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第6話
小原との勉強会は何もなく過ぎた。もちろん少しだけ迫ってみたけれども、小原は激しく逃げ回ってくれて、恋人同士のラブラブ勉強デート、なんてことは全くできなかった。
そうして数日が過ぎ去った。いつも通り、小原は誰にでも優しいし、でも千早だけに微笑みかけてくれる。千早は隙を見ては小原に迫るけれど、結局は逃げられてしまう。
(なんかもう、一生このままなんじゃ……)
一抹の不安を抱えて、はあと大きく息をつく。それを見た林は手にしたバスケットボールを松野に預けて、千早の隣に腰かけた。
「どうしたよ、千早。バスケ、お気に召さない?」
体育のバスケットボール。中学まで林と松野とともに入部していたバスケットボール部から比べれば、レベルが低いのは確かだ。しかし、今千早の気持ちを降下させているのはそのことではない。
(くそう……優吾の所為だよ。でもそんなこと言えねえよ)
学校の中で小原と千早の接点は、ほぼないと言って良い。しかも、クラスの中で結構目立っ
ている千早とは真逆で、小原はかなり影が薄い。そんな状態で小原とのことを相談できるわけもなく、やはりこの場はごまかすしかない。
「いや、四限目だし、腹減ったなあと思ってさ」
「そうだなー。昼飯どうする?」
「んん、持ってきてねえ」
苦笑しつつ答えると、じゃあ購買行くか、と返ってくる。そのまま購買のパンの話にもつれ込んだ林と松野を放っておいて、千早はぼんやりと反対側に腰かけている小原に視線を移した。猫背になりながら、バスケットボールのゲームをぼんやりと眺めている。いつもそうだ。小原と千早の目線は噛み合わない。千早が小原を見ていれば、──わざとかどうかは別として──小原は他のところに視線を送っている。そんな状況が、千早の不安を駆りたてた。まるで、自分だけが小原のことを好きでいるみたいだからだ。
(ぶっちゃけ、まだ好きだとか言ってもらえてない)
オレンジ色の教室で告白した時も、小原はうん、としか言わなかった。その後も強引にキスやら体やらを奪ってきたが、好きだという言葉は一度も貰っていない。
(え……もしかして)
無意識に視線が床に落ちた。何か大事な事実にぶちあたったかもしれない、と思った瞬間、林が隣で叫んだ。
「おわ、小原かよー」
「えっ?」
ちょうど小原のことを考えていたため、心臓が嫌な感じで跳ねた。慌てて意識をコートの中へ向けると、本来入らないチームの中に小原の姿があった。
「な、なんで」
「いや、田辺がさあ、今日休みだろ。身長同じやつじゃないとだめらしいから、小原が急遽入ったっぽい」
バスケットボールを指先でくるくる回しながら、松野が呟く。田辺はバスケットボール部の次期主将とも言われる男で、体育のチームではいつもゲームをリードしていた。身長が同じだとは言え、いつもだるそうにコートの中で立っているだけの小原が代わりなんてできるのだろうか。
「今田辺のチーム連戦連勝だったのになー。初負けじゃん、かっわいそ」
林がいたずらっ子のように笑う。千早もそこまでは言わないが、かなり不安を抱えていた。
(これで初負けしちゃったら、優吾、袋叩きにされるだろ……)
小原は着やせするタイプで、見た目よりは筋肉がついている。それでも、チーム全員の恨みを買ってしまっては、対処の使用がない。小原の体を思い出して赤くなったり、不安になって青くなったりしながら、千早はコートの中を必死で見つめた。
「始めるぞー」
体育委員の声がして、小原が中心に出される。ジャンプボールは小原が請け負うらしい。
心拍数の早くなる心臓の上を右手で押さえて成り行きを見守っていると、体育委員が試合開始の笛を吹いた。その瞬間。
