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時を同じくして――。
郊外の森に囲まれた丘陵地に建てられた大邸宅の一室。
窓は完全に閉め切られ、遮光カーテンが厳重に引かれた部屋は、まだ陽が高い時間にも関わらず闇に包まれていた。
ロココ調で統一された天井や壁、窓枠やドアには職人技ともいえる繊細な彫刻が施されている。
落ち着いた雰囲気の毛足の長いグレーの絨毯に、壁際に無造作に置かれたアンティーク家具。
寝室に置かれたキングサイズのベッドのヘッドボードさえも、見る者が見れば芸術品に値する。
静寂だけが支配する広い寝室に、微かに聞こえる衣擦れの音と気だるげな吐息が響いた。
「――眠っている俺を起こしてまでの用件とは何だ?」
少し掠れてはいるが、その声は低く甘さを含んでいる。
ぼんやりと光を放つスマートフォンを片手に、気怠い上体を起こすと背中にクッションをあてがいながらスピーカーから聞こえる声に耳を傾けた。
レヴィ・アルフォード。三十歳という若さでJ・イーストの裏社会を纏めている影の存在。
滅多に人前に姿を見せることはないが、その手腕は部屋に居ながらにしてすべてを見通せる力があるのではないかと言われるほどだ。
いくつものバー、キャバクラ、ホストクラブなどを経営しており、裏社会はもちろん国家上層部にまで幅広い任脈を持っている。
そして……J・イーストを経済危機から救った一人である。
彼はバンパイア一族皇帝直系の血を引く者である。しかし、それを知る者はごく一握りで、表向きにはイギリスの名門アルフォード公爵家当主となっている。
そんな彼は夕方から明け方にかけて本格的に動き始める。多忙を極め、朝方帰宅して何とか眠りについた彼が熟睡しているところをいきなり電話で起こされれば、レヴィでなくとも不機嫌になるだろう。
ローマ彫刻のような美しい眉間に皺を寄せていたが、その表情は次第に真剣なものへと変わっていった。
「――で。お前はどうするつもりだ?そいつの血を使って実験出来るのなら遺伝子学の権威として偉大な功績を残す事が出来るだろうに。なぜ俺に託す?」
形のいい額にかかる乱れた前髪を払いのけて、彼はすっと目を眇めた。
「――セロンか?それは随分と厄介だな。これまで多少の小競り合いはあったが今のところ均衡を保っている。――お前は俺たちに内乱を起こさせる気か?うるさいだけの遺伝子学者だと思っていたが、その本性はテロリストだったとはな。――まぁ、いい。お前がそこまで言うのなら考えなくもない」
液晶画面をタップして通話を終わらせると、乱れたシーツの上に放り投げた。
「面倒なことに巻き込みやがって……」
短く舌打ちしてベッドからおりた彼は全裸で、鍛えられた体を大きく弓なりに反らせて伸びをした。
漆黒の闇の中でも青白く光る滑らかな肌はまるで陶器のようだ。
明かりのない部屋の中を、まるでどこに何があるのか見えているかのように歩く。
その足取りは迷うことはなかった。
クローゼットの扉を開け、ジーンズと長袖シャツといったラフな格好に着替えると、緩くウェーブのかかった長めの髪をぐしゃぐしゃと指でかきあげた。
そのまま寝室の入口のドアに向かい、金色のドアノブに手をかけた。
バチッと静電気のような青白い光が散ると同時にカチャリと錠が外れるような音が響く。
そのドアをゆっくりと押し開くと、いくつもの窓が並ぶ長い廊下に出る。ほとんど何も見えないほどの闇の中から眩いほどの光に照らされた場所に出て思わず目を細める。
「――随分とお早いお目覚めですね」
歩き出したレヴィに間髪入れずに問いかけた声の主を睨む。
「起きたわけじゃない。電話で起こされた……」
機嫌の悪い主の視線に屈することなく、黒いスーツをきっちり着こなした長身の青年――ノリス・フェザーは優しく微笑んでいる。
日中、彼が睡眠をとっている間、指示を受けて動いているのは執事である彼だ。
年はレヴィよりも二歳年上ではあるが、主である彼には絶対的な忠誠心を以って仕えている。
彼もまたバンパイアと人間のハーフであるダンピールと呼ばれる存在だ。
レヴィがまだ幼い頃、父親に勧められるがままに初めて“眷属”としたのが彼だった。それ以来、三〇〇年近くも一緒にいる。
互いの顔を見飽きるという域をとうに越え、空気のような存在になりかけてもなお、レヴィにとってノリスはなくてはならない存在なのだ。
「――大至急探してもらいたい奴がいる。出来るか?」
まるで宝石のような深い紫色の瞳が彼をとらえた。その瞳はバンパイアであれば誰もが憧れる、皇帝の直系血族のみに与えられた純血統の証なのだ。
その高貴で妖艶な瞳に見据えられても、ノリスは落ち着いた様子で「ええ」と口元に笑みを浮かべる。
「ご用件はダイニングでお伺いいたします」
「大至急と言ったろ?」
「私があなたの命に背いたことがありましたか?オーダーはもう承っております」
チッと舌打ちして緩くウェーブのかかった透き通るような輝きを見せる銀色の髪をかきあげた。
指先の長く鋭い爪が窓から差し込む光にきらりと輝く。
「――お前は一体いつ眠ってるんだ?」
「あなたの執事である以上眠っている時間はありませんね」
冗談めかして言う彼だが、女性的な優しい顔つきで小首を傾けて微笑まれれば、たとえ怒り狂っている相手がその場にいたとしても黙る事しか出来ない。
そんな彼が、夜の支配者の代役としてきちんと仕事をこなしているのかと、時々主であるレヴィも疑問に思う時があるが、彼の手腕は十分すぎるほど発揮されている。事実、ミスは一度もない。
「――お仕事までまだ時間はあります。ごゆっくりなさってください」
レヴィが何か物事を頼んだ時点で、ノリスはもう動いている。
和やかに微笑みながらも何を考えているか分からない彼の頭の中は、主であるレヴィでさえも理解不能だ。
常に冷静沈着で慌てるところを見たことがない――それが彼なのだ。
レヴィは小さく吐息するとノリスの横を通り過ぎる。
「――しくじるなよ」
ぼそりと低い声で呟いたレヴィに、すっと目を細めて微笑んだノリスは「御意」と柔らかく答えた。
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