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今朝から何一つ片付かない自分のデスクの状態に、那音は半ば呆れ顔で大きなため息をついた。 その原因は数日前の朝の出来事だった。 愛用している目覚まし時計のけたたましい音で目を覚ました那音は、自分のマンションのベッドで眠っていることに驚いた。 病院で採血をした後で酷い貧血を起こして――。 「夢……だったのか?」 やたらとリアルな夢だった。その証拠に汗ばんだ肌にTシャツが張り付き、眠っている間に体を強張らしていたせいか節々が痛い。 体を起こしたまましばらくぼんやりと動けずにいた。 着ていたスーツもきちんとハンガーにかけられている。間違いなく自分はこの部屋に戻ってきて寝ていたようだ。 長い夢――。しかし内容は曖昧で、思い出そうとしても断片的にしか浮かんでこない。そもそも夢というものはそういうものなのだけれど、一つだけはっきりと覚えている事があった。レヴィ・アルフォードと名乗った青年。甘いバラの香りを纏う不思議な息を呑むほどの美丈夫だった。 でも、彼とどんな会話をしたのかは思い出せない。それに“綺麗だった”という記憶はあるものの、どんな顔だったのかと言われればハッキリと説明が出来ない。ただ、随分と心地よかったことだけは覚えている。 寝ぐせのついた髪をぐしゃりとかきあげた時、ふと左耳に冷たい感触を覚え、そっと耳朶に触れてみた。 どうやらピアスらしきものが付いているらしい。 那音は慌ててベッドを下りると洗面所へ駆け込み鏡を覗き込んだ。 長めの髪を耳に掛けてみると、そこには赤い石が埋め込まれた銀色のピアスがあった。 そもそも那音にはピアスをした経験はない。体を傷付けてまでするオシャレというものに興味がなかったのだ。 それに医療の現場で働いている以上は不必要なものであり、してみたいと思った事は一度もなかった。 両手の指先でピアスを摘み、留め金を外そうとするのだがまったく外れない。 それでも……と諦めきれず、十五分以上も格闘していたが結局外すことは出来なかった。 洗面台に両手をついて大きなため息をつく。こんなものをつけた記憶はないが、ここにある以上夢ではないことは確かなようだ。 長めの髪で耳を隠すようにして、何度か角度を変えて鏡を覗き込んで見えない事を確認すると、那音は重怠い体で着替えを済ませて出勤したのだった。 ここ数日というもの、夢の事といい、そのピアスの事といい、気にかかることが多すぎて、仕事はまったく捗らない。 もう何度目か分からないため息をついた時、事務スタッフの女性が持ってきた書類に動きを止めた。 「あ、あのっ!これは……?」 戻りかけるスタッフを大声で呼びとめた那音に驚いた彼女は足を止めて振り返った。 滅多に大声を出す場所でも性格でもない。那音は自分が発した声量に反省しながら、クリアファイルに入った書類を手にした。 「ミラード製薬さんからの取引依頼です。やっと承認がおりて来たので……」 「そう、ですか……」 「あと――午後の便で更生施設への配達の依頼がありましたので、奥山さんお願いします。依頼伝票持ってきますね」 笑顔で去っていく彼女の背中を見送って、那音はなぜが浮かない表情だ。 ミラード製薬は今や世界的にも有名な製薬会社だ。 イギリスに拠点を構える会社だが、日本の医療関係への進出は目覚ましく取引先も多い。しかし、一部ではあまりいい噂を聞かない。 あの杏美でさえも、その社名を出しただけで露骨に嫌な顔をする。 どうやら、今巷を騒がせているドラッグと関係があるのでは……とまことしやかに囁かれている。 そんな低俗なドラッグなどをバラ撒かずとも、利益は十分すぎるほど出ているはずなのに……。 (杏美さんに聞いてみよう)  ミラード製薬の薬品を更生施設に納入するか否かについては、所長である杏美の承認が必要だ。  