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――遡ること数分前。 セロンが放った突風によって降り注ぐガラスの破片から那音を庇って寝台の下に伏せたレヴィは、呼吸も細くぐったりとしたままの那音の耳元で囁いた。 「――つらいか?」 力なく頷く那音に、眉根をよせ苦しそうな表情で見つめるレヴィは抱きしめる手に力を込めた。 人間はか弱くて、儚い。このまま強く抱きしめたら呆気なく壊れてしまいそうで、一瞬恐怖を覚えた。 「すまない……。もう少しだけ頑張れるか?」 「は……い」  もう声は出なかった。細く開けられた唇が震えながら空気を吐き出す。  今の那音にはそれが精一杯だった。 「お前は俺のモノだ。他の誰のモノにもならない。なぜなら――お前と交わした契約は“隷属”の契約じゃない。“婚姻の約束”だ。恨むのなら身勝手な俺を恨めばいい。お前に殺される覚悟は出来ている。だが今は――今だけは俺の婚約者として振る舞え。いいか?」 薄れる意識の中で確かに聞こえた“婚約者”という言葉に那音は驚き、わずかに目を見開いた。 そして、その大きな瞳からは自然と涙が溢れ出した。 「もう一度、お前に牙を立ててもいいか?」 那音は迷うことなく頷くと、レヴィは「イイ子だ……」と優しく頭を撫でた。 そして、以前牙を穿った場所をなぞるように、もう一度鋭く太い牙を突き立てた。 その衝撃と痛みに体がビクリと跳ねる。しかしすぐに甘い痺れに変わり、弱り切っていた那音の意識を繋ぎとめることが出来た。 レヴィが白い首筋に深く食い込んだ牙を引き抜くと、噛み痕の周囲に赤い鎖のような痣が浮かびあがった。 アルフォード家の当主が伴侶と認めた者だけに記される痣は、二度と離れる事なく、永遠に心を囚われるという意味合いがあるバンパイアの証だ。 レヴィは赤く染まった牙に舌を這わせて満足そうに微笑むと、那音の上体を起こし寝台の脚に凭せ掛けた。 そして、唇に残る那音の甘い血を指先で拭いながら立ち上がった。 レヴィはセロンに向き直り、着ていたロングジャケットのポケットに片手を入れながら言った。 「貴様の行動はすべて公安が把握している。だが、一族の掟を破った件については人間の法では裁くことは出来ない。皇帝に委ねるかこの場で死を選ぶか――お前次第だ」 「レヴィ……。貴様っ」  忌々し気に呟いたセロンに、レヴィは鋭く言い放った。 「下手に動けば容赦なくお前の頭と心臓に弾丸を撃ち込むぞ」 いつの間にか、セロンの後ろではノリスが銃を構えていた。 彼の足元にはアルフが苦痛の表情を浮かべて横たわっている。 ノリスの判断で、アルフの動きを抑え込んでいたようだ。 「こんな……、こんなことが許されると思っているのか?若造がぁ……っ」 地の底から響くような低い声で唸ったセロンの表情が変わった。端正な顔立ちが崩れ始める。 鋭い牙を剥き出し、すっかり真紅に変わった光る眼はレヴィをとらえたままだ。 嫌な緊張感が流れるなか、セロンは突然大きな動きで振り返ると、背後に立つノリスを払いのけるように腕を振り上げた。鋭い爪が空を切った。 セロンの行動が読めなかったノリスだったが、寸でのところで攻撃をかわした彼は床に膝をついたまま肩で大きな息を繰り返している。 「――うちの大切な執事に手をあげるとは、とても英国紳士とは言い難いな……。それじゃあ、ただの野獣だ」 「黙れ!貴様こそ、この場で死を選ばせてやる。命乞いをするなら今だぞ!」 