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第17話
取りあえず自室に通し、温かい緑茶を出す。心臓は今だに早鐘を打っている。必死で平静を装いながら向かい合って座ると、お茶を啜る小原も緊張しているのだと伝わってきた。
「……あのさ」
張りつめた空気に我慢できずに千早が口を開くと、小原がびくりとしたように視線を跳ね上げた。
「手首は、もう良いのか?」
何気ない問いを投げかける。すると、緊張が少しだけ解れたのか、また背を丸めて答えた。
「うん、大丈夫。もう、痛くない」
左手を胸まで上げてみせる。そこには、包帯もなく、綺麗な手首があった。それを見て、そっか、と呟き、また黙る。緊張感が完全に張りつめてしまう前に、もう一度、千早は口を開いた。
「風邪、治ったっつっても、移るかもしんないからさ」
早く帰れよ、とまでは言えなかった。わざわざ家にまで来てくれたのにそこまで明言できなかった。
しかし、そんな空気を読み取ったのか、否か、小原はマグカップを置いて焦ったように話し出した。
「昨日の、ことで、話があって」
今度は千早がびくりとする番だった。収まりかけていた心拍数が上がり、不安が頭の中を駆け巡る。
(……なんだろう。俺が酷いこと言ったから? それで、仕返しに来たとか? いや、そんな子供っぽいことするやつじゃないし。……まさか、最後通牒突きつけにきたとか。このまま……明言しないまま、別れるのが嫌だったのか?)
小原から自分を突き放す言葉を聞きたくない。これ以上、心臓が潰れそうになるくらい痛くなるのは、嫌だった。
だから、小原が口を開きかけたとき、千早も言葉を被せるように口を開いていた。
「お、おれ」
「昨日は、ごめんな」
小原は驚いてきょとん、とした顔になる。千早は今だ、と思って、視線を小原から逸らし、さらに早口で続けた。
「俺、酷いことばっか言ったよな。お前のこと責めるみたいに、さ。あんなん忘れてくれよ! 全部もう、忘れちゃって」
今まで一緒に居たことも、恋人だと言って散々連れまわしたことも、全部。全部、全部。
「無かったことにして、ちゃんと、クラスメイトに戻ろ」
わざと明るく言ってみせる。そうでもしないと、小原がまた、気負ってしまう。千早のことに責任を感じて、奥田と付き合えなくなってしまう。
小原の顔は見られない。でも、別れの言葉くらいは自分で切り出さないといけない。
「変に責任感じんのも、なしな! 優吾って呼び方もやめるし、ちゃんと、小原って呼ぶし。だから、もう、これで全部終わりな」
言い切って、最後にぐっと口角を上げる。ちゃんと自然に、笑えているだろうか。そうでなくても、今だけは見逃して欲しい。最後だけは、不恰好でも笑顔で別れたい。
(だめだ。胸、痛い)
もう、こらえきれそうにない。コップに残った緑茶を一気に飲み干す。そうすると、胸の痛みが少しだけ和らぐようだった。千早は潤みそうになった目元を必死で隠して、マグカップを片づけるふりで立ち上がった。
「んじゃ、そういうことで。小原も早く帰って──」
「おれの話は、まだ終わってない」
聞いたことがないくらい低い声。千早はびくりとして、思わず振り返った。
そして、小原の顔を見て驚愕した。
長い前髪の間から見える目には、確かに怒りが滲んでいた。そして、それだけでなく、悲しみや悔しさまでもが表れていた。
初めて見る表情だった。いつも優しく微笑んでいた小原とは別人かと思うくらい、憤っていた。
「お、小原」
「千早は、いつもそうだ。自分が本当に思ってること、いつも最後の最後で、飲み込む」
小原が立ち上がって、千早の方に向かって歩いてくる。思わず後ずさりをすると、背中がドアにぶつかった。
「おい、小原っ」
「おれの言うこと、何にも聞いてくれない。全部自分の中で、自分が我慢すれば良いって、そうやって納得しちゃって、弁解もさせてくれない」
ドアと小原に挟まれて、千早は最早逃げ場がなかった。マグカップを握りしめたまま、困惑して小原をじっと見つめていると、小原はドアに両手をついて、千早を囲い込んだ。
