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周焔編(氷川編)15

 一方の冰にとっては、テーラーに入るなりまたまた驚かされる出来事が待ち受けていた。  そもそも何故この店に連れて来られたのかということさえ分からないままだ。周は今後の仕事内容の説明がてらと言っていたから、先ずは社内を案内されるか、もしくは支社のようなものがあってそちらから見学させてもらえるのだろうかなど、漠然と思いながら言われるままについて来たというだけなのだ。 「では早速採寸から始めさせていただきます」  またしてもビシッとしたスーツで決めた初老の男が丁寧な態度で一礼する。見たところ彼がこの店の担当者なのだろう。周や劉とはよくよくの顔見知りのようで、阿吽の呼吸だ。  そんな男が自分の前に来て『失礼致します』と言い、メジャーを当て始める。 「あの、周さん……? 採寸って、俺の……ですか?」  冰はワケが分からず周を見上げてしまった。 「そうだ。お前さん、荷物は殆ど香港で処分してきちまったんだろう? 先ずは勤めるに当たっていろいろ必要だろうが」  引っ越しも済んでいないまま香港を離れ、この日本の地で暮らそうと思ってやって来たのなら、大した荷物も持って来ていないのだろう。周はそう察したようだった。  確かに日常の必需品は日本で新しく揃えればいいと思って、必要最低限のものしか持って来なかった。就職するに当たってのスーツは確かに必要だし、面接の際にも入り用かと思って二着ほどは持参してきた。あとは追々揃えていけばいいと思っていたのだが、周の行動の速さには驚かされるばかりだ。 「もしかして……制服とかがあるんですか?」  周の会社では制服まで支給されるのだろうかと思ったわけだ。そういえば、先程の受付嬢らも揃いの制服姿だったことを思い出し、冰はとっさにそう訊いたのだった。  すると周はまたしても可笑しそうに瞳をゆるめてみせた。 「制服――ね。まあそんなところだ」 「はぁ、それは助かります」  まさに素直な感想だった。制服があるなら今後のコーディネートに悩むこともないので有り難い限りだが、それにしても一目で高級店だと分かるこんなテーラーで揃えるだなんて、いったい周の会社というのはどれほど儲かっているのだろうと目を丸くしてしまう。冰にとってはまさに夢幻の如くだった。  だがまあ、実際にはすべての社員に制服をあつらえているわけではない。受付嬢など制服を支給する部署もあるにはあるが、男性社員は基本的に自由としている。つまりは自前のスーツということだ。だが周は、この日本の地で一からスタートをしようとしている冰に必需品を揃えてやりたいと思い、馴染みのテーラーへ連れて来たというわけだ。それに、こうして冰に質のいいスーツを与えるのにはもうひとつ理由があった。まだ冰には告げてはいないが、周は彼を自らの秘書として勤めさせる心づもりでいたからだった。

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