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漆黒の記憶32

 ちょうどその頃、ウトウトとしながら眠りに落ちていた冰は、寝返りを打った瞬間に隣の温もりが空っぽになっていることに気が付いて身を起こした。 「……お……兄さん? どこ……?」  つい先程、確かに布団に潜り込んできて『おやすみ』と言ってくれたはずである。あれからどのくらい寝入ってしまったのだろうか――そんなに時間は経っていないはずである。  外はまだ暗い――。  急に不安になって、冰は音を立てないよう静かにベッドを抜け出した。 「お兄……さん?」  リビングや化粧室、バスルームにまで見に行ったが周の姿はない。代わりにまだ壁がほんのりと温かかったので、彼が風呂を上がってからたいして時間は経っていないことが窺えた。  ダイニングを覗いたが、灯りは常夜灯のみで人の気配はない。真田ら家令の者たちも既に自室へと引き上げているのだろう。  寝室へ戻ると、リビングや風呂場とは反対側の書斎の方から物音が聞こえた気がして、冰はそちらへと歩を向けた。 (お兄さん、もしかしてまだお仕事が残ってるのかな……)  だが灯りは点いていない。扉はほんのわずかに開いていて、隙間からそっと中を覗く――。 「お……兄さ」  …………ッ!?  驚くような光景が視界に飛び込んできたのはその直後だった。冰は思わず「ヒッ……」と声を上げそうになり、慌てて両手で押さえた。  カーテンの隙間から漏れる都会の空の灯りが――うねるような見事な龍を浮かび上がらせている。見慣れている周の背中の彫り物に他ならない。  その龍が熱にうなされたようにうごめき、うっすらと肌を覆うテカリは細かい汗の粒だろうか――。何かの摩擦のような音の合間に時折微かに聞こえる声は苦しげであり、と同時にひどく色っぽい。如何な子供の心であっても、正体不明の何かに焚き付けられるような衝撃が嵐に巻き上げられた大波のようになって、呑み込まれてしまいそうな思いに陥った。  冰はその場を動けず、そして視線は釘付けのまま目をそらすことさえできずに、しばらくはその一部始終を硬直したまま見つめていた。 「……ッ、は……っ」  荒い吐息と共にうねる龍の動きがどんどん激しくなっていく。冰の側からは背中しか見えないので、その表情までは分からない。だが、なぜか想像はつくような気がしていた。 「お……兄……さん」  揺らぐシルエットからは髪が乱れているのが窺える。瞳を閉じ、恍惚とした表情で何かを追い、今この時いつものやさしい”お兄さん”は何を脳裏に描いているのだろう。何を思い、こんなにも狂おしいような呻き声を上げているのだろう。  乱れた吐息を押し殺すような淫猥な波が、やさしい”お兄さん”を呑み込み奪い去ってしまうようだ。

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