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夜の歓楽街のメインストリートは酔っ払いや客引き、はたまた喧嘩をする者の声が飛び交っていた。 その声を背に狭い路地に入り裏通りに出ると、そこはまるで別世界だった。 喧騒を逃れた場所を好むバーやカフェが点在する落ち着いた通りは、薄暗い外灯に照らされていた。 こういった場所で好きな人と共にゆったりとした時間を過ごすことが出来たらどんなにいいだろう。 長年苦しめられているコンプレックスのせいで那音には彼女すら出来なかった。 自分がモテていたのは知っている。だが、それは那音の容姿だけに惹かれる薄っぺらな感情を持つ女性ばかりだった。 那音が断わると決まって言われる――「自分がどれだけ美人だと思ってんの?」と。 本人はまったく意識したことがなかっただけに初めて言われた時はショックで倒れそうになったくらいだ。 そのせいもあり女性は苦手だ。キスもセックスも数えるくらいしか経験はない。 理想と現実をまざまざと突きつけられるような路地を足早に進み、いくつか角を曲がった先の突き当たりにあるビルの一階に古い木製の扉を見つけ、ほっと息をついた。 外灯の明かりさえも届かない場所にひっそりと佇むバーの入口はその扉だけだ。 看板もなく、建てられてそう年数も経っていないビルのテナントとしてはどうなのだろうと思う古めかしい外観だ。いや、むしろこの雰囲気が気に入ってくる客も多いのだろう。 那音は木の扉をゆっくりと開けた。 間接照明に照らされた店内は一枚板の大きなバーカウンターと奥に五つほどのテーブル席があるだけの小ぢんまりとしたものだった。 「いらっしゃいませ」 カウンターの中でグラスを磨きながら視線だけをあげた初老の男性が凛とした声を発した。 「お一人ですか?こちらへ……」 カウンター席を指定され、無駄のない動きでおしぼりと水の入ったグラスを置いた。 高いスツールに腰掛けて那音は軽いカクテルをオーダーした。 壁に掛けられた古い時計の針は十時四〇分をさしているが客の姿は見当たらない。 「――どうぞ」 淡い紫色の液体が揺れるカクテルグラスを差し出され、那音はバーテンダーに話しかけた。 「これは何というカクテルですか?」 「オリジナルです。今夜のあなたをイメージして」 スタッフは他に見当たらない。どうやら彼がこの店のマスターも兼任しているようだ。 縁の薄いグラスに揺れる紫は細かく砕かれた氷にその色を反射させ、淡い光の中でも宝石のように輝いている。 ブランド物のスーツを着て、綺麗な女性と微笑み合いながらグラスを合わせるようなカクテルだ。 (俺のイメージって……) どう考えても細身のパンツにジャケットといった出で立ちの那音には似合わない。 (けっこうテキトーな店なのかも……) 今の時代、噂や口コミが先行することが多い。期待して出向いた店がとんでもなかったり、評価があまり良くない店が意外と美味しかったり。 SNSや情報の錯綜で正確な情報というものが掴めなくなってきているのは確かだ。 そう思いながらグラスを口元へ運ぶ。甘酢っぱさのあとに微かな苦みが口に広がる。初めての味だが飲みやすい。 「――美味しいです」 「ありがとうございます」 素直に微笑む彼の腕はまんざらでもないのかも……と思い直し、今日の目的である用件を切り出した。 「あの……伺ってもいいですか?」 「なんでしょう?」 「人を探しているんですが……。レヴィ・アルフォードという方をご存知ですか?」 その名を出した時、マスターの眉がピクリと動いた。 少し掠れた声で即答される。 「いいえ……存じ上げませんね」 平静を装いながらグラスを磨く手が微かに震えている。 どうやら何も知らないわけではないらしい。 「このお店に時々来るって聞いたんですが……」 マスターはゆっくりと首を左右に振った。 「たとえいらっしゃったとしてもお名前までは分かりません」 「そう……ですか」 那音は少し俯いてカクテルを飲んだ。そして再び無意識に左耳のピアスに触れた。 耳にかかった髪の隙間から見えたのだろう、それまで視線を逸らしていたマスターが那音をじっと見つめている。 「なにか?」 「あ……いえっ。――失礼ですがそのピアスはどちらで?」 「これ……ですか?俺にもよく分からなくて……。その彼に聞けば分かるのかもって思ったんです」 マスターは小さく吐息して、まるで独り言のように呟いた。 「――今夜はお見えにはなりませんよ」 「え?」 カクテルグラスを置きながら那音は視線を上げた。 今、何気なく答えを貰ったような気がしたからだ。 その時、木製の扉が軋みながら開かれた。 「こんばんはー!――っと先客だった?」 垢抜けた声が落ち着いたこの店には似合わない。