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那音は胸にわだかまったままの感情をどう理解していいのか分からずにいた。 その相手は男であり――バンパイアだ。 彼の身勝手で“所有物”にされたと思う一方で、彼に逢うたびに、触れるたびに、そしてキスを交わした時に湧きあがった感情は否定できない。 そばにいるだけで、あのバラの香りに包まれるだけで不思議と安心感を覚える。 荒んでいた心が優しく撫でられるような感触は今までに経験したことがなかった。 そして、両親を早くに亡くし、たった一人で自分を抑制して生きていくことで精一杯だったはずなのに、初めて“欲しい”と感じた。 物理的要求じゃない。間違いなく心理的欲求だ。 誰もいない病院の屋上で、手摺に乗せた腕に顔を埋めたまま動けずにいた。 ひんやりとした風が那音の髪を揺らしている。白衣の裾をはためかせる風は強弱をつけながら彼の横を通り過ぎていく。 あの事件のあと、一時的に閉鎖している更生施設への薬剤の納入はない。 那音は院内で黙々と与えられた仕事をこなしていくだけだ。 レヴィが言っていたように、もしもセロンの手が自分に及んだ時は自分で何とかするしかない。 もうこれ以上レヴィには関わりたくはなかった。その理由は、この感情を抑え込む自信がないからだ。 自分の血を悪用させることなく、他人にも被害を及ぼさないようにすること――その答えは一つしかない。 あの事件の日から白衣のポケットに忍ばせてある折り畳みナイフは、いざという時のためのものだ。 (俺が命を断てば誰も傷つかない……) ポケットの上からそっと、硬質な感触を手で押さえる。 那音がした決意――それは自分を殺めること。 また再びセロンに襲われるようなことがあれば、それは実行に移される。 彼なりに下した決断だった。 「――くん。奥山くん!こんなところにいたの?探したわよっ」 風にかき消されながらも微かに背後から聞こえる声に振り返ると、薬剤部の女性スタッフが息を切らして近づいてきた。 「あ……すみません!」 彼女に向き直って頭を下げると笑顔で「いいのよ」と短く答えた。 「休憩時間にごめんね。あなたにお客様がいらっしゃってるの」 「俺に……ですか?」 「ええ。とりあえず本館の応接室で待ってもらってるんだけど。確か――レヴィ・アルフォードさんって言ったかしら…」 彼女の口から出た名前に緊張が走る。 裏社会の支配者である彼は、滅多に人前に姿を現さない。そのレヴィがこの病院まで来るなんてまずあり得ない。 そもそも、自分に会いに来る理由などないはずだ。 「――どうしたの?」 眉間に皺を寄せ、難しい顔で立ち尽くしていた那音を彼女は心配そうに覗き込んだ。 「あ、いえ……。行きますっ。本館でしたよね?ありがとうございましたっ」 那音は彼女に対してもう一度頭を下げ、足早に屋上をあとにした。 エレベーターで一階に下り、迷路のように入り組んだ廊下を北に進んだ先に本館が見えてくる。 主に各科の外来診療室がある場所で、普段は診察に訪れた患者がごった返している場所だ。 しかし、夕方になるとほとんどの診療科は診察を終えているため人もまばらだ。 入口付近にある大きな受付カウンターの脇の廊下を進むと“関係者以外立入禁止”という立て看板が置かれ、その先は一般人は滅多に入ることは出来ない。 廊下の途中に設けられた両開きの扉を開いたところに、応接室が三部屋ほど用意されている。 用途は相談窓口として使ったり、事務局の個人的な打合せなどに使われることがほとんどだ。 個人情報の漏洩を防ぐために、各部屋は防音になっている。 “来客中”と書かれたプレートが掛かる木製の分厚いドアの前で足を止める。 レヴィの自社ビルの最上階で、最悪な再会と哀しい別れ方をしてしまった手前、どんな顔をすればいいのか分からないでいた。 その反面、彼がこんなところに来るはずがないと言う疑念にも駆られ、これがセロンの罠であるという可能性も否定できない。 (いざという時は……) 白衣のポケットに片手を入れて折り畳みのナイフをぎゅっと握りしめ、那音はドアをノックした。 くぐもった低い声で返事があり、ゆっくりと息を吐きながらドアを開けた。 応接セットの奥のソファに腰掛けていたのは見たことのない男だった。 