「うっわ」
声を上げたのは隣にいた林。千早と松野は絶句したまま、唖然とするしかなかった。
笛が鳴った瞬間、高く跳び上がった小原の手はボールを掴み、仲間に正確なパスを送った。そして着地した次の瞬間には、ゴールに向かって素早く駆け出したのだ。
ボールを受け取ってゴールを目指そうとした生徒は、相手のチームにすぐさま囲まれ、動けなくなる。そのすぐ横をするり、と猫のように抜けた小原が、小さく手を上げてボールを受け取った。
そこからはすごいスピードだった。ぐんぐんと相手のメンバーを追い抜いて、ゴールを目指す。相手の生徒が目の前に立ちはだかれば、体を翻しながら交わす。そして、最後に高く跳び上がった。
(綺麗だ)
ジャンプしながら片手でボールを打った小原が着地するのと同時に、ゴールネットの揺れる音がした。
「すっげー!!」
「小原、意外とやるな」
林と松野が声を上げる。体育館に男子生徒の声が響いて、耳鳴りしそうなくらいだった。
コートの中ではゲームが続いていて、小原は次々とシュートを決める。そのたびに男子も女子もうるさいくらいの歓声を上げる。スピードに乗った小原は、もう誰にも止めることができなかった。
笛の音が鳴って、ゲーム終了が宣言される。小原はすぐさまチームの仲間にもみくちゃにされていた。
(すっご……)
心臓がさっきの比ではなくバクバクと脈打っている。しかも、なんだか胸の辺りが温かい。そして、腹の奥の方から興奮とも優越感ともつかない何かが湧きあがってくるようだった。
(やばい……またときめいた)
こんなにかっこいいところを見せつけられて、好きにならないわけがない。いつも遠慮がちに体育館の隅で壁に寄りかかっている小原とは、まるで別人だ。
体育館の中はまだざわざわと騒がしくて、全く収集がつかない。教師の声も届かないほどだ。小原は相変わらずチームメンバーから質問攻めにされている。あれは完全に照れている、と千早は感づいた。小原は照れると、癖で大きな手を首の後ろにやって、襟足の長い髪をいじりだすからすぐ分かる。そのうち、数人の女子もメンバーの中に入ってきて新たに質問を投げかけ始めた。小原はほんのりと頬を染めていて、熱いのか顔を手で仰いでいる。
(……なんだよ、あれ)
先ほどまで暖かく拍動していた心臓が、急に締め付けられる感じがした。小原から目が離せず、胸にもやもやしたものが溜まっていくようだ。
(知ってる。これ、嫉妬だ)
今まで愛おしく感じていた小原に対して、掌を返したようにイライラとした気持ちしか募らない。女子に囲まれて頬を染める小原が、嫌で嫌で仕方ない。できれば離れてほしい。千早に笑顔を向けてほしい。
「わっ」
負の感情が頭の中をぐるぐると回りだしたとき、体育館の中に授業終わりのチャイムが響き渡った。
「じゃあ、今日はこれで終了! 五限目の授業もあるから、ボールだけ片づけて解散!」
教師が叫んで、生徒が動き出す。いつの間にか眉間に寄っていた皺をぐりぐりと揉んで、千早は立ち上がった。
「一回教室戻るだろ?」
「おう」
林が肩を組んで問いかける。ため息と一緒に返答を返すと、一気に疲労した体から余分な力が抜ける気がした。もやもやがすべて抜けたわけではないが、ずっと嫉妬で思い悩むのも格好が悪い。こんなところを小原に見られたくないというのが本音だった。
千早の目の前、数メートル先では、小原が数人の生徒に囲まれて話をしながら歩いている。その距離感に、やはり一人で思い悩むべきではないなと考え直した。
(学校の中じゃ、俺たちは遠いカンケイ、なんだよな)
