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第14話

五限目が終わると、千早はすぐ教室に向かった。目は充血していたが、幸い、腫れてはいなかった。林や松野には心配されたが、風邪が酷くなったと言ったら納得してくれた。教室には小原の姿はなく、奥田が心配そうな顔をして小原の席を見つめていた。そんな奥田を見たくなくて──もちろん、いずれ教室に帰ってくるであろう小原とも会いたくなくて──、千早は学校を早退した。  そのまま、まず向かったのは学校近くのコンビニ。そこで暖かい飲み物でも買って、芯から冷えきった体を温めようと思った。ガンガンと音を立てて痛む頭の所為で食欲はなかったので、千早はミルクティーだけ購入してコンビニを出た。  そうして、コンビニから歩いて五分ほどの場所にある公園に入り、木の陰に隠れるようにして設置されたブランコに腰かけた。  この公園は住宅地の真ん中に設立されている。近くに小学校もないので、近隣住民はほとんどがお年寄りだ。当然、そんな場所に位置する公園に高校生など来るわけもなく、子供も少ないので、大抵は人がいない。掃除だけは近隣住民が行うらしく、割と綺麗だ。  ブランコはもちろん空席だった。木の陰にあるので、風もある程度防げる。コンビニで買った暖かいミルクティーを一口含み、静かに飲み下すと、じんわりと体の中から温かさが広がる気がした。  時計を見ると、学校を早退してから四十分ほど経過している。そろそろ学校が終わるころだろう。  真っ先に浮かんだのは小原の顔。千早がいきなり切れて、あの後、どうしただろう。小原がくれた優しさを、突き放すという最悪の形で返してしまった。ずっとずっと、優しくしてくれていたのに、我が儘も全部聞いてくれていたのに、最後にはあんなに辛そうな顔をさせてしまった。きっと傷つけただろう。 (でもそれで、小原が俺と別れて、奥田と幸せになれるなら)  それで良い、と思った。誰よりも優しい小原が、愛おしい小原が、幸せになってくれるならそれで良いと。  必死で自身にそう言い聞かせるのに、だんだん重くなる瞼を抑えきれない。熱く潤む瞳を隠し切れない。  ペットボトルを握って暖かくなった掌を頬に添える。冷えたままだった頬は、だんだんと掌の温度と中和されていく。それでも堪えきれなくなって涙を零してしまうと、もう止まらなかった。  ずず、と情けなく洟を啜って、引き攣ったような呼吸を繰り返す。先ほど散々泣いたというのに、全く止まる気配がない。むしろ、先ほどよりぼろぼろと流れてくる。千早はセーターの袖で顔を拭って、また洟を啜った。  しばらく暖かいペットボトルを握りしめていると、不意に遠くから人の声がした。 (や、やば)  泣いているところを見られたら、ただでさえブランコに一人座っている男子高校生なんておかしいのに、変な目で見られてしまう。千早は嗚咽をぐっとこらえて頬を流れる涙を拭った。ブランコは幸い木の陰にあるので、公園に入ってくる人からは見えない位置にある。千早は必死で息を殺した。  すると、遠くから二人分の走るような足音が聞こえ、ざりざりと一度乱れたかと思うと、その場で止まった。 「ちょっと待てって!」 「な、何で追っかけてくんの! 離してよっ」  声からして、どちらも男だ。しかも、話からすると、片方の男はもう片方に捉えられているらしい。何かまずい事件でも起きているのかと思い、千早は今まで泣いていたことも忘れ、ポケットに入れた携帯をぎゅっと握りしめた。 (なんかあったら、携帯で電話か写メ……)  恐る恐るブランコから立ち上がり、音が鳴らないよう、静かに木の陰まで進む。木と木の間から覗くと、二人の男が見えた。手首を掴まれている方はジーンズにTシャツとカーディガン。捉えている方はブレザーにスラックス、明らかに学生だった。  しかも。 (ん……? 待てよ、あれって……松野⁉)  驚いて声を上げそうになり、慌てて口を両手で押さえる。驚きに目を見張りつつも、そのまま成り行きを見守ると、松野が自分より小柄で細身なその男性に、必死で言葉をかけている。 「別にさっきのは違う! そういう意味で言ったんじゃない、本当に!」 