こげ茶色の髪をオールバックにし、カーキ色の目は猛禽類のように鋭く冷たい。 がっしりとした体形で、そこにいるだけで威圧感を与える。 一瞬目を見開いた那音は後ろ手で一度閉めたドアを開けようとしたが、ドアは開くことはなかった。 ドアノブを何度か回してみるが動くことはなかった。 「――ほう、噂に違わぬ美人だ」 掠れた低い声は那音にとってノイズのように聞こえた。酷くザラついた耳障りな声だった。 「あなたは……誰、ですか?」 「セロン・ミラードだ。耳にしたことはあるだろう?」 那音はとっさに後ずさるとドアに背中を押し付けた。 (この男が――セロン・ミラード!) ミラード製薬のCEOであり、那音の血を狙っている張本人だ。 「――使えない部下を持つと苦労が絶えないよ。君一人手に入れるだけにどれだけの時間と無駄な金を使ったことか。こんなことならば最初から俺が動くべきだったと後悔している。――レヴィ・アルフォードの名に反応したところを見ると、彼と接触したようだな?」 ビクッと肩を震わせて首を左右に振る。 全身の毛穴から嫌な汗が出るのが分かった。 「知りません……。そ、そんな……ひ、と」 「隠そうとしても無駄だ。お前の血に絡んだ事件が起きた場所でアイツの執事の車を見かけた。大人しい顔をして余計な事をしてくれる。そもそも、あの男には関係のないはずだ」 彼はゆっくりとソファから立ち上がると那音に近づいた。 一九〇センチはあるのだろう。目の前に立たれると巨人に見おろされている気分だ。 顔を挟むようにドアに両手をつかれ、那音は身動きが出来なくなった。 「俺が欲しいのはお前の血だ。大人しくしていれば俺の伴侶として永遠に囲ってやる。一度でも伴侶の契約を結べばどちらかが死ぬまで解除は出来ない。お前はその血を永遠に俺に捧げ続ければいい」 「伴侶……?契約……?どういうこと…ですか?」 「俺はこのJ・イーストを財政危機から救ってやった救世主だ。文明だ科学だと騒いでいた人間も堕ちたものだな。この国の統治を魔物に委ねるんだからな……」 セロンのカーキ色の瞳が徐々に赤みを増していく。冷酷な笑みを見せる唇の両端から白い牙が覗いた。 「ひぃっ!」 那音はあまりの驚きに短く悲鳴を上げた。しかしその声は外部に聞こえることはなかった。 目の前で豹変していくセロンの姿に怯え、体中が震え始める。 「――そんなに怯えることはないだろう?レヴィだって同じバンパイアだ。見慣れているのかと思っていたが、違うのか?」 まるで獲物をいたぶるかのように楽しげに笑うセロンは、大きな手を広げるといきなり那音の首を掴んだ。 長く伸びた鋭い爪が肌に食い込んでいく。 その痛みはレヴィといた時には感じられないものだった。同じバンパイアである彼が自分にどれだけ気を遣っていたのかが分かる。 「いや……っ、放せ……っ、苦し…い」 「殺す気は毛頭ない。こんな貴重な血をそう易々と絶やすものか……。この血さえあれば人間を完全なバンパイアに変えることなど容易い。そうなれば我が隷属によってこの国――いや世界が俺にひれ伏す時が来る」 「そんな…こ……と、させ、る…もん…かっ!」 那音は手を伸ばし白衣のポケットを探り当てると、指先に触れたナイフを手繰り寄せた。 ポケットから取り出して刃を伸ばすと、首を押さえているセロンの手首に思い切り突き立てた。 「何をする気だ、小僧っ!」 血を流しながらもさらに力を込めて首を締めあげていくセロンの表情が、より恐怖に満ちたものへと変わっていく。 部屋中に蔓延した冷気が、那音の体を冷やしていく。 彼の血が自分の首筋に流れるのを、吐き気を覚えながら何度も目を逸らした。 人間である那音に対して、ちょっと力を入れただけで死に至らしめることが出来る魔物の力は想像を超えていた。 「うぁ……っ――ぁ、っぁ……」 完全に気管が塞がれて酸素が頭にいかない。本当に殺す気がないのであればこんな暴挙には出てこないはずだ。それなのに、セロンの手が緩むことはなかった。ぼんやりとする意識の中で那音は微かに唇を動かした。 「――レ……ヴィ…」 きつく目を閉じ、力の入らない膝がカクンと折れた瞬間、暗闇の中に堕ちていく自分を感じながら那音は意識を失った。

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