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第16話
松野が話を聞いてくれた翌日、千早は学校を休んだ。理由は、風邪が悪化したからだ。
風邪気味のまま、長時間公園で過ごしていたということもあり、頭もふらふらするし、鼻もつまったままで、咳も出る。熱を測ったら三十八度だった。
両親ともに、今日は少し遅めの出勤だったため、学校へ欠席の連絡を入れて貰えたというわけだ。
そして、学校を休んだ理由はそれ以外にもある。小原と顔を合わせたくなかったのだ。
正確には、小原と奥田のツーショットを見るには、まだ心の整理がつかなかったのだ。
事実として、小原と奥田が付き合うであろうということは理解している。しかし、今の千早の心はその事実をどうしても拒んでしまう。こんなに小原のことが好きなのに、とそればかり考えてしまう。まるで、昨日聞いた松野の話のようだ。
今、千早がそれでも好きだと小原に告げてしまえば、優しい小原は混乱してしまうし、そんなことを小原の足枷にしたくはない。
もう終わった恋だと完全に心が理解するまで、小原と奥田を見たくなかったのだ。
いつか絶対に、この締め付けられるような胸の痛みが、淡い思い出になると信じるしかなかった。
そうして、千早は眠りについた。最近、悶々と考え込む日々が続いていたため、こんな風に何も考えず熟睡できたのは久しぶりだった。
ふと目を覚ますと、部屋の中が窓から差し込んだ光でいっぱいになっていた。ぼうっとしたまま携帯を開くと、時刻は昼の十二時二十分。時計を見た途端ぐう、と腹が鳴って、千早は苦笑しながら起き上った。
「んー……よく寝たあ」
ぐっと両手を挙げて伸びをすると、朝よりもだいぶ体が軽くなったように感じる。なんだか無性に喉が渇くと思えば、身に着けていたTシャツとスウェットは汗でびしょびしょに濡れていた。
(こんだけ汗かきゃ、すっきりもするよな)
Tシャツを脱いで、ベッドから降りる。頭も痛くはないし、若干鼻声だが喉の通りも朝よりは良くなっている。
自分の部屋から一階に降りた千早は、父親が作ったのであろう昼食の横にある体温計を取り、熱を測った。腋下に体温計を挟んだままキッチンへ向かい、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出す。キャップを開けて一気に飲み干すと、体に水分が染み渡っていくようだった。
「あー……生き返る」
ふう、と大きくため息をついて食卓へ戻ると、ちょうど体温計が音を立てて計測の終わりを告げた。
「……三十七度一分」
まあ、大体平熱に戻ったかと結論付け、汗でべとべととした体を洗うべく、浴室へ向かう。昼食は入浴を済ませたあとにしようと考え、千早はシャワーの蛇口をひねった。
一通り体を洗った後、腹の虫が再度不満の声を上げ、千早は早々に浴室から上がった。体調が悪くても、どんなに落ち込んでいる時でも、腹だけは空くのだ。
その事実がなんだか不思議で、千早は小さく笑った。
食卓へ戻ると、ラップで覆われた皿の中には千早の好きな父親特製オムレツがあり、その横に置いてあった紙には、冷蔵庫にサラダがあることが書かれていた。
千早の家の家事は、全て父親が担っている。母親が弁護士、父親が秘書という間柄か、それが千早家では普通だった。幼いころから食事を作ってくれていたのも父親で、その時よく作ってくれていたオムレツが、千早は大好きだったのだ。
普通のオムレツとは違い、中には肉や野菜など様々なものが詰め込まれている。具だくさんのオムレツは、今では千早も作ることができるが、父親の作るものには敵わない。
ちびちびとオムレツを食べながら、千早は異様なほど胸の中が空っぽですうすうするなと思っていた。今まで胸の中は何かでぎゅうぎゅうといっぱいになっていて、溢れ出しそうだった。だが、昨日から今朝にかけて流した涙と汗で、体だけじゃなく胸の中まで軽くなってしまったようだ。
大好きなオムレツを食べても、腹が満たされても、この空虚感は埋められない。食器を流しにおいて、そこで不意に気づいた。
(俺、失恋したんだ。……だから、こんな、何にもないんだ)
今まで胸の中を埋め尽くしていた小原への感情も、期待も、不安も、全部無くなってしまった。小原への未練だけが情けなくも、胸の中をころころと転がっているだけだ。大事なものが全部、どこかへ行ってしまった。あんなに大切に守ってきたものが、体の中から全部、奪われてしまった。
(こうやって、全部、忘れるのか……?)
そう考えたら、言いようのない恐怖が背筋を這い上がった。シンクに手をついて、ぶるり、と震える。そして、これから自分はどうなってしまうんだろう、と思った。
こんな不安定な空っぽの状態で、小原と奥田を見て、納得できるのか。答えは言わずもがな、ノーだ。
春から今まで、小原と一緒にいるだけで本当に楽しかった。バスで隣に座るだけで、短い会話をするだけで、笑顔が零れた。幸せでいっぱいだった。
胸の中に何もなくなってみて、初めて気づいた。千早はこんなに小原のことが好きだったと。
「……もう、終わったんだよ」
何もかも、全部。
自分に言い聞かせるように呟くと、枯れたはずの涙がまた頬を伝っていった。忘れようと思っていた痛みが、空っぽの心を刺激した。
「ふ、う」
嗚咽が漏れて、情けなくしゃくり上げる。失恋とはこんなに辛いものだったかと思えば、それくらい小原のことが好きだったのだとまた自覚させられる。
もう、あと二、三日はこの悲しみに酔っていよう。そう決め込んで、千早はまた疲れるまで泣こうとした、その時、玄関のチャイムがなった。
「っ……?」
驚いてびくりと身をすくめると、二度目のチャイムが鳴る。宅急便かと思い、涙を拭いながら立ち上がると、三度目のチャイムが鳴った。
「はーい!」
どうにか必死で涙をこらえて、玄関へ小走りに向かう。ドアを開ける前にぐいぐいと目元をこすって、どうにか平静を保とうとした。
「はいはい、どなたですかっ」
勢いよくドアを開けると、目の前には想像もしてなかった人物がいた。
「……ゆう、あ?」
「……」
眼鏡にかかった前髪をさらに際立たせるように、猫背のまま下を向いた小原が、そこにいた。
「……な、なんで」
驚愕で目を見張ったまま千早が問うと、小原が小さく咳払いした。
「千早、今日、学校休んだから……」
それだけ言って、上目づかいにこちらを見る。心拍数の上がった心臓の上を左手で抑えながら、千早は何も言えずに小さく苦笑いした。
「……おれの、所為かな、って」
痛いくらいに一度、心臓が跳ねた。口角が不自然なところで上がったまま、硬直する。図星を突かれて、動揺が隠しきれなかった。しばらく、うろうろと視線を彷徨わせる小原を見ていたが、胸の痛みがやっと治まってきたところで、千早は小さくため息をついた。そして、何でもないことのように笑って言った。
「いや、朝、ちょっと熱あってさ。もう、大丈夫だから」
暗に、もう心配しないで帰ってくれ、という意味だったが、どうやら小原には通じなかったらしい。
「……あの、上がっても、良い?」
内心、胸がぎゅうっと苦しくなりながらも、千早は了承と答えてしまっていた。
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