東都総合病院との取引が成立しても、そこで弾かれればドラッグ患者関係の薬品の納入は難しくなる。 ぼんやりと座っていた那音のもとに依頼伝票が届けられ、壁に掛けられた時計を見上げて時間を確認すると、いそいそと作業室へ向かい、指定された薬品を箱に詰め込んだ。 午後になり、もう一度内容と数量を確認すると足早に病院を出た。 更生施設へはタクシーで向かうが、大概の運転手は正門入口の前で停車することを嫌がるため、高い塀に沿った道沿いで下ろしてもらう。 重量のある銀色のジュラルミンケースを持った那音は、息を切らしながら殺風景なドアの前でインターホンを鳴らす。 いつもなら受付のくぐもった声が聞こえてくるのだが、今日はなかなか返事がない。 ついにスピーカーが壊れたかと、何度かボタンを押していると、スピーカーからガタンッという硬質な音が聞こえた。 白衣のポケットから取り出したセキュリティーカードをカードリーダーに通して重いドアを開けると、那音は息を呑んだまま動けなくなった。 寒々とした気持ちを和ませてくれるはずの明るいベージュの壁紙が赤く染まっている。 床には血溜まりのようなものが点々と奥へと続いており、事務局の入口にある観葉植物の鉢植えが倒れている。 「杏美……さん?」 那音は持っていた銀色の箱を廊下の隅に置くと、勢いよく事務局のドアを開けた。 落ち着いたカラーで統一された和めるはずの空間は、いまや惨劇の場に変わっていた。 書類が散乱し、キャビネットは倒れ、回転椅子は大量の返り血で汚れていた。 事務局で経理を担当していた女性スタッフが床に倒れている。 その首筋には、まるで獣の爪で深く抉られたような傷があり、大量の血液が流れ出している。 ピクリとも動かないその姿は、一目で絶命しているのが分かった。 「杏美さん……。杏美さんっ!!」 震える声で叫びながら、奥の応接へと足を進めた那音はソファの足元でうつ伏せに倒れている杏美を見つけ、なりふり構わず抱き上げた。 「杏美さんっ!しっかりしてっ!――これはどういう事?!」 綺麗にカールされた長い髪が血で固まっている。 声をかけると、メイクとは全く違う、青白い顔の杏美が微かに瞼を動かした。 「杏美さんっ!」 「――げて。はや……く、に……げ、なさ…いっ」 血で汚れた顔に耳を近づけて、途切れ途切れの声を必死に聞こうとするが、杏美の呼吸は弱く、事務員と同じように首を鋭利なもので切られたような傷からは血が溢れ出している。 この状態が続けば失血死してしまうのは間違いなかった。  掌が血で汚れるのも構うことなく、出血が止まらない傷口を押さえながら叫んだ。 「救急車……呼ぶから!しっかりして!」 スマートフォンを白衣のポケットから取り出そうと、杏美から手を放そうとする那音の腕を掴んだ彼女は微かに首を振った。 「私は……いいから…。早く、逃げ……て。ここに……いたら…あ、なた…が……」 「そんなの放っておけるわけないだろっ!なに言ってんだよ!」 杏美の血で汚れた手を白衣に擦りつけて、ポケットからスマートフォンを取り出して画面をタップしていると、バンッという凄い音と共に事務局のドアが開くと、黒いスーツに身を包んだ男が二人飛び込んできた。 一人は五〇代くらいだががっしりした体形で眼光が鋭い。もう一人は三〇代くらいの長身の細い男だ。 恐怖と緊張で体を強張らせた那音は、息を呑んだまま動けずにいた。 「――くそっ!遅かったか」 大きく舌打ちをしながら周囲を見回す二人を那音は物凄い形相で睨みつけた。 (怖い……) でも、杏美を助けられるのは自分しかいないのだ。 「あなたたちは誰なんですかっ!」 出来る限りの大声で怒鳴った時、ソファの陰にいた那音の存在に初めて気付いたかのように、年配の男がすっと目を細めて上着の内側に素早く手を差し入れた。 