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薄暗い路地を抜け、派手なネオンが瞬くメインストリートへ出る。
すると通り過ぎる派手なワンピースを着た女性が笑顔を見せて手を振っていく。
「ルーク、あとでお店に行くわね!」
「あら、可愛い子連れてるじゃない。新しい彼女?」
冷やかしとも称賛ともつかない、次々にかかる声を笑顔で適当に受け流しながら、人の流れを上手く交わして那音を誘導する。
「ルークさん、どこに行くんですか?」
「決まってるだろ。“彼”のところだよ」
長いメインストリートの終点とも言える交差点の角の立つ巨大なテナントビル。
黒を基調とした壁面に部分的にあしらわれた鏡面が周囲のネオンを映し、キラキラと眩しいほど輝いている。
派手な看板やネオンが主流のこの街にあって、シックで大人びた外観だ。
入口に掲げられた看板には那音でも耳にしたことのある有名なホストクラブとキャバクラの名前が入っている。
その横のドアは至ってシンプルな黒で、金色のハンドルが付いているだけだ。
しかし、その両側には見るからに屈強な男が二人、ドアを挟むようにして立っている。
きちんとした黒いスーツに身を包んではいるが、周囲を見回す視線は鋭く冷たい。
ルークはその前で足を止めると、その二人の男に微笑みかける。
「お疲れ様ですっ」
男は胸に手を当ててわずかに頭を下げる。
どうやら彼はこのビルにある店の関係者のようだ。
「――失礼ですがそちらの方は?」
夜の街には不釣り合いな格好、大学生にも見える容姿を訝しげに見おろす男たちに、ルークは口角の端を片方だけ上げてみせた。
そしておもむろに那音の左側の髪をかきあげて耳を見せた。
「姫 だよ……」
ルークのいきなりの行動に驚いた那音だったが、二人の男たちの反応にはさらに目を瞠った。。
息を呑んだ二人は恭しく那音に一礼すると、黒いドアをすんなりと開けてくれた。
「ありがと。――あ、彼のことは絶対に他言無用ね」
「承知しました」
背後でドアが閉まると外界の音は完全に遮断される。薄暗いスポットライトが照らす廊下は黒い大理石が敷き詰められており、鏡のように磨かれていた。
薄暗い廊下の突き当たりにあるエレベーターのボタンの横にあるカードリーダーに、ルークがポケットから取り出したカードを慣れた手つきで通すのをぼんやりと見つめる。
下りて来たエレベーターに乗り込むと、ドアが閉まったタイミングで那音はそれまで閉ざしていた口を開いた。
「姫 ってどういうことですか?」
「あぁ……、あれは俺たちの隠語。このビルのオーナーはレヴィ・アルフォード。完全会員制の最高級クラブが入ってる。俺の店、ホストクラブ“エルドラド”とキャバクラ“ビーナス”だ。滅多にここに来ることはないんだけど、今夜は運がいい。彼はここの最上階オーナー専用のVIPルームにいる」
「本当、ですか……っ」
「ただ、アポはとってない。それに食事の最中を邪魔されるのを非常に嫌う。彼が機嫌がイイことと、食事のタイミングでないことを祈った方がいいかもね」
真面目な顔で、でもあっけらかんと言い放つ彼に、那音はゴクリと喉を鳴らした。
緊張で口の中が渇き始める。
J・イースト一の歓楽街の一等地にそびえるビルは十三階建て。その最上階に到着した事を告げる小気味よいチャイムの音が那音の肩をビクリと跳ねさせた。
ドアが開くと、そこはまるでホテルロビーだった。
一面に敷かれた落ち着いたグレーの絨毯は毛足が長く、履いていた靴が半分ほど埋もれた。
正面には豪奢な彫刻が施された両開きの扉があり、そこにも強面の男が二人立っていた。
その男を無視するようにドアハンドルに手をかけたルークは太い腕で制止される。
「――失礼ですが、お約束は?」
ムッとして金色の髪をかきあげながら男を睨む。
「ないよっ」
「では、ここから先はお通しすることは出来ません」