レヴィは那音が横たわる寝台に片手をつくと軽々とそれを飛び越え、彼を背に庇うようにしてセロンの前に立ち塞がった。 「レヴィ……お前が死ねば、那音の伴侶は誰でもない」 物凄い殺気を漲らせるセロンにレヴィは小さく吐息すると、深い紫色の瞳を妖しく光らせた。 「――いい加減にしろ、セロン」 右手を肩の高さにまで優雅に上げると同時にレヴィは息を大きく吸い込んで床を蹴った。 その体は人間の目では追えない速さで壁際にまで移動していた。ただその場所から動いたわけではない。 右手には、がっしりした体躯のセロンの首を掴んでいた。白い壁に思い切り叩きつけるように絞め上げたその首には綺麗に研ぎ澄まされたレヴィの長い爪が首に深く食い込み、そこからは血が溢れていた。 顔を苦痛の様相に歪め、血走った目でレヴィを睨むセロンに、彼は楽しそうに唇を綻ばせて妖艶に微笑みかける。 「バンパイアは魔物の中でもより独占欲が強く、誰よりも嫉妬深い。そして大事な者を傷つけられればそれなりの報復をせねば気が済まない。お前が我が婚約者に与えた傷は死に値する」 自分よりも身長のあるセロンを、腕を伸ばして壁に押さえつけたまま体を浮かす。 床から靴が完全に離れたセロンは、自重によってレヴィの爪がより深く食い込んでいき、低い呻き声をあげた。 「は、放せ…っ。貴様など……っ」 途切れ途切れの声で未だに虚勢を張るセロンに、レイは無表情のまま言葉を紡いだ。 「――楽に死なせはしない。那音の苦痛を思えば当然のことだろう」 自由を求めて必死にもがくセロンだが、レヴィの腕一本に抗うことが出来ない。 もがけばもがくほど首は絞まり、爪が食い込んでいく。 「く…そっ!」  セロンの意識も混濁し始めた時、不意にレヴィの背中に衝撃が走った。やにわに振り返ると、ふらつく体を何とか支えるように足を踏ん張ったままのアルフがいた。  セロンと同様に、赤く染まった目を血走らせ、牙を剥き出している。  どうやらノリスの判断が甘かったようだ。ダメージを与えたと思っていた彼だったが、思いのほか力を秘めていたらしい。 いきなりレヴィを襲った激痛は、ジャケットもシャツも破け、背中には無数の深い傷が出来、大量に出血していた。 痛みにすっと目を細めたレヴィは眉間に皺を寄せると、それでもセロンの首に掛けた手を離すことなく、静かな口調で言った。 「――ノリス。目障りだ……消せ」 アルフの力で煽られ、壁に体を叩きつけられたノリスは、なんとか呼吸を整えて立ちあがった。 乱れた髪が利発そうな額を覆い隠して彼の表情は分からない。しかし、何かが変わっていた。 血で濡れた手で壁を掴むようにして、俯いていたノリスがゆっくりと顔をあげる。 それまでの余裕のある穏やかな笑みは消え、綺麗な顔立ちはより凛々しさを増した。アーバンの瞳はやや金色がかった色に変わっている。 血で滑る銃をしっかりと握り直し、先程までアルフに向けられていたはずの銃口は再びセロンへと向けられた。 「――申し訳ございません、レヴィ様」 カチリと安全装置を外す音が聞こえ、ノリスが本気であることに気付いたアルフは青ざめた。 「使用人とは主あっての存在。あなたを殺すよりもその主を消した方が、あなたの負うダメージはより大きい……」 普段の彼の穏やかさは消え、冷酷でつき放すような言い方にセロンも目を見開いた。 レヴィはゆっくりと首を左右に振ると大袈裟にため息をついて見せた。 「どうやら彼の逆鱗に触れてしまったらしいな。こうなったらさすがの俺でもお手上げだ。ダンピールの腕は確かだ。