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第10話
翌日。ショートホームルーム開始ギリギリの教室に入るや否や、千早は絶句した。
(なに、それ)
窓際、前から三つ目に座る小原とその机の脇に立つ奥田が、会話をしていた。小原の笑顔は昨日より自然なものになっていて、緊張している様子はほとんどなかった。左手を庇いながら教科書を整理する小原を心配そうに眺める奥田は、その頬を心なしか赤く染めていた。
やけに大きくチャイムが響いて、千早は慌てて教室に入り、席に着く。隣と前の席に座る林と松野が挨拶をしてきて、千早はほぼ反射的に小さな挨拶を返した。
(落ち着けって、俺。どうせ『昨日は遅くまでごめんね』とか、そんな程度だろ。焦るなよ)
必死で自分自身を言い含めるが、変な動悸はおさまってくれない。何度か深呼吸を繰り返してやっと自身を落ち着けると、担任が静かにドアを開けて教室に入ってきた。
(だめだ、気にしたら)
必死で小原と奥田から意識を離す。小さくかぶりを振って考えないようにすることだけが、千早にできる最善の選択だった。
──しかし、そんなことをしていても事実は何も変わりはしなかった。
「小原くん、そのノート、持とうか?」
二限目、化学室への教室移動の際、奥田が小原に声を掛けた。不自然でないよう、視線だけで二人の方を確かめると、小原の机に高く積み上げられた数学のノートが見えた。
「いや、悪いし……」
「でも、全部は無理でしょ? ……怪我は私の所為でもあるし、手伝わせて」
苦く微笑みながら言う奥田の好意を押しのけるわけにもいかず、小原は少し迷ったあと、じゃあ持てない分だけ、と返した。そして、空いた右手にノートと科学の教科書を持ち、その他のノートを奥田に預けた。
「ごめんね」
「ううん、こっちこそ。左手、痛まない?」
「うん。奥田さんが、ノート、持ってくれてるから」
そう言って、小原はまた微笑む。数日前まで、千早にしか見せなかった顔で、だ。急に胸がぐっと苦しくなって、視線をそらす。そして無意識に眉間に皺を寄せて、腿の上でぎゅっと拳を握った。
(何、その、明らかに良い雰囲気)
誰がどう見ても奥田が小原を思っているのがバレバレだ。しかし、千早が気にしているのはそこではない。
(なんで優吾が、そこまで壁崩してるわけ!)
微笑んで、優しい言葉をかけている。ただでさえ緊張感の消えた声で。千早が小原と付き合い始めた頃だって、あんな風に自然に笑って会話できるようになるまで、何ヵ月かかったか分からない。それなのに、奥田とはたった二日でここまで親しげな関係になっている。
(……おかしいだろ)
たとえ、小原があの日の体育でクラスメイトと距離を近づけたと言っても。たとえ、予想外の事故があって、その結果奥田が小原に怪我をさせてしまったとしても。千早が知る限り、小原はそう簡単に心の壁を崩してくれるような人物ではない。
「千早? 教室移動だぞ」
「えっ、あ……ごめん、今行く」
松野がトントン、と机の端を叩きながら声を掛けてくる。千早は慌てて教科書を引っ張り出しながら答えた。
(……だめだ)
どんなに意識を外へ追いやっても、小原と奥田のことを考えてしまう。
(今は、ただのクラスメイトだろ)
小原と千早は、ぱっとしない優等生と少し頭の悪い元気な生徒だ。何の共通点もない。千早は自分にそう言い聞かせて、ふっと息をつき、席を立った。そして、教室のドアの前、心配そうにこちらを見つめる林と松野に、今できる精一杯の笑顔を向けた。
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