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眉をひそませたくなるほどの独特の消毒と薬品の匂いに、那音は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。 鈍い頭痛に顔をしかめ視線を動かすと、そこはまるで研究室のようだった。 無機質な白い壁。その空間の中に試験管やビーカー、電子顕微鏡、さらには高額な遠心分離機なども備えられている。 天井にはまるで手術室のようなライトがあり、青白く那音を照らしている。 どうやら自分は硬いベッドの上に寝かされているようだと気付く。 両手首と両足首には枷のようなものが嵌められ、ベッドにしっかりと固定されている。 わずかに動くたびにガシャリと音がするのは、おそらく鎖か何かだろう。 ただ気になってのは、その視界が透明なガラスのようなものを隔てて見えている事だった。 透明度が高いところを見ると薄っぺらなアクリル製でないことが分かる。 透明な箱――と言った方が適切か。那音はその中に仰向けのまま拘束されていた。 白衣と着ていたシャツは前が大きくはだけている。やけにひんやりとする空気が露出している肌を冷やしていく。 それに加えて、さっき応接室でセロンに絞めつけられた首筋が痛い。 「――っくう」 少しだけ体を動かしてみるが、このガラスに囲まれたベッドの上からは逃げ出すことは不可能に近い。 ここがどこなのかは雰囲気からして大体の見当はつく。おそらくミラード製薬の研究室だろう。 厳重なセキュリティに管理されたこの施設内は、安易に人が出入り出来る場所ではない。それに、大声を出そうが外部に漏れることはないし、もし何かあった時の廃棄も専属の業者に引き取らせればそれで済む。 このままではセロンの思うツボだ。 (どうすればいい……) 心臓が激しく高鳴り、頭が混乱してくる。 狭い箱の中で身動きも出来ない状態からの脱出などほぼ絶望的に近い。たとえ、この部屋からうまく逃げられたとしても、建物内にいる以上はセロンの手の内に他ならないのだ。 那音は発狂したくなるほど追いつめられていた。 その時、足元の方でステンレス製の自動ドアが開き、白衣を着たセロンが姿を現した。 隣には彼とはまるで対照的な柔らかい雰囲気を持つ男性が立っていた。 「アルフ、準備を始めろ。あいつらに勘付かれる前に済ませるぞ」 嫌悪感しか抱かない低い声が響き、アルフと呼ばれた青年は無言のまま銀色のトレーを手にベッドの周囲を動き始めた。 「奥山那音……お前はもうすぐ俺の伴侶となる。その前にその血をすべて抜き取る。人間でなくなる気分はどうだ?」 「そんな……っ!こ…こんなこと、許されるはずがない!あなたは俺の血をドラッグに……使うつもりなんでしょう!」 「人聞きの悪い事を……。これは貢献だ。これからのJ・イーストのためにお前は貢献する」 「違うっ!こんなのは……絶対に違うっ!」  声を発するたびに絞められた喉が痛んだが、那音は声を荒らげた。 しかし、ガラスケースの中で反響するばかりの自分の声がだんだんと弱くなっていくのを感じた。 そんな那音に気付いたのか、頃合いを見計らったセロンはアルフに目配せをした。 ガラス越しに見えたアルフが手にしてきたのは、丸い穴が数多く開いたボール状のものにゴムバンドがついたボールギャグと言われる口枷だった。 「下手に騒がれて舌を噛まれても困る。それを嵌めておけ」  冷たく言い放ったセロンに頷いたアルフは、ポケットから取り出した鍵でガラスケースを開けると、嫌がる那音の頭を固定した。半ば強引に口にボールが押し込まれ、ゴムバンドで固定される。 呼吸は出来るが口内に溜まった唾液は唇の端から垂れ流しになってしまう。 「う……うぅ……んっ!」 ほとんど呻き声しか発せない那音をセロンが上から見おろす。 「これではせっかくの美人が台無しだな。いや――苦渋の表情もまたいい」 露わになった胸を骨ばった手が撫でていく。その嫌な感触に全身が粟立った。 レヴィの時とは全く違う手触り、そして何より体が受け入れようとしない。 込み上げる吐き気を何とか我慢していると、シャツの袖をめくられ消毒液を広範囲に塗り拡げられた。 今の那音の体はたとえ傷をつけられたとしても驚異的な早さで治癒する。