下手をすれば、この俺もセロンと一緒に打ち抜かれるかもな」 そう言いながらもセロンの首を掴んだ手は緩められることはなく、口元には笑みさえ浮かべている。 その場の空気を一気に冷たいものへと変えたレヴィとノリスに、二人は戦慄を覚えた。 「ダンピール……。まさか…っ」 アルフがわずかに目を見開いて呻くように呟く。 そう――ノリスはバンパイアと人間のハーフとされるダンピールなのだ。バンパイアハンターとして対バンパイアに特化した力を持ち、彼らが忌み嫌う純銀の弾丸を扱う事が出来る。 この弾丸で心臓を撃ち抜かれれば、二度と再生は出来ない。つまり“死”を意味する。 そんな彼が、本来狩られる立場であるバンパイアのレヴィの忠実なる執事として共にいることに疑念を抱かずにはいられなかった。 ダンピールは己の生を受け入れてはいない。生存率が低く、生まれてすぐ死んでしまう事が多いからだ。その中で上手く育ったとしても、自分の運命を悲観して自殺する者が多く、今ではその数は減少の一途を辿り、稀少種とされている。 他人と群れることを嫌い、孤独を愛し、どこまでも非道で残虐だ。 「――ふふっ。それも面白そうですね?ですが、私も大切な主を失くしてしまうのは困りものです」 そう言いながらも、柔らかな唇が妖しく弧を描くと同時に容赦なく引き金を引いた。 ガウンッ! 分厚い壁に反響した音がいつまでも残っている。壁に押さえつけられたままのセロンの顔のすぐ横の壁が砕け、硝煙があがった。 「――お、おい…!本気…かっ!」 掠れたセロンの声が恐怖のためか、わずかに震えている。 ノリスはカチリとレバーを下ろしリボルバーを回転させると、小さく舌打ちをした。 「この状況で本気か?と問うあなたの精神構造が知りたい。今のは腕ならしです。次は外しませんよ」 何か楽しい玩具を見つけた時の子供のように唇を綻ばせる。 再び拳銃を構えると安全装置を外して、スッと金色の目を細めた。 引き金に指がかかる。 ガウンッ! 耳をつんざく銃声が再び響いた。 レヴィのすぐそばには、なぜかアルフが立っていた。彼は大きく目を見開いたまま動かない。 彼の着ていたスーツの胸元に赤いシミがゆっくりと広がっていく。 「…うぅ――っ」 「ア……アルフ!!!」 喉を潰されたセロンが出せる限りの声でその名を叫んだ。 ノリスが撃った弾丸はアルフの左胸を見事に打ち抜いていた。彼はセロンを庇い自らの体を盾にしたようだ。 「セ…セロン…さ、ま。これ……で……」 セロンはレヴィの腕を掴むと渾身の力を込めて引き離し、崩れ落ちるアルフの体を抱きとめた。 「お前…なんてことを…っ!」 「…私は…あなたと……とも、に……いられ…て、し…しあ、わ……せ…で……た」 ピンク色の唇を小刻みに震わせた後で、口から大量の血を吐きながら微笑んだ彼の体は一瞬で白い灰となって消えた。 セロンは手に残った灰を握り締め、冷たい床に両手をついて項垂れた。首に負った傷からは血が滴り落ちていた。それが自分の手を伝い、床を赤く染めていく。 「――貴様っ!なぜ…、なぜ……俺を撃たなかったっ!」 拳を握りしめたまま、勢いよく顔をあげたセロンはノリスを見上げて叫んだ。 ノリスは冷めた目で彼を見下ろすとフンッと鼻で笑った。 「この私が狙いを外すわけがないでしょう?」 額に落ちたブルーブラックの髪を指先で払いのけながら、従順なしもべを失くした哀れなセロンに改めて銃口を向ける。 「――性欲の捌け口がなくなった今、あなたはそのことで哀しんでいるだけでしょう?彼はあなたの事を愛していたのに……酷い男ですね。思わせぶりな言動は時に相手を傷つける。