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どこか甘さを含んだ柔らかいバラの香りがする。その香りは心地よく、肺の奥まで吸い込むと自然と気持ちが落ち着いていく。 素肌に触れているさらりとした感触は上質のリネンだろうか。 ゆったりとした呼吸を繰り返しながら、那音はゆっくりと目を開けた。 ぼやけた視界が徐々に鮮明になっていくと、見なれない光景に戸惑う。 頭上には一目でアンティークと分かる豪奢な天蓋が見える。 ゆっくりと視線を動かして広い範囲を見渡すと、そこが自分が寝ていたベッドだと分かる。 キングサイズと思われる広いベッドには程よい硬さのマットと、上質なリネンが敷かれ、羽枕も沈む感じが心地いい。 壁に沿って作りつけられたクローゼットん扉には、自分が着ていたはずのジャケットがハンガーに掛けられている。 無造作に置かれた年代物の家具や、壁に掛けられた絵画、そしてゴブラン織りのカーテン。 青白い無機質な壁と、事務的な蛍光灯しか見ることのない病院の一室とはまったく違う。 まるで中世ヨーロッパにでもタイムスリップしてしまったかのようだ。 ベッドのすぐ脇に置かれたステンレス製のスタンドに掛けられているのは輸血用の血液パックだった。 自分の腕に向かって細い管の中を赤い液体が運ばれている。この状況を見て、医療関係者である那音が何をされているか分からないはずがなかった。 「――輸血?ここは……一体どこ?」  乾いた唇を微かに動かして、掠れた声でぼそりと呟いた時、カチャリと金属的な音のあとに軋んだ音を立ててドアが開いた。 仰向けのまま視線だけをそちらに向けると、そこには黒いスーツを着た、自分よりも歳上だと分かる青年が立っていた。 病院らしからぬ彼の姿に、小さく息を呑む、 「お目覚めになられましたか。ご気分はいかがですか?」 自分に問いかける柔らかい口調は、その青年の表情そのもので、誰が見ても凶悪な人物には見えない。 やや青みかかった黒髪を後ろに流し、優しそうなアーバンの瞳は那音をじっと見つめている。 自分が女顔であることにコンプレックスを抱いていた那音だったが、生まれて初めて男でありながら女性的な雰囲気を持っている男性がいることを知ったのだ。 「あの……。ここ、は?」 「ご心配には及びませんよ。ここはあなたにとって最も安全な場所です」 「俺にとって――安全な、場所?」 「ええ。駅のホームで酷い貧血を起こされてお倒れになったんですよ。偶然そこに居合わせた我が邸の者があなたをここに運んで下さったんです」 「貧血……」 ぼんやりとする頭の中で記憶を辿ってみるが、霞が掛かっているようでハッキリとは思い出せない。 ただ、酷く体が怠かったことは覚えている。 自分の置かれた状況をやっと理解し、少し落ち着いたところでようやく、まだ感謝の意を伝えていないことに気がつき、彼に目礼した。 「ご迷惑をおかけしてしまって。――すみません」  何より他人に迷惑をかけることを一番嫌う那音は、素直に陳謝した。 その声に安心した表情を浮かべた彼が、ベッドの横のナイトテーブルに置かれた水差しを新しい物に交換していると、広い部屋にひんやりとした空気が流れた。 窓でも開いているのだろうか。しかし、カーテンが揺れている様子はない。 それには彼も気づいたらしく、ふっと顔を上げ、わずかに口元を綻ばせた。 「――後ほどこの屋敷の主がご挨拶に参ります」 温まってしまった水差しを手に恭しく一礼すると静かに部屋を出ていった。 こういうことに慣れているかのように、彼の動きには全く無駄がない。 “主”と言っているところを見ると、さしずめ彼は執事か使用人の類なのだろう。 しかし、不思議な雰囲気を持った人だと那音は思った。初対面であり、自分の身元も明かしていないはずなのに、何もかもを知っているかのような感じで接する彼になぜか安心感を覚えていたからだ。 『あなたにとって最も安全な場所です』  彼が言った言葉を反芻して、ホッとため息をついた。  輸血用のパックを見上げ、自分が貧血で倒れたための処置だったと納得する。  腕も痺れることなく、的確に血管を探し当てているところから、医療従事者なのかとも思うが、医者らしき者の姿は見当たらない。  邸の主が挨拶に来たところで、先程の青年とは真逆の陰険な頑固ジジイでも出てきたらどうしようかと考えながら、今度は不安に満ちたため息を不本意ながら零してしまった。

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