何より、体外に出た血液は瞬時に腐敗してしまう。 セロンたちはそれを知っているのだろうか。 アルフが慣れた手つきで那音の腕の動脈を探す。指先で探しあてたところに、透明な管の先に直径一ミリほどのニードルがついたものを一気に突きたてた。 「んんっ!」 痛みと抵抗に体を捩ってみるが、その抵抗は虚しい物だと思い知らされる。 深く刺さったニードルから鮮血が管の中を通っていく。 外気に触れることのない血は黒く変色してはいない。それに、傷はニードルに阻まれ閉じることは出来ない。 「んー!んんっ!」 「お前の血は空気に触れると腐敗する。更生施設から手に入れた中沢教授のデータにきちんと残されていたよ。医療関係に強い我々がそんな初歩的なミスを犯すはずがないだろう。このまま真空保存し一気に凍結させる」 セロンは満足げな表情を浮かべ、端正だが陰のある顔を那音に近づけた。 「このままの状態で俺と契約を結ぶとどうなるか――分かるか?」 首を左右に振りながら体を捩じる。 しかし腕を固定され血液を抜かれている以上、大きな動きは出来ない。 「血液が不足していく状態で俺の血を体内に入れれば物凄い速さで体内に吸収され、お前はバンパイアになる。だが、その体の変化に脳細胞がついていくことが出来なくなり、お前の意思を司る場所は壊死する。つまり――主である俺の指示でしか動かない人形になるというわけだ。この可愛い顔を永遠に愛でていられる」 骨ばった指が那音の頬を撫でていく。背筋がゾクリと冷え、次第に目の前が暗くなっていく。 軽い頭痛と吐き気、そして眩暈が次々と襲いかかる。 以前、大量に血液を抜かれた時と同じ症状に、那音は生命の危機を感じた。 苦痛の表情を見せる那音を見て、セロンは猛禽類のような鋭いカーキ色の目が赤みを増していく。 薄い唇を長い舌で舐め、那音の胸の突起を指先で摘まみ上げながら首筋にゆっくりと顔を近づけた。 「んん!んーっ!んんんっ!!」 セロンの鋭く硬い牙が那音の首筋に触れた時、轟音と共にステンレスの自動ドアが粉々に吹き飛んだ。 「なにっ!」 欲情した長い牙を剥き出したまま、勢いよく顔をあげたセロンは次の瞬間凍りついた。 「――貴様、那音に何をする気だ?」 特注の分厚いステンレス製のドアが飴のようにぐにゃりと変形し、パラパラと落ちる壁の向こう側から地の底から響くような低い声がした。 抑揚のないその声は明らかに怒気を孕んでおり、その声を耳にしただけで背筋が寒くなった。 「お前は……レヴィ!どこから入った!ここは強力な結界を張ってあり、人間はもとより魔族さえも近づくことは出来ないはずだっ」 レヴィは気怠げに銀色の髪をかきあげながら冷たい眼差しでセロンを睨みつけた。 「――結界?これのどこが結界だ。笑わせるな……」 フンッと大袈裟に鼻を鳴らし、曇り一つなく磨かれた革靴で瓦礫を踏みしめながら研究室へと足を踏み入れる。 白いシャツに黒いスラックスとロングジャケットというシンプルな姿はレヴィの美しさをより引き立てている。 美しく、そして強大な始祖の血を継ぐ彼の前には誰もが跪く。 ベッドの脇に茫然と立ちつくしていたアルフを片手で押した。特に力を入れたようには見えなかったが、彼はガシャンと派手な音を立てて壁に叩きつけられた。 レヴィは必死にもがいている那音の頬をそっと掌で包んでから、繊細な指先で口に嵌められたボールギャグを外した。 「レ……レヴィ……」 涙で滲む視界の中で優しく微笑んでいるのは間違いなく那音が求めてやまない人だった。 しかし、酷い眩暈に揺れる視界ではレヴィの顔をまともに見ることも出来ずにいた。 それでも必死に目を見開いて、ふわりと香るバラをむせながらも肺に取り込もうとした。 「遅れてすまない……。ん?この首の痣は?」  セロンに絞められた首の痣に気付いたレヴィは、眉間に深い皺を刻んですっと目を細めた。 那音の耳元で囁く彼の声は今までになく優しい。しかし、その優しさはきっと“隷属”への労いなのだろう。  そう思うと胸が締め付けられるように痛くなり、呼吸も乱れる。 「これ……は……っ」  説明しようとするが、声が掠れて上手く発せない。体が怠く、思考力が落ちていく。 レヴィは音もなく体を起こすと、先程から動けずにいるセロンを睨みつけた。 