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第5話
ぐっとあごを引き、目をすがめた。
「当たり前だ」
答えた真澄の声は低く地を這う。あえて睨むことはせず、胆力を込めて見つめた。
「それは脅しですよ、花島さん」
安田が割って入ってきたが、花島のひと睨みでぴたりと動きが止まる。真澄には向けたことのない視線だ。
「申し訳ないのですが、ぼくもこの舞台にはキャリアを賭けています。正統派から本格派へクラスチェンジする絶好の機会だ。真澄さん、あなたも同じじゃないですか?」
アルファという性別だけでは説明できない凄みを閃かせた花島の声は、いよいよ美しい。だから、真澄は内心で苛立った。ちょっとした瞬間の立ち居振る舞いに、ふたりの経歴の差が出る。
しかし、2次元のキャラを演じてきたキャリアに悔いはない。これからだって演じるだろう。だからこそ、今回の舞台をチャンスに変えたいのも本当だ。
自分が成功できたならば、あとに続く俳優仲間も出てくる。その思いがあるからこそ、軽んじられたくはなかった。
「同じだよ。ステップアップするつもりで、参加してる」
答えた真澄はきゅっとくちびるを引き結ぶ。花島も真剣な目をして言った。
「だったら、舞台が注目されるのはいいことだ。ぼくとあなたが、物語の核になる感情を育てることについても、問題があるとは思いません。通し稽古が始まるまでの一ヶ月だ」
花島はもう笑わなかった。碧を含んだ茶色の瞳にまっすぐに見つめられ、真澄の中で小さな炎が燃え始める。
ここで引いたら、この男の雰囲気に飲まれ、負けたことになってしまう。
「舞台を成功させるため、一緒に暮らしましょう。真澄さん」
アルファとベータなら、話題作りのために暮らしても問題はない。たった一ヶ月だ。
マスコミは面白おかしく取り上げるだろうが、そうしてもらえれば反対に、へたなスキャンダルに発展することがなくなり安心できる。
「ダ、ダメですよ。高石くん! 相手はアルファだ」
安田に腕を引っ張られた。花島から引き離され、耳打ちされる。
「こんなところで男気を出さないでください! 薬を飲んでいても、アルファと暮らしたらヒートの周期が乱れるかもしれない。本番にかぶりでもしたら!」
声をひそめた安田が、万全の状態で挑んで欲しいのだと熱弁を振るう。しかし、真澄の耳にはもう入ってこない。
花島には負けたくなかった。相手がアルファだからでも、真澄がオメガだからでもない。同じ舞台俳優として、役作りの勝負を挑まれ、受けて立たない理由が見つからないだけだ。
「ご心配なく」
花島の声が凜と響いた。
「そのあたりも含めて、ぼくがフォローさせていただきます」
慇懃なふりをした言葉に、安田の顔が歪む。
「誤解しないでください。うちの高石は『ベータ』だ。彼のキャリアに傷がつくような噂が流れたら……、あなたのバックになにがついていようが許しません」
「そんなことはしませんよ」
冷たく言い放ちながら安田を押しのけた花島は、真澄の目の前にすっくと立つ。
バランスの取れた長身だ。育ちのよさをにじませる雰囲気の中に、挑戦的な色気を匂わせる穏やかな顔つきの美形。
神様から二物も三物も与えられたような男だ。そんなふうに恵まれた存在のことが、真澄は生まれる前から好きではなかった。真澄の中の、もうひとつの記憶だ。
それもあって、真っ向勝負でカタをつけたいと思う。
「真澄さん。どうぞ、よろしくお願いします」
差し出された手を迷わず握り返す。戸惑えば、真澄のような凡才は存在を食われる。それは顔合わせのずっと以前から、花島の存在を知ったときから感じていたことだ。
俳優として成功するなら、遅かれ早かれ、花島智紘とは戦わなければならなかった。
***
***
雨の音がする。いつまでも、いつまでも聞こえていた。
濡れた衣服が肌に貼りつき、脇腹が熱い。暗がりを浮かびあがらせているのは、安物の懐中電灯だ。伸ばした片手が黒々とした水溜まりに触れる。
闇の中に、モカシンシューズを履いた足が見え、乱れた息を繰り返す達也は視線をあげていく。濡れたボトムに重なって、なにかが光を閃かせる。
懐中電灯の明かりが反射したのだ。
先端からしたたり落ちた雫は、雨のそれではない。
血なまぐさい匂いを嗅ぎ取った達也は、痛みをこらえて奥歯を噛みしめた。靴の裏でコンクリートを押したが、まるで力が入らずにすべるばかりだ。
脇腹に激痛が走り、息を飲む。
血に濡れた刃が、ゆらりと揺れる。
達也の身体の下にも血溜まりがあった。その中でもがくように身をよじらせる。
雨の音がしていた。
それはずっと続いている。
濡れた指を伸ばした先で、達也の腹部に突き立てられたばかりのナイフが落ちていく。
モカシンシューズを履いているのは男だ。足がすらりと長く、均整の取れたスタイルが若々しい。
達也が所属する三陸会(さんりくかい)が、草の根を掻き分けて探し出そうとしている上総(かずさ)組の暗殺者(ヒットマン)。彼の手にかかり、三陸会の副理事が命を落としたのは五日前のことだ。
彼こそ、雨の中を駆けずり回って探していた相手だった。
傷口を押さえる手の隙間から、血液が溢れ出る。達也はかまわずにコンクリートに指を立てて這った。
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