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那音は帰りの車中で山崎を散々困らせた挙句、やっとのことで“あの人”の名前を聞き出すことに成功した。
その名前は夢から覚めた時に覚えていたものと同じだった。
――レヴィ・アルフォード。
これは偶然なんだろうか。夢の中で出会った人物――実際には会った事もない人物が更生施設襲撃事件に絡んでいるなんて、狐につままれたような気分だ。
自宅に戻った那音は病院に連絡を入れ、体調不良という理由で休暇をもらった。
大量の血液で汚れたつスーツを脱ぎシャワーを浴びる。
さっきから気になっていた黒く変色した自分の血もお湯で洗い流されていく。しかし、傷があった場所には痕さえも残ってはいなかった。そういえば痛みもない。
「嘘……だろ?」
確かに五センチほどの深い傷があったはずなのに、今はその痕跡さえも残っていない。
裂傷が完治したとすれば驚異的な治癒力が働いたとしか思えない。
(杏美さんが言っていたのはこの事なのかも……)
杏美の言葉を思い出し、また血に汚れた綺麗な顔が脳裏をかすめていく。
自分の周囲で起こっている不可解な事件は、レヴィ・アルフォードという人物と、ミラード製薬が絡んでいることは間違いなさそうだ。
それに、この左耳のピアスがレヴィのものだとしたら、なぜ自分につけたのだろう。
那音は不意に思い立ち、バスルームから出るとすぐにスマートフォンの画面をタップしてアドレスを呼び出すと耳に押し当てた。
「――奥山です。ちょっとお伺いしたことが」
五分ほどの短い通話を済ますと、那音は力なくリビングの床に座り込んだ。
「そんなぁ……」
電話の相手は病院の総務課だった。どうしても気になっていた事を問い合わせると驚きの回答が返ってきた。
院内でも、そしてついさっきも会ったあの金髪の医師は、東都総合病院には在籍していない。
研修生や臨時医師でもそのような人物はいないそうだ。
「じゃあ……あの人は一体…。杏美さんは……」
重傷を負った杏美を正体も分からない人物に託してしまったことを那音は悔いて、頭を抱え込んだ。
まだ濡れたままの髪から滴が落ちる。
でも、公安の芦田と気さくに会話をしていたところをみると、彼の顔見知りであることには間違いないし、悪い人ではなさそうだ。
もしかしたら芦田と同じ公安関係者なのかもしれない。しかし、そんな人がなぜ東都総合病院にいたのだろう。
那音の頭の中は混乱していた。
自分はどんなことに巻き込まれてしまったのだろうか。
何の変哲もなく、ごくごく平凡な生活を送っていたはずなのに……。
那音は床を這うように移動して、テーブルの上のノートパソコンを立ち上げると検索サイトを開いた。
そこで“レヴィ・アルフォード”を検索する。
すると予想以上の項目にヒットした。個人サイトの書き込みから、先日テレビで取り上げられていた有名なホストクラブのオーナー、はたまた裏サイトでは違法スレスレのことまでやっているようだ。
(一体、何者なんだ……)
マウスをスクロールしながら那音は次々に流れてくる文字を目で追った。
その中で、滅多に人前には姿を現さないという彼がたまに立ち寄る隠れ家的バーの情報が目にとまった。
個人のSNSに書き込まれたものだが、噂に聞いていた彼を見てかなり興奮した様子だ。
J・イースト首都の中でも知らないものはいない有名な歓楽街の外れにある趣のあるバーは、那音も名前だけは知っていた。
いつかは行こうと思っていたのだが、仕事に忙殺される毎日ではなかなか足が向かない。
マウスを握る手に滴が落ちた。シャワーを浴びて髪も乾かしていないことにやっと気付く。
バスタオルで髪を拭きながら立ち上がると、何かに憑りつかれたかのように寝室に向かい、クローゼットから新しい洋服を取り出して、いそいそと着替え始めた。
細身の黒いパンツにジャケットを羽織ったラフな格好で、髪も乾かしたままでセットはしない。
柔らかい栗色の髪は無造作でも見栄えはする。
パソコンの電源を切ると、スマートフォンをポケットに入れ、那音は部屋を飛び出した。
自分は“体調不良”で休暇をもらった身だ。街の中で誰かに出会う可能性は懸念されたが、普段外部の者と直接接触する機会が少ない薬剤部は、たとえ患者とすれ違ったとしても気付かれる心配はない。
それに、スーツを脱いだ那音は二十五歳にして明るい栗色の髪と瞳、そして繊細なラインを描く顔つきのせいで幾分若く見える。現役大学生と言っても疑う者はいないだろう。
電車を乗り継ぎ、だんだんと人が増え始めるメインターミナル駅に近づく。
駅の東側一帯に広がる歓楽街は週末でなくても多くの人々が行き来する。腕時計を見るとまだ午後六時を回ったところだ。
さっきのSNSの情報では、彼が店に現れたのは午後十一時近くだ。
会えない可能性の方がはるかに高い。でも、思い立ったらじっとしていられない性分の那音にとって、行動することに何かしらの意義があると信じている。
駅前のコーヒーショップに入り、時間を潰すことにする。周囲には学生や仕事を終えたばかりのサラリーマンの姿が増え始めていた。
静かだった店もいつしかざわついた雰囲気になる。
すっかり冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、那音は無意識に左耳のピアスに触れた。
ドクン……。
大きく心臓が高鳴った。同時に心臓を掴まれたような痛みを覚え胸元に手を押し当てた。
それは一瞬のことで、痛みは続くことはなかった。
レヴィ・アルフォード――。
その名を思うだけで胸が締め付けられるのはなぜだろう。
口の中に広がった苦みは、コーヒーだけのものではなかった。
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