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第13話

屋上の重いドアを開けると、入り口からは少し離れた鉄製の柵に、小原が身を預けていた。千早がゆっくりと戸を開けて入ると、冷たい風が一度強く吹いて、風邪をひいた体には結構堪えた。戸を閉めると、すぐに昼休み終了のチャイムが鳴り、束の間の休息の終わりを告げる。そのチャイムを聞いた瞬間、自身の足の爪先をぼうっと眺めていた小原が、ドアの方に視線を向けた。 「……よう」 「千早……」  小原がぎくりと強張った顔を見せたので、千早は少しいらっとして不機嫌丸出しの呼びかけをした。小原はばつが悪そうに視線を泳がせて、もう一度自身の爪先に視線を落とした。  黙って小原の方へと歩を進める。小原はその間、ずっと視線を床に縫い付けたままだった。小原の隣で立ち止まり、同じように柵に寄りかかる。何を話せば良いのか、どう切り出せば良いのかがまるで分からなくて、黙ったまま、千早はよく晴れた青空を眺めていた。  しばらくすると、五限目始まりのチャイムが鳴った。その音で我に返ったのか、小原はぱっと顔を上げて呟く。 「五限……始まっちゃった」  真面目な優等生は、些細なサボタージュにまで敏感らしい。罪悪感を滲ませた小原の顔を眺めながら、千早はふう、とため息をついた。 「いいよ別に。一回くらい授業サボったって」  ふて腐れたように言うと、小原は何か思うところがあったのか、ぐっと押し黙ってしまった。  青い空を雲が流れていく。空はこんなに澄んでいて綺麗なのに、どうして今自分の心はもやもやしたままなのだろうか。そんなことを考えていると、いつの間にか無防備になってしまった唇から、言葉がするりと流れ出た。 「奥田、お前のこと好きなんだってな」  何の感情も込められていない、平坦な声だった。千早は空を眺め、突き動かされる衝動のまま、言葉を発していた。  その声を聞いた小原は、ぎょっとしたような顔をして、千早を見た。そして、少し頬を赤く染め、うんと言うように頷いた。 「……びっくりした。奥田さんがああ言うとは、思わなくて」  聞いた瞬間、怒りに煮えた頭が、目の前を赤く染める。ぐっと胸のあたりが苦しくなって、千早は思わず俯いた。今まで、奥田は誰がどう見ても明らかに小原へアプローチしていた。先ほどの教室での告白は皆いきなりのことに面食らっていただけで、ほとんどの者が奥田の気持ちには気づいていただろう。知らなかったのはものすごく鈍い林くらいだと思う。  頬を赤く染めて、ああ言うとは思わなかった、などと言える小原こそが、信じられなかった。  仮にも恋人の前で、告白されたことをはにかみながら語るなど、当て付けだとしか思えなかった。  もし、恋人の前でそんな態度が取れる者が居たとしたら、それはきっと。 (優吾は俺のことが好きじゃない)  恋人とは思っていない。きっとそうだ、と千早はほぼ確信的に思っていた。だから、小原は今まで一度も千早に好きだと言わなかったのだ。そう考えればものすごく辻褄が合う気がした。  冷たい風がまた強く吹いた。今度は堪えきれず、一度ぶるりと震えて洟を啜った。隣に小原が居るのに、手を伸ばせばすぐ抱きしめられるのに、そうできないことが酷く悲しかった。こんなに近いのに、小原がすごく遠いところにいるように感じた。  自分がどれだけ小原を好きか、思い知った。同時に、切ないくらいのこの恋情を、小原はこれっぽっちも理解していないとも。  好きだと言ったはずだった。キスも、セックスも、何もかも互いに思いあってしてきたと思っていた。しかし、現実は違った。結局は、全て千早の妄想にしかすぎなかったのだ。男を好きになることはいけないことだと、心に刻みつけられただけだったのだ。 「……付き合ったら良いんじゃない?」  思ったよりも明るい声が出た。頭は異常なほどすっきりしていて、胸の中は驚くほど乾いている。でも、目の奥がじっとりと湿って重たくて、千早は一度強く目を瞑った。そうして、頭の中で何かがぷつりと音を立ててちぎれた。その瞬間、口が勝手に言葉を紡ぎだしていた。 「奥田、すげえ良いやつだしさ、可愛いと思うし。結構真面目だし、そんなとこも優吾と合ってると思うよ、俺は。お前の怪我のことも心配してくれて、通院まで付き合ってくれて、すげえ健気って言うかさ。お前、女子と付き合うの初めてなんだろ? だったら、絶対ああいうタイプの子が良いって」  な、と念を押して、柵から離れた。小原が千早をじっと見ているのは分かるけれど、振り向く勇気がない。今振り向いたら、平静を保っていられない気がした。 「……なに、千早」  震えるような声で、小原が口走る。