  机が軋み、本棚は宙を舞い、チョークは原型を留めぬほど粉微塵になって、小さい鉄製の窯はくべられていないのに破裂した。 「感情が昂ったことによる魔力の暴走か――!」  アスタロトは一瞬で状況を判断して、少年を中心に渦巻く魔力の本流を眺める。渦潮か、それとも台風のように荒れ狂う膨大な魔力は、それは確かにこの才能のある少年に『教鞭を執れる人間』なんぞいないことだろうと思いながら、破壊音を立てながら一直線に飛んで来る椅子に敢えてぶつかり、アスタロトは魔法陣の外に出た。 「ええい!」  無様に石畳に転がることなく、椅子が物理的に衝突した力だけで――もっといえば少年の魔力暴走の余波で陣から出たアスタロトは乱暴な所作を以って、木製の椅子を床に叩きつける。椅子はアスタロトにぶつかる前、壁や床などに勢い良く衝突していた所為か容易く粉々になった。  アスタロトは大声で泣き喚く少年の元へ近寄り、抱きしめた。そうして「落ち着け」と必死に云い聞かせるのだが、少年は混乱状態になっているのか、それとも荒れ狂う地下室の騒音で何も聞こえない――もしくは双方が合わさっているのだろうか……静止を呼びかける訴えでは、冷静さを取り戻さない。    このまま魔力が枯渇するまで暴れまわれば、地下室だけでなく、この少年の家屋そのものが破壊されてしまいそうだった。  推察するところ、恐らくこの少年は大魔術師・モージに匹敵比肩比類する力を持ちながらも、制御を――コントロールの仕方が分からない。こうして感情の荒ぶるまま暴走したのは、一度や二度ではなく、癇癪のように引き起こされ、それが難点となって、少年は遠巻きにされて来たのだろう。  そもそも、年端もいかぬ幼気な子供が地獄で三番目の実力者であるアスタロトを『正式な呪文』を唱えて呼び出せたことが、異常なのだ。アスタロトは真面目腐った呪文で己を呼び出す際、可能な限り無視をする傾向にある。気紛れを発揮して召喚に応じるのは、間違った呪文を唱える実力の低い魔術者のみだ。  こういった対応にはアスタロトが怠慢たる職務を司っているがために、そうしている傾向があるのだが、中には正式な呪文を唱えていくら拒否しようとも、強引に現世に顕現させる例がある。  強制力のある呼び出しは綱引きのようなソレではなく、自身の周囲に時間経過と共にアラーム音が大きくなっていく目覚まし時計があるような状態で、しかもその数が増える。耳障りな音に耐え切れなくなって根負けしたアスタロトは召喚に応じるのだが、これまでほぼ強引に己を呼び出した存在は、モージと天使と……そうして、この少年だけだ。  あのモージでさえ老人になってから私を使役できたのにな……と思いながら、アスタロトは少年の唇を奪った。  ぱちくりと見開かれる両目。  瞠目しているような瞳。  アスタロトは突然の悪魔の行動に、今まで啼泣して魔力が暴走していたのが嘘であったかのように、落ち着きを取り戻した。正確には予想だにしていなかった悪魔の行動に虚を突かれたのであるが、暴風や荒波のように荒れ狂っていた魔力の台風にして渦潮が収まった。  浮いた物品がボトボトと……或いはガシャガシャと喧しい音を立て砂埃が舞う中、触れる程度のキスをしていたアスタロトの唇が離れる。  少年は現在、アスタロトの片膝立ちになった懐の中で横抱きにされているのだが、まさか男である自分が女性のように姫抱きにされる……いいや、いくら気を落ち着かせるためとは云え、軽いものであったとしてもキスされるだなんて思ってもみなかった。  アスタロトは赤子の癇癪が鎮火したと溜息を吐く中、少年は真っ赤に赤面し口元を抑え、未だ感触の残る唇に触れるのである。 「どうだ。落ち着いたか?」 「ああ……はい……」  少年は心臓を強く高鳴らせ、自分に「相手は悪魔だ。男だ」と云い聞かせながらも、胸の内の鼓動とトキメキは止まりそうにない。嫌悪感がないどころか、人差し指で唇の形を確かめるようにやんわりと触れている中、アスタロトはハッとしたように少年の手を取った。 「これは……!」  手の平を引き寄せられたことにより、顔が急接近してくる。  少年はアスタロトを直視できないあまりグルグルと視線を彷徨わせていると、悪魔は明らかに不自然な態度でいる彼に構わず「この指輪は?」と質問をぶつけるのであった。 「この、指輪……ですか」恭しく手を取られる様は見ようによっては手の甲にキスでもされるのではないかと少年は思うが、アスタロトとしては指輪を見ているだけである。「これも、魔術書と同じくご先祖様の遺品です」 「そうか……少年、つかぬ事を尋ねるが、お前の先祖の名前は何と云う」 「……魔術師・モージ」  それが、アスタロトが無条件で少年に仕えるのに十分な一言だった。  遺品の本と指輪と云い、そうしてモージ以上の魔法の才覚の片鱗を――暴走という形であれ――見せつけられた現在、この少年はまこと真実にモージの遠い子孫なのだと実感せずにはいられなかった。  アスタロトは手前勝手自分勝手に内心決めていたことであるが、モージの子孫及び関係者ならば、大恩ある身であるがゆえ無条件で従うことを鉄則としていた。  アスタロトは微笑しながら、「詳しい話はあとで聞こう、マイロード」と云うのである。今は地下室の後片付けと清掃が先だと述べるのだが、その日向のような微笑は少年の性癖を曲げるのに十分だった。  少年は悪魔であれば誰でもこのような心持ちになるというわけではないが、アスタロトの顔立ちが性別や種族を超えて好みだったのである。  精通している年頃であれば、少年はその場で間違いなく股間を膨らませていたことだろう。 しかし、だからと云って少年は恋の懊悩に殴殺される日々を過ごしたというわけではなかった。  ……彼を手中に収めたい青年になるまでは……。

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