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部屋一面うっすらと黄色味のかかった白色で統一された薬剤部の作業室で、那音はインターホンで不意に名を呼ばれハッと我に返った。 いつから止まっていたか分からない手を慌てて動かしながら振り返った。 「奥山くん、検査室主任から内線入ってます」 「あ、はいっ」 急いで机の上を片付けて作業室を出ると、薬剤部事務係の女性スタッフが受話器を差し出す。 それを受け取って小さく咳払いをした。 「お待たせしました。奥山です」 『検査室主任の大石(おおいし)です。あの……先日受け取った中沢教授からの検査結果なんだけど、君のデータが見当たらないんだよね。疑うわけじゃないけど、君、知らない?』 トクン……。心臓が大きく跳ねる。 微かに震える手に力を込め受話器を握り直すと「いいえ」と短く答えた。 『中沢教授からは異常はないって口頭で聞いているんだけど、なにしろ今はデータがすべてなんだよ。これから時間ある?もう一度君の採血をお願いしたいんだ』 那音は杏美に言われたことを思い出す。輸血も献血もダメ。そうなれば採血もダメに決まっている。 しかし、ここは勤務先である病院だ。下手に断われば何を疑われるか分からない。 それに信頼のおける医師たちが常駐するこの病院で、個人情報と共に他人の血液を悪用するような者はいないだろう。 『再検査だから数ccあれば事足りるよ。それほど時間は取らせない』 受話器の向こうで尚も続く大石の声に那音は唇を噛んだ。 あれから一週間が経とうとしているが杏美は何も教えてはくれない。 それどころか、個人的に電話をして問いただしても「今は言えない」の一点張りだ。 自分の血液が一体なんだというのだろう。 病気の疑いもなくドラッカーでもなければ、特別な事など何もないはずだ。 「――分かりました。これから伺います」 躊躇いながらも、出来るだけ明るい口調で答えた那音は受話器を置くと、女性スタッフに席を外す旨を伝え薬剤部を出た。 広大な敷地内に建てられた病院内はまるで迷路だ。 外来診療棟、入院患者のいる病棟、その他に検査室や特殊な機器が置かれた研究室、国立大学との連携した研修施設などがある。 特に特別検査室のある場所は一般患者の立ち入りが禁止されている場所で、院内でもかなり奥まったところにある。 ネックホルダーの中のICカードがあれば、病院スタッフであれば大概の場所は出入り出来るが、特別検査室に至っては、入口の扉の脇に備えられたセキュリティシステムによって保護され、内部のスタッフからの承認がなければ入室は許可されない。 そのカードを手に握りしめた時、長い廊下の反対側から歩いてくる一人の青年に気がついた。 金色の少し長めの髪を後ろに撫でつけ、銀縁の眼鏡をかけた姿は院内では見かけたことのない顔だった。 端正ではあるが派手な造りの顔は一歩間違えばホストと変わらない。しかし、白衣を身に纏い病院スタッフしか持ちえないICカードを首から下げているところを見ると、医師、又は研究生という可能性もある。 薬剤部に出入りする医師や看護師の顔は覚えている。しかし、大きな病院内では未だに出会った事のない医師や関係者がいてもおかしくない。 (それにしても派手だな……) 何度か盗み見て、違和感を感じながらも目礼して通り過ぎようとした時、彼がいきなり声をかけてきた。 「薬剤部の奥山くん――だよね?」 「ひっ!」 突然自分の名を呼ばれ、喉の奥から悲鳴のような声が漏れた。慌てて両手で口元を押さえたが、何より彼が纏う香りに息を呑んだ。 病院内では原則としてスタッフは香水の使用を禁止されている。それなのに彼がわずかに身じろいだ瞬間に甘いムスクの香りが鼻孔をくすぐった。 決して嫌な香りではないが、消毒の匂いに慣れてしまった那音にはその微かな香りでさえ衝撃的だった。 場違いと言ってしまえばそれまでなのだが……。 「え……。ええ」  ドキドキと早鐘を打つ心臓を何とか落ち着けようと、彼に気付かれないように深呼吸を繰り返す。 一八〇センチはあるだろうか。長身の体を少し屈めるようにして、彼は興味深げに那音を覗き込むと「ふーん」と鼻をならした。 「噂にたがわぬ美人さんだ。どこに行くの?」 「――特別検査室、です」 綺麗に整えられた眉をよせ、一瞬険しい顔をして見せた彼はすぐにそれまでの垢ぬけた表情に戻ると口角を上げて意味深に微笑んだ。 「狼よりも怖い奴らには気をつけて」 「え?」 それだけ言うと彼は長い足を優雅に運びながら歩いていってしまった。 (変な人……)  振り返って彼の背中を見つめる。白衣の上からでも分かるがっしりとした体躯は、この検査棟の中では少し浮いているようにも感じる。  基本的に、太陽の光があまり当たらない部屋の中で、一日中籠って研究に没頭している変人ばかりが集まった場所だ。  まあ、中には彼のように健康を考えてジムか何かに通って鍛えてる者もいるかもしれないが、那音は今までそんな人間に会ったことがなかった。 那音は訝し気に首を傾げながら奥の特別検査室へと足を進めた。 ――体が重い。まるで鉛を背負っているかのように足が動かない。 先程から感じる頭痛と眩暈、激しい息切れと体の倦怠感。 帰宅ラッシュでごった返す駅のホームで電車を待っていた那音は、先程から大きく揺れる視界に吐き気を覚えながらも、なんとか足を踏ん張っていた。 少しでも気を抜いたら倒れてしまいそうだ。こんなラッシュ時に迷惑をかけるわけにはいかない。 特別検査室での採血が終わった直後は何でもなかった体に急激な異変が起きたのは、帰宅しようと病院を出た時からだった。 いっそのことタクシーを使おうかとも考えたが、そうこうしているうちにふらつく足取りのまま最寄りの駅まで辿りついてしまった。 しかし、ここに来て体の不調はさらに悪化し、そろそろ限界が近い。 普段から健康には十分気を配っている那音だったが、これほど急激な体調の変化は今までに経験したことがなかった。 薄い肩で荒い息を繰り返し、吐き気をやり過ごすために口元に手を当てていると、隣で電車を待っていたサラリーマンが心配そうに覗き込んでくる。 「大丈夫ですか?駅員呼びましょうか?」 「だ…大丈夫です」 そうは言ってはみるものの、治まることのない頭痛と眩暈は酷くなる一方だ。 『――三番ホームに列車が到着します』  時代が進歩しているとはいえ、このラッシュの光景は何年経っても変わることはなかった。 ざわめく人々の声、慌てて走り込むいくつもの靴音、その雑踏が酷く不快なものに思えて仕方がない。 アナウンスの声さえも、今の那音には雑音にしか聞こえなかった。 眩しいライトを照らしながら入線してきた列車の警笛と巻きあがる生温かい風。 鉄のような錆びた匂いが鼻の奥を刺激する。 それと同時に、踏ん張っていた膝が崩れ、頭の中が真っ白になっていく。 ホームの最前列で立っていた那音の身体は大きく傾き、入ってくる列車に向かってふわりと倒れ込んだ。 「危ない!」 「キャーッ!」 怒号のような声と女性の甲高い叫び声が人ごみの中で響くが、電車の轟音にかき消されていく。 那音の耳にはもう周囲の声は聞こえてはいなかった。目を閉じたままホームから足が離れた時、すぐ近くに迫るばゆいライトに照らされていた。 激しく鳴り響く警笛と軋むようなブレーキの音。 那音の意識はもう完全に途切れてしまっていた。

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