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第2話

        ***         ***  窓から吹き込む初夏の風が、真澄(ますみ)の色白な頬を撫でていく。  夢はいつもリアルだ。目が覚めた瞬間は、自分が雨に濡れていないことを不思議に思う。  真澄が立っているのは稽古場の廊下の突き当たり。自動販売機が並んだ一画だった。  昔は喫煙所として使われていたのだろう場所に、合皮の長椅子が申し訳程度に残されている。  そこへは座らず、窓辺に立った真澄は、夕暮れの空を眺めていた。  ふと、長いまつげを伏せた。猫っ毛のやわらかな髪に指先をもぐらせ、わしゃわしゃとかき混ぜる。  子どもの頃から、ときおり見てきた不思議な夢だ。現実とは違い、真澄は、ごつい身体つきにいかつい顔をした中年の男で、しかも『ヤクザ』だった。自分で、アウトローな極道者だと認識している。  夢の中にいるときは、すべてが疑いようもないほどリアルなのだが、目が覚めると途端に真実味が失われてしまう。夢の中で起こったことだから当然なのだが、それだけでは済まない部分もある。  雨の中、だれかを探して駆けずり回る『関岡達也』という男は『真澄自身』だ。たとえ話や比喩ではなく、真澄は現実的に達也の記憶を持っている。  自分の中に残った記憶が、テレビか映画の影響だと思っていた頃もある。しかし、年齢を重ねていくほどに確信は強まった。知識が記憶を呼び起こし、記憶によって知識を得ていることもあったからだ。  つまり、だれにも教えられていないことを、真澄は初めから知っていた。ヤクザだった達也の知識は大きく偏っていて、勉学の部分で役に立つことはなかったが、格闘技や世渡りの部分では本領を発揮した。狡猾であくどいヤクザのやり方だ。  真澄の中には、夢を見ていないときでも『もうひとつの記憶』がある。真澄は達也で、達也は真澄で、『達也の中の善人部分』だけで生きているのが真澄だとも言える。  あるいは、中年の男が、二十代の男のふりをしているのだ。 「高石(たかいし)くん、藤田(ふじた)P(ピー)がお呼びだよ!」   背中に声がかかり、ぼんやりしていた真澄は小さく飛びあがった。心臓がバクバクと音を立て、肌にしっとりと汗がにじむ。  「どうしたの?」  相手は、次回公演の若いスタッフだった。二十代半ばで、真澄とは同年代だ。  心配そうな表情を向けられ、真澄は汗ばんだ手をぐっと握り込んで答える。 「なんでもないです」  にこりと笑い、屈託のなさをアピールした。  十八歳で端役デビューをしてから八年。二十六歳になった真澄は、経歴のほとんどをゲームや漫画・小説の舞台化俳優として過ごしてきた。いわゆる2・5次元俳優だ。その業界では名が知れ、俳優名で追いかけてくれるファンもいる。  その甲斐あって、今回の舞台に大抜擢されたのだ。有名な演出家が手がける文芸大作ミュージカルのダブル主演で、ふたりいる主人公の片方が真澄の役だった。 「藤田さんはどちらに……」  真澄が尋ねると、スタッフはどこか驚いたように目を見開いた。 「あ、あぁ。台本の読み合わせをしたミーティングルームだよ。……高石くんって、本当にきれいな目をしてるよね」  見惚れた表情でしみじみと口にする相手を、真澄は軽快な声で笑い飛ばす。とっとっと駆け寄り、相手の肩へ、拳を軽くぶつけた。 「なに、恥ずかしいことを言ってんスか。ミーティングルームですよね?」 「あ、あの、ごめんね。セクハラじゃないからね」 「わかってます、って。褒められるの、大好きですから!」  じゃあ、と明るく言って、すれ違う。  真澄の持ち味は、一六八センチの華奢な身体を活かした軽快なアクションと、中性的で線の細い、あっさりとした顔立ちだ。  ふわふわと揺れる髪はアッシュブラウンで、北国生まれの肌は抜けるように白い。そして、鳶色の瞳と長いまつげが愁いを帯びている。  一方、骨格は男そのものだった。性格にもギャップがある。  見た目ほど繊細でないのはもちろんのこと、飄々としているように見られがちだが、出世欲は強い。『2・5次元の王子さま』と呼ばれているのも嬉しいが、先のことを考えれば、そろそろステップアップが必要だった。  テレビでも映画でもなく、舞台俳優として生き残りたい真澄にとって、今回の舞台は今後のキャリアを賭けた大一番だ。  下の階にあるミーティングルームのドアを叩くと、藤田の野太い声が聞こえた。そろりとドアを開き、中を覗き込む。  長方形に並べられた長机の向こうに、男がふたり立っていた。 「あ、お話し中でしたか」  真澄が身を引くと、藤田の豪快な笑い声に呼び止められた。 「平気、平気。三人で話したかったんだ」  手招きされて、真澄は素直に従う。  藤田武志(たけし)は演劇業界きっての敏腕プロデューサーだ。どこもかしこも大きな身体をしていて、特徴的なのは丸く張り出した腹だ。それをぽんと叩くのが癖だった。 「こっちにおいで」  太い指でちょいちょいと呼び寄せられ、小走りに近づいた。広い部屋だ。壁沿いをぐるっと回る。 「おつかれさまです」  もうひとりの男と目が合い、真澄はあごを突き出すように会釈をした。 「おつかれさま、高石くん」  返ってきた声は、男の真澄が聞いても震えがくるほど甘い。思わずポカンとしてしまい、藤田に笑われる。 「もう、そろそろ慣れような」 「……稽古中は平気なんですけど」  藤田に対して肩をすくめた真澄は、美声の持ち主に改めて視線を向けた。  ダブル主演のもうひとり。彼が、花島(はなしま)智紘(ちひろ)だ。  新進気鋭の正統派ミュージカル俳優で、飛び抜けた美声と端麗な容姿を持ち、カリスマ的人気を誇っている。真澄よりも二歳年下だが、子役デビューのキャリアは長い。年齢以上の風格を持っていて、巷では『王さま王子』と呼ばれている。つまり、キングでプリンス。それが花島だった。

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