頑として譲らない男に苛立ちを隠せないルークは、小さく舌打ちして青い瞳を細めた。
「俺が来たって言えばいい。――ったく、毎回これだ」
「たとえご親友のルーク様でもレヴィ様の許可がなければお通しすることは出来ません。それに……」
男はちらりとルークの後ろにいた那音に視線を向けると首を左右に振った。
それに気付いたルークは「あぁ……」と短く呟くと、背筋をのばしてフンッと鼻をならした。
「姫 が会いに来たと伝えてくれ」
男たちは互いに目配せをし、一人がドアの向こうに消える。
しばらくして姿を現すと、店の入り口でそうだったように、胸に手を当てて深く一礼した。
「お待たせいたしました。どうぞ……」
「最初からそうすりゃいいんだよ……」
毒を吐きながら足を進めたルークのあとを追うようにして歩き出す。恭しくドアを開けた先は短い廊下があり、その先にもう一つ豪奢なドアがあった。
ルークのあとに続いて進み、彼がもう一つのドアのハンドルに手をかけた時、ゆっくりと肩越しに振り返った。
「――戻れなくなるぞ」
今までの口調とはまるで違う低い声に驚きながらも、この扉の向こうにいるであろう“彼”の存在に心臓が高鳴った。
黙って頷いた那音に、ルークはグイッと力を込めてドアを開くと、正面に見えた長いソファセットの中央に両肘をかけて足を開いたまま座る青年と、それを取り囲むようにして体を寄せる派手なワンピース姿の美女たちの姿が目に飛び込んだ。
青年の着ている白いシャツはボタンがすべて外され、鍛えられた腹筋が見えている。
ベルトも外され、際どいラインまで開かれたスラックスの前立てからは黒い下着が見え隠れしている。
男でも欲情してしまいそうなほどの色気を垂れ流している彼をルーク冷たい目で見つめた。
「相変わらず派手な“食事”だな……」
その言葉にフッと笑った彼は表情のない冷たい灰色の瞳を細めて彼を睨んだ。
「お前こそ店を抜け出してどこで遊んでいたんだ?」
「遊んでたとは失礼だな。お前に会いたいという客人を連れてきたっていうのに……」
ルークは後ろを振り返ると、完全に固まっている那音の背中に手を添え、自分の前に押し出した。
目の前に現れた青年は、西洋絵画から抜け出したような綺麗な顔立ちに緩くウェーブのかかった黒髪がより妖艶さを演出している。
陶器のような白い肌には、女性たちの口紅の跡がところどころ残っている。
髪の隙間からわずかに見える左の耳には黒い石の入ったピアスをしている。輝きの具合からしてかなり高価な物だろう。
そのピアスのデザインが那音のものと酷似していることに気付いた。
「――客人?」
眩しそうに目を眇めて那音を見つめる彼の薄い唇が優雅に弧を描いた。
「何の用だ?」
甘い低音ボイスに那音は心臓を掴まれるような息苦しさを覚えると同時に、頭の中で霞がかかっていた記憶が徐々にハッキリしてくるのを感じた。
まるでダムが決壊したかのように、数日前の出来事が一気に流れ込んでくる。
貧血で倒れた自分は――。助けてくれた男は――バンパイア。そして、体の自由を奪い、辱めを受けた挙句、
この首筋に牙を突き立てた……。
あの時の感触が蘇ってきて体がブルリと震え、那音はぎゅっと拳を握りしめた。
初対面であるはずの彼に対して、なぜか押さえきれない怒りがこみあげてくる。
甘いバラの香りに混じる女性たちの香水――その香りに無性にイラつく。
那音は唇をきゅっと噛みしめると、迷うことなくレヴィの前に足を進めた。
そして――――。
パンッ!!
渇いた音が静まり返った部屋に響いた。その瞬間その場にいた誰もが息を呑んだ。
那音がレヴィの頬を思い切り叩いたのだ。
レヴィは右側に顔をそむけたまま動かない。乱れた黒髪が頬にかかっている。
那音は振りあげた手をぐっと握って下ろすと、まっすぐな瞳でレヴィを睨んだ。
掌には叩いた痛みと痺れ、そしてわずかな震えも混じっていた。
「あなたは、俺に……。俺の体に……何を、したんですかっ!」
そうだ――この男だ!