「――つまらないドラッグをバラ撒くだけじゃ飽き足らず、まさかこの血を使ってこの国をお前の支配下に治めようなどと考えてはいるまい?」 宝石のような紫色の冷たい瞳は彼を逃さなかった。 しかし、図星をさされたにも関わらず、セロンの猛禽類のような目は、レヴィに対して再び挑戦的な光を湛えた。 「ふんっ、若造がっ。貴様にとやかく言われる筋合いはない。国に出資し、破綻を救済した時点で俺は統治権を得ている。それはお前も良く知っているはずだろう?――この国で俺たち魔物が自由に生きていける権利を持つ……実に道理が通っていると思わないか?お前こそなぜ、脆弱な人間にこだわる?所詮人間だぞ?」 セロンの言い分にレヴィの眉が片方だけ上がる。そして、薄い唇が綺麗な弧を描いた。 「――その人間の恩恵に預かっているのはどこの誰だ?商品を売り、人間から資金を得ている製薬会社が口にする事とは思えないな。――とにかく。彼は返してもらうぞ。その血もなっ」 レヴィは那音を拘束していた鎖を素手でいとも簡単に引きちぎると、ぐったりとしたままの彼を抱き上げた。 胸を激しく上下させて喘ぐ彼の表情に、今まで感じたことのない痛みと怒りを感じた。 「それは許可出来ない。彼は我が社にとって貴重な研究材料だ……」 「研究材料……だと?」 セロンがレヴィに手を伸ばした時、彼の背後でカチリと鈍い音がした。 ただならぬ気配に警戒しつつゆっくりと振り返った彼は、自分の背後に立っていた青年に息を呑んだ。 皺ひとつない上質な仕立ての黒いスーツに身を包み、ブルーブラックの髪を緩く後ろに流し、この緊迫した状況ではまるで異質とも言える柔らかい雰囲気を持った青年。 印象的なアーバンの瞳はブレることなくセロンを見据えている。 ブラックレザーの手袋をしたその手にはクラッシックなデザインのリボルバーが握られ、その銃口はセロンの頭に向けられている。 「お前は……レヴィの…っ!」 「お久しぶりです。ミラード卿……」 優雅な口調でわずかに目を伏せながらクスッと笑って見せたのはアルフォード家の執事、ノリス・フェザーだった。 「那音様の血は一滴たりとも、あなたにお渡しすることは出来ません」 あくまでも柔らかな口調を崩さない彼に気を逆なでられたのか、セロンはふらつく足取りで入口近くの壁に凭れていたアルフに目配せすると、突然、牙を剥き出して両手を広げながら挙げた。 すると狭い研究室内に突風が吹き荒れ、ガラスの破片が飛び散り、容赦なくレヴィと那音に襲いかかった。 抱き上げた那音の腕から採血用のニードルを何の躊躇なく引き抜いたレヴィは、自分の腕の中に彼を庇うようにして寝台の下へ身を伏せた。 ノリスもまた、おっとりとした普段の彼からは想像できない軽い身のこなしでその突風から逃れると、那音から採取した血液が保存されているステンレスの保存容器を腕に抱え込んだ。 容器から外れた管に残った血液は瞬時に黒く変色し腐敗していく。 内部を真空に保つコックを閉め、完全に密封されたことを確かめると、今は原形を留めていない部屋の入口へと向かった。 しかし、そこには唇から血を流したアルフが立ち塞がっていた。 儚げで美しい顔立ちが、あり得ないほどの殺気を漲らせている。 赤く光る目には怒りを湛えノリスの行く手を阻んだ。 「それはセロン様のものです!そして、彼も……っ!」 那音の血液が入った保存容器を抱えている今、無茶な動きは出来ない。何としてもこの血液を守らなければ、那音は本当に失血死してしまうからだ。 じりじりと間を詰めてくるアルフに、ノリスは小さく舌打ちしてすっと目を細めると、唇に指を当ててピュウッと短く鳴らした。 指笛の音とほぼ同時に、研究室の廊下に小さな竜巻が現れ、その中心部から一人の青年が現れた。 「おせーよっ!ノリス!」 派手に舌打ちして少しムッとした彼はルークだった。金色の髪をまだ残る竜巻の風に揺らしてノリスを睨む。 突然のルークの出現に気が緩んだアルフの隙を突いて、ノリスが手にしていた保存容器を投げた。 それを素早い動きで確実に受け取ると、ルークは容器の持ち手を大きく開けた口に咥えると、しなやかな筋肉で包まれた体を大きく翻した。激しく骨が軋む音があたりに響き、わずか数秒で金色の毛並みを持つ大きな狼に姿を変えると、アルフの脇をすり抜けるように廊下を走り出した。 その速度は、もはや人間の目では追うことは出来なかった。 