465 / 1208

漆黒の記憶29

「俺に嫁がいるかと……冰がそう言ったのか?」 「はい、とても気掛かりなご様子でした。最初は私にお嫁さんがいるかとお訊きになり、いないと答えると次にはたいそう言いづらそうにしながら、それじゃあ白龍のお兄さんはどうなんだと」 「……それで、何と答えたんだ」 「いないとお伝え致しました。すると、たいへん安心なされたご様子でしたが、同時に考え込む素振りもみせられました。もしかするとどこかで老板には御令室がいらっしゃるというようなことをお耳にされたのではないでしょうか」  鄧いわく、邸の者たちの雑談の中で『奥様が早くご快復なされるといいですね』などといった会話がなされていて、それを偶然にも冰が聞きつけてしまったのではないかとのことだった。 「邸の者たちは冰さんのことを案じて言ったのでしょうが、何も知らない冰さんがそんな会話を耳にすれば当然別の誰かが老板の奥様だと勘違いしてもおかしくはございません。もしもそれがきっかけでお元気がなくなったのだとすれば、老板をお慕いするお気持ちが強いからこそのお悩みなのではと」 「雑談か……。まさかあいつ……」  周はハッと瞳を見開くと、思わずデスクに手をついて立ち上がってしまった。 「もしかしたらさっきの話を聞いていたのか……」  よくよく考えれば生真面目で責任感も強い彼が社に出向く時間を忘れて寝入ってしまう方がおかしいとも思える。とすると、いつも通り手伝いにやって来たが、客――つまりは先程の女性――がいて、出直そうとしたところ話の内容が聞こえてしまったという方が可能性は高い。女は確かに『奥様』という言葉を連発していた。しかもその奥様を差し置いて自分との蜜月を迫ってきてもいた。幼い心の冰にはその意味こそ分からずとも、雰囲気で妖しげなものを感じ取ったのかも知れない。 「そうか……それであいつ……」  周が様子を見に行くと言ったので、急いでその場を立ち去り、咄嗟に眠ってしまったと嘘をつかせてしまったのだろう。 「気の毒なことをしちまった……」  周は鄧に『よく教えてくれた』と短く言い残すと、すぐさま冰の元へと急いだ。  部屋に着くと冰はまだベッドに潜り込んではいたが、眠ってはいないようだった。 「冰」  声を掛けるとハッとしたように慌てて半身を起こした。 「お兄さん……!」 「冰、少し話してもいいか?」 「……? うん。お兄さんお仕事はいいの?」 「仕事よりお前だ。もしかしてさっき社に来たんじゃねえか?」 「え……あの……ううん」  ひどく驚いて恐縮したように肩をすぼめる。その様子から、やはりかと確信が持てた。

ともだちにシェアしよう!