その手には間違いなく拳銃が握られていた。 しかし、血まみれの杏美を抱いたまま膝をつく那音を確認すると、その銃を上着の奥へと戻した。 しげしげと那音を見つめて、呻くように声を出した。 「あんたは……?」 「俺は東都総合病院の薬剤師、奥山です。それよりっ!杏美さんを早くなんとかして下さい!まだ生きてるんですっ!救急車呼んで!」 その声に弾かれるように若い男がスマートフォンを耳に押し当てて何やら叫んでいる。 年配の男はやっと状況が掴めたのか、眉間に深い皺を刻んだまま那音の隣に膝をついた。 「――こんだけ出血してるんだ。それに傷も深い。彼女はもう助からねぇよ」 落胆のため息交じりに呟く彼に那音は声を荒らげた。 「そんなことやってみなきゃ分かんないでしょ!早く救急車を呼んでっ!警察も!」 「俺たちにはそれは出来ないんだよ」 「どうして!」 「この施設内で起こった事案に関しては一切外部ヘは漏らすことは出来ない。ここは国が管理する特別施設だ。俺ら公安が踏み込むことが出来たのもあの人の口利きがあったからだ。まぁ、あんたは巻き込まれたとはいえ、ここであったことは忘れてもらわなきゃなんねぇんだよ」 「なに……言ってるの?あの人って誰……?」 呆然とする那音の腕の中でぐったりしたままの杏美の呼吸が弱くなっていく。 どうして記憶を消されなければならない? 自分はここに薬を届けるという仕事をし、杏美とも知らない仲ではない。 それなのに、今ここで見たことを忘れなきゃならないなんて……。 那音は腕の中の杏美と、隣で目を反らしたままの男を見つめるしか出来なった。 「――杏美さんっ!」 力なく那音の腕を掴む杏美の体が大きく傾いた。 その時、派手な靴音を立てて事務局に入ってきた青年に那音は目を疑った。 羽織っただけの白衣を翻して、崩れ落ちる寸前の杏美の身体を抱き上げたのは、いつか病院の廊下で会った金髪の医師だった。 あの時と同じムスクの香りがふわりと広がる。 彼は那音と目を合わせる事もなく、軽々と杏美を抱き上げたまま事務局を出ていく。 那音は床に広がった血に足を滑らせながらもその背中を追いかけて声をあげた。 「杏美さんを…っ。どうするつもりですか?!」 青年はゆっくり振り返ると、銀縁メガネのレンズの奥の黒い瞳をすっと細めた。 「――安心しろ。まだ間に合う」 以前聞いた時よりも低く落ち着いた声の響きは、なぜか安心感を覚える。 彼が医師であるならば、その言葉を今は信じるしかない。 「ホント……です、か?」 彼は口角を片方だけ上げると、事務局からのそりと出て来た年配の男に声をかけた。 「芦田(あしだ)さーん、あとの始末お願いします!なんかあったら連絡くださーい!」  たった今、那音に安心感を与えた声とは全く違う垢抜けた声が玄関に響き渡る。 「――ったく、面倒なことは全部押し付けやがって」 また舌打ちを繰り返しながらも、片手をあげて”了解“の意を表したのを確認すると、青年は足早に出て行った。 緊張の糸が切れるとはこういう事なのだろう。 那音は操り人形の糸が切れたかのように、その場に力なく座り込んで俯いた。 「――さて、どう報告書をあげようか。おい!山崎っ!地下の研究室の様子はどうだ?」 廊下の奥にある階段室から息を切らして姿を現した男――山崎に問うと、彼は首を左右に振ってお手上げのポーズをとった。 「全滅ですね。それにいくつかのデータもなくなっているようです。さすがにドラッガーが収監されている建物の内部へは侵入出来なかったようで、彼らは無事です」 「そうか。とりあえず……処理班を呼ぶか。もう一体ホトケさんもいることだし、このまま放っておくわけにもいかないしな。――おい、兄ちゃんっ」 那音は自分が呼ばれていることに気付くまでに幾らかの時間を要した。 ゆっくりとした動作で振り返ると、芦田と呼ばれた男がすぐ脇に立っていた。 