霞んでいた記憶がスッキリと晴れ渡り、その男の顔がハッキリと浮かんだ。
部屋には長い沈黙が続いたが、それを破るかのようにレヴィが肩を揺らして笑い始めた。
「――なかなか面白い客人だな。ここは二人きりで話がしたい。席をはずしてくれるか?――ルーク、お前もだ」
レヴィの周囲にいた女性たちは皆、慄きを隠せないというように視線を彷徨わせ、静かに彼の傍から離れていく。
裏社会の支配者と言われるレヴィに手をあげる者などいない。なぜなら彼の逆鱗に触れれば死は免れないからだ。
過去にも彼に背き、この街から姿を消した者が何人かいる。皆、それを知っていても誰も口にすることはなかった。明日は我が身――そう肝に銘じてこの街で生きているのだ。
部屋にいた全員が退出し、那音とレヴィだけになった。
レヴィはわずかに赤くなった左頬に手を当てて、立ちつくしたままの那音を見つめた。
「自ら記憶を戻すとは……な」
「記憶?なんのことですか?――驚きました。裏社会の支配者がバンパイアだなんて」
那音はレヴィとの初めての出会いをすべてを思い出していた。
貧血で倒れた那音を救い、介抱した邸の主は美しいバンパイアだった。
そして、動けない那音の首筋に牙を穿った。
太く硬く、そして冷たい感触が皮膚を破り奥へと沈んでいく。思い出すだけで背筋がゾクリと震えるほどの快感を覚えている。
しかし、その後に起こったのは那音の体の異変だった。
つけた覚えのないピアス。傷から流れた出た血が黒く変色し腐敗する。そして、その傷はわずかな時間で完治してしまう。
彼に出会うまではあり得なかった変化だ。
薬剤師として一応医学的なことは頭に入っているつもりだ。しかし、那音の変化はそのどれにも当てはまらない。
「まず――このピアスを外してもらえませんか?」
「それは無理な相談だな」
レヴィは楽しそうに唇を綻ばせると、自分の左耳のピアスを指でつまんだ。
「それは俺がしていたものだ。それがどういう事か分かるか?それをつけている以上、お前は俺の所有物ということになる。俺を知っている者であればそれが意味することが分かるはずだからな。主である俺が死なない限り、それは外れない」
公安の芦田、バーのマスター、そしてこのビルの入口に立つセキュリティ。そのすべてにこのピアスは目撃され、そのたびに意識させられた。
そういった意味を持つものだと分かった今、彼らの驚きの表情に納得がいく。
「そんな……。俺は承諾した覚えはない…」
「承諾など必要ない。俺が欲しいと思った、それだけだ」
傲岸不遜の表情で言い放つ彼に那音は苛立ちを隠せなかった。
「じゃあ、俺の体をおかしくさせたのもあなたの仕業ですか?」
「何のことだ?」
「俺の血……。怪我をして、傷から流れ出た血液が黒く変色し腐敗する。だけど傷は瞬く間に消えてしまう。こんなこと普通の人間じゃありえない。ドラッガーであっても元は生身の人間です。怪我をすれば傷も残るし出血もする。だけど傷が癒えるまでにはそれなりの時間がかかる。そうなると、俺はあなたにあのドラッグを盛られたわけではないようだ。だけど……本物のバンパイアであるあなたが人間の俺に何をしようとしているんですか?」
レヴィは目を細め顎に手をかけたまま真剣に那音の話に耳を傾けていた。
「――それはおそらく」
上目遣いで那音を見上げるレヴィの瞳が青みを増していく。
ふわりとバラの香りが広がり、那音の体を包み込んだ。
(あの時と同じだ……)
無意識ではあったが、緊張に体が強張る。
「自分の血を守るための防御反応だ。お前の血は特別だ。その血を欲しがる者はいくらでもいる。現にミラード製薬CEO、セロン・ミラードが狙っている。傷を負い、その体から流れ出ると同時に腐敗しその成分は使いものにならなくなる」
「セロン・ミラード……」
「お前の血は最も稀有なものだ。世界中どこを探しても見つけることは出来ないくらいにな。――その前に、国の管理下である東都総合病院に勤務しているお前なら、噂は聞いたことがあるだろう?このJ・イーストの財政破綻を救った三人の資産家の話を。最近ではネットである事ない事まことしやかに囁かれているようだが……」
「え、えぇ……」
国民には公表されていない、秘密裏に行われた財政破綻の隠蔽と資産家からの援助。
その条件は国家権限をその三名に譲り渡すこと。
つまり、総理大臣や内閣という組織は存在しても、その決定権は三人の資産家に委ねられているということになる。政治だけでなく防衛や法律、銀行から医療、人々の生活に至るまで彼らの決定権なしに動くことは許されない。