寒気がして、体の芯から震えた。少しでも震えを隠すために右手で左手をぎゅっと強く握った。 「どうして、そんなこと、言うの?」  背後で小さく小原が呟く。その声を聞いて、少しだけ安堵する千早がいた。 (ああ……付き合ってる責任感は、あったのか)  やはり、小原は優しい。好きだとは言えなくても、千早のことを思いやって、この半年間、一緒に居てくれたのかもしれない。でも、結局その優しさは千早だけのものではなかったのだ。誰にでも平等に注がれるもので、もちろん、本当に好きな者にこそ最も注がれるべきものだ。  強張る頬に力を入れて、必死に笑みを作る。声はまだ震えていない。それだけが救いだった。 「どうしてって……、そんなの、分かってるだろ。お前、奥田のこと……好きじゃんか」  途切れ途切れになりながら、それでも明るく声を出す。笑みをかたどろうとしていた唇が歪んで、ああだめだ、と思った。  唯一、小原が褒めてくれた笑顔だけは、ずっと守っていたかったのに。 「好き、って……え? 何、それ。おれは……おれは、千早が」 「もういいって!」  震える声も、体も、熱くなる目も、何も堪えきれなかった。ただ、嘘だけは聞きたくなくて、必死で小原の言葉を遮った。 「もういいよ! 側で見てたから分かるよ……お前、奥田のこと好きじゃんかっ! 告白受けて真っ赤になって、混乱して何言っていいか分からなくなるくらい……屋上に逃げてくるくらい、本当に奥田のこと好きなんだろ!」  純粋に、真摯に、奥田のことが好きなんだろう。 小原が掴んだその綺麗な恋心は絶対に無くしてはならないものだと思った。  そのためなら、千早の恋ぐらい、捨てても構わないものだと思った。 「千早、違うよ、ちがっ……!」 「じゃあ、何で!」  こんな風に叫んだら、サボっているとばれてしまうかもしれない。でも、そんなこと今はどうでも良いと思った。それでも良いから、これだけは最後に、小原に聞きたかった。 「なんで……好きって言ってくれなかったの」  頬が熱い。その上を一筋、雫が零れていった。その跡が風に吹かれて冷たくなっていく。背中を悪寒が走って、千早は握りしめた両手の力を強くした。  ゆっくり振り返ると、小原が愕然とした表情をしていた。虚を突かれたように、押し黙っている。くっきりと綺麗な二重の瞳が大きく見張られていて、千早は状況を忘れて一瞬見惚れた。  風が止んで、小原が何か言おうと唇を動かす。しかし、声は出なかった。  だから、小原が言葉を何か言葉を紡がないように、自分が傷つかないように、千早は話し続けた。 「なんで、キスすると怖がんの? なんで、手繋ぐの嫌がんの? ……結局は、俺のことただの友達だとしか思えなかったってことだろ」  千早は小原と普通の恋人同士がするようなことを、してみたかった。そんな風に、小原のことが好きだったのだ。  しかし、小原はそうではなかったということだろう。 「俺は好きだったよ、優吾のこと。でも、優吾が女の子のこと……奥田のこと好きなら、その気持ち捨てちゃだめだと思う」 「そ、れ」 「男と恋人になるより、女と付き合った方が、絶対優吾は幸せになる」  男が男を好きになって、体を重ね合わせたって、生まれるものは何もない。生産性のない恋は、ただ消費するばかりで疲労だけが溜まる。本当に、不毛な恋愛だ。  小原は柵の前に立ちすくんだまま、こちらを見ている。体の震えが一層激しくなって、もうここにいるのは無理だと思った。  ただ最後だけは、小原が唯一気に入ってくれた笑顔で別れたかった。どうでも良いようなことかもしれないが、小原が最後まで嫌がっていたことを、謝りたかった。 「童貞、奪ってごめんな。あの時も、ずっと嫌がってたし。俺、無理やりしちゃったからさ。気持ち、悪かったと思うけど……まあ、練習できたとでも思ってよ」  にっと笑う瞬間、胸が引き裂かれたかのように痛んだ。小原はぐっと何かを堪えるように唇を歪めたけれど、千早はそれを最後まで見ることができなかった。泣き顔に歪んだ顔を隠すために、踵を返したからだ。 「千早っ!」  名前を呼ばれても振り返れなかった。そのまま屋上の出口へ走って扉を開け、一気に階段を一階まで駆け下りた。そのまま、なるべく足音が立たないように昇降口まで向かい、下駄箱に寄りかかって、息を整える。その間も、両目から溢れる涙は止まらなかった。  冷たい空気が火照っていた体を冷やす。寒気と震えが止まらなかったが、足が床に縫い付けられたように動かない。  声を堪えて泣いたまま、五限目終了のチャイムが鳴るまで、千早はそこに立ちすくんだままでいた。

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