胸ポケットからレザーケースに入った身分証を出すと、すぐにしまい込んだ。 「国家公安委員会特殊案件班の芦田だ。こっちは山崎。それにしても、えらい目に遭ったなぁ……。ミラード製薬の動向を探っててこんな現場にぶち当たるとは」 「ミラード製薬って……あの?」 「薬剤師ならちょっとは耳にしたことがあるだろうよ。仄暗い噂を……。人間を疑似バンパイアにさせるドラッグをばら撒いてるのはあいつらだって。それに、最近世間を騒がせてた連続殺人事件の犯人が惨殺死体で発見されたんだが、それにもミラード製薬が絡んでるって話だ。ったく、ホントに面倒な事件ばっかりよこしやがって……。おい山崎、手配済んだか?」 「間もなく処理班が到着します。鑑識入れます?」 「必要ねぇだろ。何事も隠密に事を片付けなきゃいけないんだから。っと、そうだ兄ちゃんも……」 芦田が那音を何気なく覗き込んだ時、乱れた髪の合間から覗いたピアスを見てハッと息を呑んだ。 「――兄ちゃん、そのピアスは……。まさか、あの人の……っ」 「え……?」  不思議そうに顔を向けると、芦田は慌てたふうにその場を取り繕った。 「あ、いや……っ。どうやら記憶を消す必要はないようだ。しかし、そんな格好じゃ帰れないよな?山崎に送らせるよ」 「あ、あのっ!芦田さん!このピアスをご存じなんですか?」 真剣な眼差しで見上げる那音に面食らいながら、芦田はこめかみのあたりを人差し指でかきながら「困ったなぁ」と呟いた。 「教えてください。俺……記憶がないんです!朝起きたらこのピアスがあって……。それにどうやっても外れない」 芦田はその場にしゃがみこむと、那音と目線を合わせてから大きなため息をついた。 「――あんたはあの人に選ばれた。それだけだ……。これ以上余計な事を言うと俺の身が危なくなるから、勘弁してくれよ」 「それって、どういうこと……?」  杏美にも以前同じことを言われた気がする。  しがない薬剤師である自分が、一体誰に選ばれたというのだろう。  那音は唇を噛んだまま芦田を見上げていたが、彼も居たたまれなくなったのか、事務局内でいろいろと調べていた山崎を呼んだ。 「おいっ、山崎!彼を送ってくれ。くれぐれも余計なことは喋るなよ」 部屋から出て来た山崎は長身の体を折り曲げるようにして、座り込んだままの那音に手を差し伸べた。 その手を掴んでなんとか立ち上がってみるが、膝が震えてうまくバランスがとれない。 受付カウンターに手をかけて体を支えると、あたりに漂う血の匂いに眉を顰めた。 着ている白衣もスラックスも血で汚れている。 ひとしきり自分の今の状態を確認していると、ふと手の甲の一部分についた血が黒く変色していることに気付いた。 先程の混乱のさなか、テーブルにでもぶつけたのだろう。五センチほどの切り傷が出来ている。 傷を見て改めてピリピリとした痛みを感じる。意外と深いようで、血が滲んでいた。 「どうしよう……」 手持ちのハンカチで押さえようとスラックスのポケットに手を入れていた時、その血が見る見るうちにどす黒く色を変えていった。 ヘドロのような黒い物体と化した血液を那音は信じられない思いで凝視した。 「何だよ……これ…」 自分のモノではない――と思いたい。しかし、目の前で起こっている変化は“夢である”という言い訳も出来ない。 出血した部分が黒い塊に覆われていく様子に目が離せなくなる。 早鐘を打つ心臓が痛くなり始めた時、後ろから声を掛けられてビクリと肩を揺らした。 「奥山さん――でしたっけ?行きましょうか?」 山崎が促すように出口の方へ手を指し示す。那音は慌てて手の甲を隠すようにして白衣のポケットに入れると、おぼつかない足取りのまま施設をあとにした。

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