見えないところで完全に支配された世界――。
でも人々は誰も気づいてはいない。それはごく自然に、混乱を起こすことなく遂行された国家政策だからだ。
しかし、中には国政を訝しがる者もいて、ネットやSNSで日々“都市伝説”としてアップされては拡散している。
どれが本当で、どこまでが嘘なのか分からないのが現状だ。
那音もまた、そんなネットからの受け売りの知識しか持ち合わせていなかった。
正直なところ、レヴィがそういった話を振ってきたことに内心驚いていた。
「そいつらが人間でないことも――知っているか?」
「……!」
目を見開いた那音を面白そうに見つめ、レヴィは肘掛けに体を預けて笑った。
「その様子では“真実”を知らないようだな。じゃあ、教えてやろう……。この国の権限を握っているのは、狼一族であるルーク・ダルトン、バンパイア一族であるセロン・ミラード――そして、俺だ」
「まさか……っ」
「俺の所有物となったお前には話しておいた方がいいな。巷で出回っているドラッグをバラ撒いたのはミラード製薬だ。バンパイアであるセロンが自らの血で作った現行ドラッグの効果をさらに高めることが出来る方法がある。それはお前の血を使う事。そうなれば、ドラッグで疑似バンパイアと化した人間を完全なバンパイアに変えることが出来る。それは我らが始祖の血と相違はない。その血を悪用させないために自らの本能によってお前は体を変えたんだろう。だが……」
レヴィは言葉を切った。
白く長い指先をすっと那音の前に差し出す。
「お前の首筋に牙の痕をつけた俺にはその効力はない。なぜなら、お前の体はそれを防御することなく受け入れた。同じ始祖の血をひく俺を……な」
差し出した指先に導かれるように那音の体はふらりとレヴィに近づいていく。
部屋中に広がった甘いバラの香りに、いつしか怒りも消えていた。
怒りと興奮で早鐘を打っていた心臓も今は落ち着き、ゆったりとした呼吸が繰り返されていた。
「――あの日、お前の記憶を封じた。本来なら操作した俺が呼び戻さない限り記憶は戻らない。だけど、お前はここに来て自らの力で封じていた記憶を解いた。契約を交わした者の前では偽りは無力だ」
「契約……」
「そう。隷属であるお前を守ってやる契約だ。セロンにお前を譲る気は毛頭ないからな」
「でも――あなたが俺の血を悪用しないとも限らないですよね?」
その問いかけの答えは返っては来なかった。
那音は伸ばされたレヴィの手をそっと掴むと、指先に唇を寄せてキスをした。
これが彼のなせる業なのだろうか……。
人間である那音を支配し、従わせる魔力。
不本意ではあったが、彼の前では自分の意志を突き通すことが出来ない。
冷たい指先に触れただけで、首筋が甘く疼き始める。
「――杏美、さんは?更生施設は国の管理下じゃないんですか?どうして…あんな事が起きたんですか?」
レヴィは那音の頬をそっと撫でると、すっかり紫色に変わった妖艶な瞳で見返した。
艶と畏怖を湛えた冷たい宝石のような瞳は、那音のすべてを見透かしているようで、羞恥に身を震わせる。
「国に依頼して作らせたのは俺だ。杏美をそこの所長として常駐させたのも。彼女は心よく引き受けた。罪滅ぼしだと言ってな……」
「罪滅ぼし?」
「彼女は数年前、俺の血を使って新型のドラッグを作り、秘密裏に売りさばいた。遺伝子研究の第一人者としてあるまじき行為だ。だがそう世に広まることはなかった。なぜか……。それは始祖の血は人間にとっては劇薬だったからだ。セロンの薬のように疑似的な変化をする前に死ぬ。それで何人もの若者を死に至らしめた。彼女はその光景を見て快楽を得るマッドサイエンティストだった。人間である彼女は法によって裁かれた。だが我が一族の審判では安易には片付けられない事案だった。もちろんどちらとも死刑を求刑されたが、彼女は自分が死んだところで犯した罪からは永遠に逃れられないと泣いた。彼女のもとに俺の血が誤って流通したこともあり、俺にも責任はないとはいえない。だから俺は最期の救済として彼女に命を下した。世界的な遺伝子研究者としての地位を捨て、ドラッガーの更生施設の所長として収監されたドラッガーの監視、更生に努めろ……と」
那音は目を見開いたまま動けなくなった。数年前、所長となった杏美の過去は誰も知られていない。ただ、何らかのトラブルが原因で……としか聞かされていなかったからだ。
那音も更生施設と取引のある東都総合病院の薬剤師になって、杏美本人から最初に聞かされたことだった。
