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第5話

バスを降りるまで、二人とも無言だった。それでも隣に座ると肩だけは触れ合っていて、千早は少し安心した。  降りた後も口数少なく歩いていると、千早の家に向かう細い路地を曲がったところで、人通りが全くなくなった。 「……なあ、優吾」 「うん?」 「手、繋いじゃ、だめ?」  小さく声に出した瞬間、小原の肩がびくりと上がった。それを横目で確認して、やはりか、と千早も小さく息をつく。 「誰もいないじゃんか」 「わ、分かんないだろ。いるかもしれないし」  このヘタレ、と言ってやりたくなりながら、それでもめげずに説得を続ける。 「ちょっとだけじゃん。家すぐだし」 「だから、しなくて、いいじゃんっ」  焦るように足を速める小原について行くのがやっとで、千早は小走りになる。  手を繋ごうと言うと、いつもこうだ。誰もいないし、いたとしても千早はそんなもの気にしない。自分たちを知らない人間なら、きっと知らんふりして去ってくれると思うのだが、小原はどうやらそうではないらしい。恥ずかしがって逃げに逃げる。そうして、気づけば軽い追いかけっこのような体制になってしまうのだ。 「あっ」 「つ、着いたし。もう、いいだろ」  お互い息を上げながら、家の玄関にひとまず落ち着く。千早はまた失敗した、と小さく舌打ちをして、家の鍵を開けた。 (今日もダメかよ)  小原のガードはかなり固い。初めてキスをしたのも付き合ってから三週間目のことで、それまでにも相当な労力を費やした。勉強合宿も半分泣き落としのような感じだったし、その夜事に及んだのだって、小原がさんざん童貞だからと逃げ惑った挙句、教えてやる、と半強制的に奪った形だった。終わった後も散々真っ赤になって逃げ隠れし、二回目のセックスもそれから一ヵ月半、期間を置いた。それほど、小原は手強いのだ。 「はい、どうぞ」 「お邪魔します……」  玄関ドアを開けて中に入り、靴を脱ぐ。家に呼ぶだけならもう何度もしているので、その仕草は慣れたものだ。というのも、千早の両親は共働きをしていて、ほとんど家にいない。母親は弁護士事務所を開いていて、父親はその秘書をやっている。二人とも俗にいう仕事好きであり──父親の方は極度の嫁好きもあって──、千早は小さいころから家で一人になることが多かった。その環境は千早が高校に上がっても変わらず、一人でいるのにも流石に飽きたため、何度も家に友人や恋人を呼んだ。ちなみに夏の勉強合宿も、両親が出張に出掛けている期間を見計らって行った。  そんな環境すらもうまく使いこなし、千早は小原に随分と濃いアプローチを仕掛けているのだが、一向になびいてくれない。いつも赤くなって屁理屈を捏ね、最後には逃げられる。 (いつになったら普通にイチャイチャできんのかな)  まだ少々荒い息でため息をごまかす。今のチャンスを逃してしまったのは悔しいが、切り替えていかなければ。 「何か飲み物持ってく。先に俺の部屋、行ってて」 「ああ、うん」  そう言って荷物を預け、小原を二階に上らせる。そして自分はキッチンへと赴いた。中学にあがった辺りから自分の使いやすいように整理されていったキッチンを、千早は気に入っている。今では両親よりも食料の在庫や収納場所に詳しいほどだ。冷蔵庫に立てている緑茶も、いつも通りの動作で取り出し、洒落たガラスのコップ二つを棚から取り出した。そのまま盆に乗せるでもなく両手に持って階段を上がると、部屋のドアが開いている。 (あれ……)  そのままドアをくぐると、すっかりいつも通りに戻った小原が小さく微笑みかけてきた。 「ドア、開けっ放しだよ?」 「うん。千早、いつも両手に持って入ってくるから」  そのままじゃドア開けられないし、と小原は言う。さらりと、なんでもないことのように。 (いや、実際なんでもないことだけど)  それでも、千早の胸は高鳴る。どれだけ小さな優しさでも、小原から向けられるものなら嬉しくて仕方ないのだ。今では何の理由もなく向けられる、小原のあの穏やかな微笑みが、優しさが、もう千早にはなくてはならないものになっている。そうしてどんどん、好きな気持ちが大きくなる。 「……ありがと」 「いいえ」  不機嫌そうに小さく呟いた御礼に不快を訴えもせず、あまつさえドアをしめてくれる。 (俺のこと、少しでも考えてくれてるんだって分かるから、嬉しい)  そして、自分のために何か小さなことでもしてあげようと思ってくれることが嬉しい。それくらいには好意を持っているのだと分かるから、安心するのだ。 (すげえ逃げ回るくせにさ)  こういうところは、どうしようもなくツボをついてくる男だ。 「……千早?」 「あ、いや……ほら、勉強しようぜ! 今日は、数学聞きたいんだ」 「ああ……うん」  すっかり小原の微笑みに見惚れてしまっていた。何でもない様子で机の上にお茶を置いたつもりだが、何か不審に思われてはいないだろうか。そのときの千早は、いきなり上がった心拍数を隣に腰かけた男に悟られないようにすることで、精一杯だった。

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