「な……何と言う事をっ!」 狼に姿を変えたルークを追おうとするアルフの足を止めさせたのは、後頭部に銃口を突き付けたノリスだった。 彼はふわりと優雅に微笑んだ。 「ルーク様を追おうなんて、無駄なあがきは見苦しいだけですよ。言っておきますが……この銃は決して脅しなんかじゃありませんよ」  親指をかけた安全装置の金具をカチリと外すと、アルフの頭を抉るようにさらに力を込めた。  笑みを湛えたまま執事の顔を崩すことなく、それでいて冷酷な一面を見せるノリスに、アルフは戦慄を覚えた。 完全に動きを封じられたアルフはギリッと奥歯を鳴らして、しばらく寝台の下に伏せていたレヴィがゆっくりと立ち上がったのを視線の端にとらえた。そしてレヴィと向かい合うセロンをただ見つめるしかなかった。 レヴィは全身に降りかかったガラスの破片をパラパラと落としながら、しなやかな指先で唇の端についた血をそっと拭った。 那音を庇っての動きは一人で動き回るのとはまるで違う。自然と制限されてしまったために自分よりも那音の体が心配でならなかった。 「――まだ分からないのか?那音はお前のモノにはならない。何より、お前が手を出していい者ではない」 「邪魔ばかりしやがって……。貴様などロクな力もないクセに成り上がったただの若造だ。どうだ?今ならまだ話し合いで解決してやる。奥山那音とその血液、そしてお前の持つJ・イーストの統治権を俺に寄越せ。そうすれば命だけは助けてやる。同族のよしみだ……」 下品に牙を剥いたまま笑うセロンにどこまでも冷たい視線を注ぎながら、レヴィは大きなため息を吐いて首を左右に振った。 「――成り上がりはどっちだ?爵位もなく、私利私欲に塗れて汚い手を使って人間から金を集めたエセ貴族はお前の方だろう?何かにつけて我がアルフォード家に喧嘩を売るヤクザのような血族と取引する気は毛頭ない」 「なんだとっ!」 「やれやれ……。その足りない頭ではまだ気づいていないようだな。じゃあ、教えてやろうか……」  レヴィは自分の足元に片膝をつくと、寝台の脚に凭れるように力なく座っていた那音の髪にキスをした。 「まだ、大丈夫か?」  問いかけにわずかに頷いたのを確かめると、彼の脇に手を差し入れて体を支えるようにして立たせた。 那音は閉じていた目を気怠げに開いた。 長い睫毛が小刻みに震え、少しでも気を抜けばすぐに閉じてしまいそうだ。 レヴィの力強い腕に包まれた那音は潤んだ栗色の瞳をセロンに向けた。 その表情は妖艶で、まるで彼を誘っているかのように見えた。セロンは思わず息を呑んだ。 ただの人間である那音が、バンパイアであるセロンをも魅了する表情を見せることに驚いたのだ。 確かに肌のキメといい、顔の作りといい、男にしては整っている方だ。それ故に、セロンの欲情を誘ったことは間違いない。 しかし、今の彼はそれだけで片付けられるレベルではなかった。 那音は、体を背後から抱き込むように回されたレヴィの腕に傾けた頭を預けるとわずかに微笑んだ。 乱れた栗色の髪の間からのぞく左耳のピアス、そして白い首筋に生々しく残る噛み痕。 その咬み痕の周囲には赤い鎖のような痣がうっすらと浮き上がっていた。 「まさか……っ!」 セロンは大きく目を見開き、那音を凝視する。 レヴィはセロンを真っ直ぐ見据えたまま、後ろから那音の首筋に唇を寄せた。 「――俺の婚約者に手を出すなんて、バンパイアの端くれとは言え、一族の掟を破ればどうなるか知らないわけではあるまい?」 「こ……婚約者、だとっ!そ、そんな子供だまし、俺に通用すると思っているのかっ!」 「子供だましだと?それは随分と失礼な物言いだな。見て分かるだろう?これはアルフォード家の婚約の証。誰も彼に手を出すことは許されない」 レヴィは啄むようなキスを首筋に繰り返しながら、立っていることもままならない那音の体を抱き上げると硬い寝台に横たえた。 那音は微かに残っている意識の中でレヴィを求めた。その意思が伝わったのか、彼は那音の耳元で優しく囁いた。 「少しだけ眠っていろ……」 レヴィが耳朶を甘噛みすると、那音は素直に頷き彼の腕から両手を離すと、そのまま深い眠りに落ちた。

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