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紅椿白椿13

「小川君はさ、珍しい名前なのな! 駈けるに飛ぶって書くんだべ?」  空中に指で漢字をなぞりながら訊く。 「え……ッ!? ああ、はははい……そっス!」  面と向かって親しげに言われてか、焦りまくってしどろもどろの様子に、泰造親方が助け舟よろしくその由良を説明してくれた。 「駈飛(かけい)ってのはこいつの親父がつけたそうでしてな。大空を駈けて飛べる大きな気持ちを持った男になるようにっていう意味が込められているんだそうです」 「へえ、そうだったの。かっけえのな! 駈飛(かけい)ちゃんかぁ」  いきなり『ちゃん』付けで呼ばれて、柄にもなく頬が染まる。だが、嫌な気はまったくしない。どちらかといえば親しく呼んでもらえて心躍るといおうか、嬉しい気持ちでいっぱいだった。 「あ、あ、あの……えっと、俺はその……姐さん……でいっスか?」  何と呼べばいいかといった調子で口ごもる。 「ああ、俺? 俺ン名前は紫月(しづき)。紫の月って書いてなぁ。紫月でもいいし、姐さんでもモチオッケーよ!」 「あ、はぁ……どうも。紫月さんっていうのも……その、めちゃめちゃかっこいいじゃないスか」 「そう? さんきゅなぁ! 俺ンはさ、生まれた日に出てた月が何となーく紫色っぽく見えたんだって。そんで親父が紫月でいっかってつけたらしいよ。単純だべ?」 「は、はぁ……なるほど……。なんか……その、いいっスね」  緊張の為か上手い返事が返せないものの、紫月はとびきりの笑顔で『さんきゅなぁ!』と言ってくれた。  朗らかなやり取りと楽しい会話、綺麗過ぎる顔立ちに似合わないくらいぞんざいに大口を開けて餅を頬張る仕草。そのどれもが新鮮で、小川は軽いカルチャーショック状態に陥ってしまいそうだった。 (はぁ、若頭さんはかっけーし、姐さんはめっさ美人なのに超いい人だし……普通こんだけ顔がいいとツンケンしてそうなもんなのに……全然そんなことねえし。世の中ってこんな貴重な人がホントにいるのな。モーホーなんて言っちゃって悪かったな……。ホント、よく似合いのカップルだな)  そんなことを思いながら、夢心地の内に三時のお茶の時間は過ぎていったのだった。 ◇    ◇    ◇  そんな小川が庭師見習いとして鐘崎組へと出入りするようになり、組員たちにも顔を覚えられて馴染み始めた頃だった。またひとつ、厄介といえる事件が勃発することとなる。それは初夏の午後のことだった。  この日も小川は親方に連れられて鐘崎邸へと剪定の仕事に顔を出していた。  普段はあまり見掛けることの少ない長の僚一と若頭の鐘崎が揃って中庭伝いの通路を横切ったのを目にして、一気にテンションが上がる。小川にとって彼らと直接会ったのは一等最初に起こした侵入事件の謝罪の時だけで、以後は剪定に訪れてもその姿を見ることはなかったからだ。 「おわッ! 組長さんと若頭さんだ! 久々お姿見れた! 相変わらずカッコいいスねぇ。姐さんのお姿が見えねえけど、今日はいねえのかなぁ」  姐さんにも会いたかったなぁなどと言いながら、小川は作業の手を止めてすっかり彼らの姿を目で追っていた。  どうやら来客のようで、奥の事務室から第一応接室へと向かうところだったようだ。

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