「今更弁解しなくても……っ、知ってることだし、気にしてないってば!」  語尾を荒げて、男はやっとのことで松野の手を振り払った。全力疾走してきたのか、二人とも肩で息をしている。乱れた髪を両手で撫でつけながら、男が荒れた息遣いで言葉を続ける。 「最初に言ったでしょう、晴也が誰を好きでも構わない、何もいらないって。僕だってマスターが好きだし、晴也だって林くんが好きでしょう」 「だから違うって! ユキはいつもそればっかりだ。俺の話なんて聞きやしない」 「聞いてないのはそっちでしょう! 本命は誰だって良い、ただお互いの傷舐めあおうって、それに頷いたのは晴也だよ?」  松野はぐっと押し黙った。そして、何か悔やむように顔を歪めて拳を握った。  一方、千早は耳を疑っていた。ユキ、と呼ばれたその男が言った言葉が、信じがたかった。 ──晴也だって林くんが好きでしょう。 (嘘……? だって、そんな、全然知らなかった)  中学に入ってから、林と松野とはずっと一緒だった。高校も同じところに進学すると聞いた時には、ものすごく嬉しくて、それくらい仲の良い親友だった。一度もぎくしゃくなんてしたことがなかった。 (……いや、一度だけ、ある)  中学二年の夏、松野が母親の実家に行くからと、この町を一ヵ月近く離れた。後にも先にも、そんなに長く連絡を取らなかったのはそのときが初めてで、確か林も少し元気がなかった気がする。 (もしかして、あの時に……?)  記憶をさかのぼっていると、松野に向かって男がまた喋りだした。 「今まで通りセフレでいれば、何も問題ないでしょう。辛くなったらセックスして、どちらかの恋が叶ったら、それでおしまいで……っ」 「じゃあ、何で今逃げたんだよ!」  松野が振り絞るように叫ぶ。男はびくりと肩を震わせ、二、三歩後ずさりした。千早もその声に驚き、持っていたペットボトルを取り落しそうになる。慌てて握りなおすと、どうにか音を立てずにすんだ。 (あ、危ない……)  男が黙ったのを良いことに、松野はまた畳み掛けるように喋りだす。 「さっきの、聞いてたんだろ。林のこと好きだって分かってるなら、別に知らん顔してすれ違えば良かっただろ。何で逃げたんだよっ」  言いながら、松野はだんだんと男に近づいていく。男は身長差と縮まった距離の所為で、松野からほぼ直角に見下ろされるような体制だ。松野の顔をじっと見つめて、今にも泣きそうな顔をしている。松野が男の肩をぐっと掴むと、男はさらに顔を歪めた。  その時。 (あ、やばい)  鼻がむずむずとして堪えきれない。この寒い中、じっと座って泣いていたからか、こんな時になってくしゃみが出そうだ。 「……っ、あの場所には、僕が……居ちゃいけないと、思ったから……」 「ユキ!」  松野から視線を逸らした男は、苦し紛れにそう呟くが、松野はそれを許さない。  いっそう緊張感が高まった、その時。 (やばい、やばい、やばい。もう、無理)  ひぐ、と息を止めた喉が鳴って、千早は目をぎゅっと瞑った。 「ユキ、お前──」 「……っくしょん!」  口を掌で押さえたけれど、結構な音でくしゃみが出てしまった。ぶる、と震えたあと、はっとして目の前の二人へと視線を戻す。  松野も、男も、千早をじっと見て固まっている。 「もしかして……千早?」 「……っ」  松野が呆然としたように呟くと、男ははっと息を呑んで松野の手から逃げ出した。 「おい、ユキ!」  松野が呼びかけても聞かない。男はすぐに公園を出てどこかへ去ってしまった。松野は追いかけようと数歩進んだが、千早と男の去った方を交互に見て、その場に止まった。  ばつが悪そうに下を向いたまま千早は木の陰から出て、松野に近寄る。ごめんと言うべきか、追いかけたほうが良いと言うべきか、千早は悩んだ。松野は今までに見たことがないほど疲れたような顔をしていて、肩を落としていた。 「……松野」  名前を呼ぶと、ため息をつきながら千早を見る。そして、諦めたように苦笑し、歩き出した。 「ベンチで良いか? ……ちゃんと説明する」  千早は切なそうな松野の背中を見ながら、黙ってついて行った。

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