「――それで、杏美さんは…?無事…なんです、か?」
「命は取り留めているがまだ意識は戻らない。あの施設を襲撃させたのはセロンだ。杏美が隠していたお前の血液データを手に入れるためにな。それに杏美だけじゃなく研究員を皆殺しにした。あの施設で起こったことは公になることはない。公安が手を回してすべて処理している。芦田と山崎に接触しただろ?お前があの場にいたと聞いたのは、杏美が俺のもとに運ばれてきてからだ」
「俺のデータ……」
あの時、地下から上がってきた山崎が芦田に報告していたデータと言うのは那音のものだったようだ。
自分のせいで関係のない人たちを巻き込んでしまったという事実をつきつけられ、那音の頬に熱いものが流れ落ちた。
頬に添えられたままのレヴィの手を伝い落ちた涙は、柔らかい絨毯に落ちてしみ込んだ。
「俺……、どうすれば…いい?」
以前から仄暗い噂が立っていたミラード製薬だが、それほど冷酷で残虐性の強い会社だとは思いもしなかった。
狙われているのは那音自身の血だ。自分が何とかすればこれ以上の被害者が出ることはない。
しかし、ミラード製薬の言いなりになったとしても、今以上の被害者が出てしまう可能性もある。
そうなったら自分はどうなってしまうのだろうか。
杏美が過去に犯した過ちと変わらない。那音は死ぬまで、いや死んでもこの罪を悔むことになるだろう。
「レヴィ……。俺は……俺は…どうすれば、いい?」
肩を震わせてただただ涙を流す那音の頭をそっと抱き寄せる。
銀色の髪が那音の濡れた頬にかかった。
力強い腕は、あの日……自分を強く抱きしめたものだ。
言葉を発することも憚れ、ただ唇を震わせる事しか出来ない那音のそれを、冷たい唇がそっと塞いだ。
その冷たさに、彼が人間ではないことを実感する。ビクリと肩を震わせた那音だったが、何度も繰り返される啄む様なキスにいつしか身を委ねていた。
(心地いい……)
自分の血を、存在を否定したい荒(すさ)んだ思いが、柔らかい羽毛に包まれるようにして解けていく。
いつしかレヴィの首に腕を絡ませ、その身を彼に委ねていた。
心地よいキスと次第に熱くなり始める体に、那音は初めて噛まれた時のことを思い出していた。
――彼は自分にとってどんな存在なのだろう。
――女性に囲まれていた彼を見た時、どう思った?
那音が心地よいと感じているあのバラの香りが、何種類もの香水に侵されることに嫌悪感を感じる。
なにより彼に触れている彼女たちの指先でさえ疎ましい。
(欲しい……。レヴィが欲しい…)
那音にとって初めて抱く感情だった。
相手から求められることはあっても自分から何かを求めることはなかった。
両親を亡くしてから何かを欲する事も我慢してきた。
そんな想いが今、決壊し始める。
見た目で判断するのではない。魂が、血が呼び合う相手――それが彼なのだ。
しかし、レヴィにとって那音はただの”隷属“でしかない。所有物として印をつけられただけの存在。
彼にとって必要なものは那音の血――だけなのだ。
求めても手に入らない……。
それまで目元を濡らしていた那音の涙は違う感情に揺れ動いた。
ふとレヴィが唇を離した。まるでその感情が伝わってしまったかのようなタイミングに、那音は余計に切なくなった。
「――那音」
その声は今までない哀しい響きを含んでいた。
この傲岸不遜の男が見せた初めての弱さのように感じた。宝石のような紫色の瞳がわずかに曇る。
「レヴィ……?」
「――お前の心が読めない」
ふっと視線を逸らして、薄い唇を苛立たしげに噛んだ。
そして自分の体から那音を突き放すと小さく吐息した。
「これ以上この場所にお前を長居させるわけにはいかない。ノリスに送らせる……」
レヴィが抑揚のない低い声で言うと同時にドアがノックされる。
そこに現れたのは、那音を介抱してくれたあの青年だった。
「ノリス、彼を送ってくれ。あと……目を離すな」
「承知いたしました」
彼は一礼すると、那音の背に手を添えて優しくエスコートする。
「申し遅れました。私はアルフォード家の執事、ノリス・フェザーと申します」
先日見た時と同じ、やや青みかかった黒髪を後ろに流し、優しそうなアーバンの瞳は那音を安心させる。
レヴィに背を向けドアに向かった時、ふと那音が足を止めて肩越しに振り返った。
「――誰にも、迷惑はかけませんから」
自分でも驚くほど落ち付いた口調でそう告げた那音の中で、新たな決意が芽生え始めていた。
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