さらに入ってきた人物を肩越しに見て那音は瞠目した。 少し長めの髪は綺麗な金色、左耳には青い石の入ったピアスをしている。 野性味のある端正な顔立ちと深海のような青い瞳からも日本人ではないとすぐに分かる。長身で少し光沢のある黒いスーツを着ており、筋肉質だと分かる体型はモデル並みだ。 長い指にはいくつものシルバーリングを嵌め、薄い唇の端に煙草を咥えている。 どう見てもホストだ。 「――お店の方はいいんですか?」 慣れた口調で問いかけるマスターに、彼は那音から少し離れたスツールに腰掛けて煙草を灰皿に押し付けた。 「息抜き、息抜き」 「またオーナーに叱られますよ」 彼がオーダーする前にカウンターの上にはバーボンのグラスが差し出されていた。 それを水を飲むかのように一気に飲み干すと、大きく息をつきながらグラスを置いた。 氷がカチリと音を立てる。 「ここでリセットしてまた店で頑張る!って感じ」 笑った顔は思ったより人懐こい感じがする。そんな彼が大きく伸びをした時、ふわっと甘いムスクの香りが広がった。 (この香り……) 那音は彼に気付かれないように視線だけを動かした。 髪は金色だ。しかし、あの彼の瞳は黒で……眼鏡もかけていた。 杏美を抱き上げて去っていったあの医師の後ろ姿が思い出される。 今ここにいる彼は白衣ではなく黒いスーツだが、がっしりとした体躯がどことなく似ている。 那音の視線に気がついたのか、二杯目のバーボンのグラスを持ちあげながらゆっくりとこちらに顔を向けた。 「――初めて見る顔だね。しかも美人ちゃん!一人?」 ”美人“という言葉に嫌悪感を感じ、ムッとした表情をする那音に、彼は構うことなく続けた。 「誰かと待ち合わせ?一人なら……俺と、どう?」 軽い口調でのストレートな誘いに面食らっていると、マスターが落ち付いた声で彼を制した。 「やめておきなさい……」 「珍しいね。マスターが口を出してくるなんて」 面白そうにカウンターに身を乗り出した彼は、マスターと那音を交互に見つめた。 この金髪のホストはマスターとも馴染みが深いようだ。それに職業柄この街の事についていろいろ知っていそうな気がする。 裏社会を取り仕切っているという噂のあるレヴィの事を聞くには、彼の方が手っ取り早そうだ。 「あの…っ」 那音が口を開くと、彼はにっこりと微笑んだ。 「な~に?」 「俺、人を探しているんです。――レヴィ・アルフォードという方なんですが……」 青年はすっと目を細めてグラスを仰ぐと、マスターに目配せした。 初老のマスターは肩をすくめてバックヤードに姿を消した。 「――ご存じなんです、か?」 恐る恐る問う那音に、彼は「まあね」と短く小声で答えた。 「――で、彼に何の用?」 「いろいろと聞きたいことがあって……」 「見た感じ、君って超フツ―の人だよね。この店に来たってことはネットのSNSかなんかで知ったんでしょ?それ見てたら知ってるはずだと思うけど、あの人はこの歓楽街を裏で仕切ってるフィクサーだから、滅多に人前には姿を現さない。あくまでも影の存在として君臨してる。そんな彼にそう簡単に会えると思う?」 「思いません。今日だってダメ元だし。でも……どうしても会いたいんですっ」 那音はスツールから立ち上がると、彼の傍らに立ち頭を下げた。 「無理は言いません。でも、もし……会えるのならっ」 「――ルーク」 「え?」 「ルーク・ダルトンだ」 深海のような青い瞳がゆっくりと那音を見据える。 突然名乗った彼に驚いて顔をあげた那音は、近くにある野性的で端正な顔立ちに息をのんだ。 これほどの容姿を持つホストならば、さぞ人気は高いだろう。明るい口調や人懐っこい笑顔、どれをとっても女性の心を惹きつける要素が満載だ。 「――奥山、な…那音です」 ルークはクスッと笑ってスツールからおりると、ポケットの中から取り出したマネークリップから一万円札を一枚抜き取るとカウンターの上に置いた。 「――知ってるよ」 俯き加減にボソリと呟いた声に那音は驚いて、弾かれるように顔を上向けた。 彼は優し気な笑みを浮かべると、誰もいないカウンターに向かって声をかけた。 「マスター、二人分ここに置いとくね!ごちそうさまっ」 バックヤードからは返事はなかった。 ルークは呆然と立ち尽くしている那音の耳元に顔を近づけると低い声で言った。 「逢わせてあげるよ……王様に」 優しく那音の手をとると、甲にキスをする。まるで貴族のような気障な振る舞いは自然で、まったく違和感がない。 彼に手をとられたまま店を出る。男に掴まれたままの手を振り払うことも忘れ、那音は彼の歩幅について行くことで必死だった。

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