「聞いて、千早。おれ……おれはね」
ぶわ、と涙の膜が瞳を覆った。一瞬にしてそれは目の淵から転がり落ち、不安と恐怖が全身を包んだ。
これ以上痛みを与えられ続けたら、もう心臓が本当に潰れてしまう。
「嫌だ、聞きたくない!」
マグカップが床に転がる。咄嗟に、千早は両手で耳をふさいで叫んだ。
小原は唇を歪めて、かっとなったように千早の両手をドアに押し付けた。
「や……っ」
「聞けよ!」
びくり、と肩を上げると、小原は少し顔を赤らめたまま、続ける。
「……おれは、千早が好きだよ」
叫んだのとは裏腹に、とても優しい声だった。痛いくらいに掴まれている両手が熱くて、真摯に千早を見つめる目が、強い。
千早は目を見張ったまま、ぼろぼろと頬を零れていく涙を止められないでいた。
「奥田さんに告白されて、びっくりした。確かに、女子の中では話やすいなとは思ってたけど、でも、奥田さんに対して思ってることは、それだけ。告白されたときも、みんなの前で好きだなんて言われて、あんなの、初めてだったから恥ずかしくて……でも、それだけ。本当に、奥田さんに思ってたことは、これが、全部」
見つめる目がだんだんと優しさを帯びていく。大好きな甘くてなめらかな声も、千早をなだめるためだけに紡がれる。
心臓が、今度は温かい血液を全身に送り始めた。
「キ、キス、するとき怖がってるように、見えたのは、千早の顔が近くて、恥ずかしくて。それで緊張して、手つなぐのも、もし誰か見てたらどうしようって……。だって、男同志だし! 変な目で見られるかもと思って……千早の、家の、近くなのに。変な噂流れたりしたら、もう、一緒に居られなくなったりしたら、おれ、どうしようってそればっか、考えて」
真っ赤になって、いつものように頼りない声で、小原がぼそぼそと喋る。それでも、両手を握った手の力は一向に弱まらないから、それがなんだか嬉しかった。
「……手、放して」
「あ、ごめん! 痛かった?」
ぱっと一瞬にして両手を開放し、一層顔を赤くする。千早は涙で濡れた頬を拭って、小原に抱きついた。
「ち、千早っ」
「……俺、男だよ」
抱きついて、それでもまだ不安は拭えない。一つだけ、どうしても確認しておきたいことがあった。
「セックスしても、子供なんかできないよ。結婚も日本じゃできないし、何で一緒にいるんだって言われても、言い訳とか嘘とか、つかなきゃなんないよ。……それでもいいの?」
駄目なら、ここで早く突き放してほしい。抱きついた体を引きはがして、やっぱりやめるとでも言ってもらえたら、今ならまだ、小原を奥田に返すことができる。小刻みに震える手を必死でこらえて、ぎゅっと目を瞑ると、小原の大きな手が両肩を掴んだ。
(あ、どうしよう)
そう思ったのは一瞬で、予想とは裏腹に、両肩に掛けられた手はそのまま千早の背中に滑って、強く力が入る。
「全部、分かってるよ。でも、おれは、千早が好き。千早が笑っててくれるなら、何でもできるくらい、好き」
だから大丈夫だよと言われて、もう体の震えを抑えきれなかった。さっきまで空っぽで何にもなかった胸の中が、急に満たされていくようだった。
溢れ出した涙が止まらない。小原のシャツを汚してしまうかもしれないのに、抱きついたまま離れたくない。
「小原、幸せになれないよ。女の子の方が、絶対、良いんだからっ」
「おれ、十分幸せだよ。千早がいるだけで、もう何にもいらない。……あと、小原って呼び方やめて。優吾って、いつもみたいに、呼んで」
そう言って顔を上げさせられた。涙でぐしょぐしょになって、泣き顔に歪んだ顔は本当に情けないくらい酷いのに、小原はそんな千早の顔を愛おしげに見つめる。
「ゆうあー……」
泣きながら言うと、小原が千早の大好きな顔で微笑んだ。そのままびしょ濡れになった頬をセーターの袖で拭ってくれて、初めて、小原から優しいキスをくれた。
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