自分たちは男子高校生で、恋人同士だ。そんなのは、学校内でも世間一般でもおかしいことなのだ。ずっと、誰かにばれても構わないと千早は思っていた。しかし、小原が他の生徒に囲まれて楽しそうに話しているところを見て、やはりそれはだめだと思ったのだ。小原は決して他人と関わることが嫌いというわけではない。あまり他人と交わることがなかったから苦手なだけで、本当は人間が好きなのだ。だから、やっとクラスメイトと会話できる機会を掴んだ小原の邪魔を千原がしてはいけないのだ。
(あー……またぐるぐる考えちまった)
林と松野に気づかれないよう、小さくかぶりを振る。一度息をついて心を落ち着けた。
「昼飯、何にするかな」
「おれ、焼きそばパーン」
林が右手を勢いよく上げて高らかに叫ぶ。松野が後ろから林を小突きながら笑った。
「もうねえだろ。売り切れてるっつの」
「えー、まだ大丈夫だよ!」
肩から腕を外して、林が松野に反論する。千早は、それを見て仕方がないというように微笑んだ。
こうやって、どうでも良いような話をしていると、先ほどまでぐるぐると悩んでいたことすらもどうでも良いように思えてきた。
「んじゃ、俺はコロッケパンにしよっかな」
林の脇腹をつつきながら言うと、林がまた肩に腕を回し、今度はぐっと力を込める。
「ずるいぞ、千早!」
「いたたたっ、痛えって」
一口食わせろとからかう林の腕が顎の骨に当たっている。そのまま軽く揺さぶられて、思わず林の足を強く踏んだ。
「痛え!」
「お前のが痛いっつうの!」
踏まれた足を両手で抱えて、ぴょんぴょんと飛び跳ねる林を見て、松野と千早は声を上げて笑った。そうしていると、少しずつ気分が浮上していく気がした。そのまま左足を庇いながら歩く林を尻目に、階段を下ろうとしたとき。
「大丈夫か、小原!」
「奥田も大丈夫か!」
小原の名前を聞いて、思わず階段の下に目をやると、踊り場でクラスメイトの奥田を庇う小原の姿を見つけた。
(え、なに……)
踊り場で下敷きになった小原に、奥田がしがみついている。小原は衝撃で飛んだのであろう眼鏡を掛けなおしながら、起き上がろうとしている。しかし、左手を傷つけたのか、手をついた瞬間に顔を歪めた。
「なにー?」
「どうしたの。あれ、さっきの小原くんじゃない?」
体育館から引き揚げてきた生徒が、次々に押しかけてくる。女子のよく通る声が、耳に入ってきて、千早はやっと固まっていた思考が動き出すのを感じた。
「なんかさ、奥田さんが階段下りてた時に、男子にぶつかられて落ちそうになったみたいで。小原くんが庇って下敷きになったっぽい」
なんとなく状況が呑み込めて、改めて階段下を覗き込むと、小原が痛さに顔を歪めながら必死に微笑んでいた。
(笑って……る?)
今まで、学校の誰にも見せなかったあの優しい顔で、笑っている。そして、謝りながら泣き出す奥田の頭を、大きな手で優しく撫でた。鈍器で頭をがんと殴られたような衝撃があった。なんとか立っていられたのは、偏にこの状況で倒れるのはまずい、という理性のおかげだった。
「ありゃあ……小原の手、やばくね?」
「骨折してないといいけどな」
林と松野が冷静に話している。千早も同じく小原の手に視線を移すと、先ほど奥田を撫でた手とは反対の手首が、赤く腫れているのを見つけた。
だんだんと騒ぎが大きくなり、授業を終えて駆け付けた教師がその場を収める。林と松野も、保健室に移動した小原と奥田を心配しつつ、それでも教室に戻ろうと階段を静かに降りて行った。
(優吾……)
赤く腫れあがった手首。泣き出す奥田。頭を撫でた大きな手。自分以外には見せることのなかったあの微笑み。
頭の中を今見た映像が繰り返し流れる。何もしていないのに、胸がずきずきと痛んで、千早は体育着の上から小さく左胸を叩いた。そして、ぼうっとしたまま、足取りだけはしっかりと階段を下りた。
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