それを何十年、いや何百年続けてきたんですか?今さら哀れな男のフリなんか見苦しいだけですよ」 「き…き……貴様ぁっ。言わせておけば……っ」 セロンはフラフラと立ち上がると、軽く床を蹴ると体を軽々と宙に浮かせ、寝台に眠る那音の元へと下りたった。 彼の動きを見誤ったレヴィは、振り返りながら舌打ちした。 那音の左胸に押し付けられたセロンの鋭い爪は、いつでも彼の心臓を抉り出せると言わんばかりに白い肌に食い込んでいる。 「主も主ならば飼い犬もまた然りだ。ことごとく俺の邪魔ばかりしおって……。こいつの存在はお前らにとって最も弱点になる。さぁ、この場に跪いて許しを乞うか?」 レヴィはボロボロになったジャケットとシャツを脱ぎ捨てると、引き締まった上半身を露わにした。 先程アルフに攻撃された傷は跡形もなく消えている。 透き通るような陶器のような滑らかな肌に芸術的と言っても過言ではない筋肉美だ。 セロンに銃口を向けるノリスを片手で制すると、レヴィは静かな口調で言った。 「――セロン、いい加減にしろ」 抑揚のない落ち着いた口調は、激情して荒らげるよりも一層恐怖を感じる。 ゾクリと背筋が冷たくなるのを感じたセロンは、もう片方の手を那音の首にかけた。 鋭い爪が白い首筋に浮かんだ赤い鎖の痣に食い込み、わずかに血が滲んだ。細く赤い筋を描いて流れる血が空気に触れて次第に黒く変色していく。 その瞬間、それまで冷静な態度を崩さなかったレヴィはカッと目を見開いて牙を剥いた。 部屋の空気が息苦しさを感じるほど張り詰め、急激に冷やされていく。 何かに突き飛ばされるような圧迫感を感じた時、すでにセロンは壁際にいた。 レヴィの彼の体から放たれた無数の太い鉄杭は、吹き飛ばしたセロンを白い壁に縫いとめていた。 腕や足、肩に突き刺さった杭はわずかに動いただけでは簡単には抜けることはなかった。 「くぅ――っ!」 動くたびに溢れ出し、ダラダラと流れる血が床に血溜まりを作り始めていた。 レヴィは肩を上下させて呼吸を整えながら寝台に近づくと、まるで何事もなかったように落ち着いた呼吸を繰り返す那音の首筋に口づけた。 彼が舌で滲んだ血を掬うように舐めとると傷口が塞がっていく。 「――那音を傷つけることは許さないと言ったはずだ。婚姻前の大切な体に傷が残ったらどうする?貴様を何度殺しても足りない。永遠に死ぬことも許されず苦痛を受け続けるがいい」 那音の傷はすうっと消え、元の白い肌へと戻った。 レヴィは長い指先で額の髪を払いのけて頬に唇にキスを繰り返す。 そして、なるべく振動を与えないように那音を抱き上げると、ノリスに目配せをする。 ノリスもまた視線で「了解」の意を伝えると、銃口をセロンに向けた。 「な……っ、何をするつもりだっ!」 ガウンッ! ノリスの撃った弾丸はセロンの喉を撃ち抜いていた。 バンパイアは心臓を撃ち抜かれなければ死ぬことはない。だが純銀の弾丸で撃たれた場所は二度と再生することは出来ない。 セロンは目を見開いたまま聞こえることのない叫び声を上げ、唇を震わせた。 「その不愉快な声を封じておきます。あとは皇帝が審判を下すでしょう」 冷たく言い放ったノリスはホルスターに銃を納めると、自分の着ていたジャケットを脱いでレヴィの肩にかけ、あとに続くように研究室を出た。 誰もいなくなった部屋に残されたのはセロンの二度と聞こえることのない声と、血の滴り落ちる音だけだった。

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