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第6話
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パッと目が開く。
いきなり水中から引き出されたかのような目覚めだ。
部屋に差し込む光の穏やかさだけが、変わらぬ朝の訪れを教えている。
長いまつげを震わせて、真澄はかすかな息を継ぐ。現実の在り処があいまいになり、ふたつの人生が交錯して重なり合う。
腹を押さえようとした手が、だれかの腕に当たった。
「おはよう」
ささやきかける声に驚かなかったのは、やはり、聞こえのいい美声だったからだ。
ぼんやりしたままで向けた視線の先には、花島がいる。肩につきそうな髪をハーフアップにして、オーバーサイズのパジャマを着ていた。
細い縞模様が洒落ているが、大きく開いた胸元からちらりと見える鎖骨が妙に色っぽく、気づいた途端に目のやり場に困ってしまう。
「また、うなされてた……?」
かすれた声で尋ねると、花島の眉根がほんの少し狭くなる。
「かわいそうに。今度の舞台が、相当のプレッシャーなんだね」
「は?」
腕で目元を押さえながら深呼吸を繰り返していた真澄は、低い声を返した。
腕を額へずらし、あたりを見る。
部屋の明かりはついていないが、窓のカーテンが半分開き、じゅうぶんに明るい。爽やかな初夏の朝だ。
「部屋の居心地は、悪くないよね?」
小首を傾げる花島はベッドの端に座り、布団の上から真澄の脇腹を押さえている。そっと優しく、載せているだけの仕草だ。
一緒に暮らし始めて七回目の朝。ちょうど一週間が過ぎた。
花島を調子づかせるようで明言は避けてきたが、明らかに快適な毎日だ。都内の閑静な住宅街の一画にある低層マンション。その最上階に花島の暮らす部屋はあった。
言い換えれば、その階に作られているのは花島の部屋だけだ。
床面積の三分の一が観葉植物に彩られたウッドデッキで、3LDKの部屋はどれも広々としている。真澄が寝泊まりするのは洋室の客間で、ダブルベッドとチェストが向かい合わせに置かれ、チェスト側の壁には細枠のフレームが並んでいた。どれも穏やかな雰囲気のモノクロ写真だ。
「……あんたと暮らすストレスだ」
負け惜しみを言って、ぷいっと顔を背けた。そのまま、寝返りを打ち、背中を向けて丸くなる。
真澄の第二の性は明かしていない。しかし花島は勘づいているらしい。毎日飲まなければならない『ヒート抑制薬』を、新しい暮らしで飲み忘れないよう、一日に一度、水を渡された。決まった時間に、必ずだ。
「そうだね。ぼくも、緊張してるよ」
鷹揚な性格の花島は、真澄の言葉のトゲを気にもかけない。
悪く言えばマイペースだが、自分をしっかりと持っているがゆえに、他人の機嫌に左右されない、とも言える。
「……起きておいで。朝食ができるから」
花島が動いても、高級なベッドは軋みひとつ鳴らさなかった。『金持ちケンカせず』という言葉が真澄の脳裏を過ぎていく。花島は、まさしくそれを体現している。
「ねぇ、真澄さん」
やわらかな声で呼びかけられる。振り向かずにいると、息づかいが耳元をかすめた。
「おはようのキスは、いつからする?」
まるで口説くようなニュアンスが、花島にはよく似合う。
「しないって、言ってんだろ!」
真澄はゴロゴロと転がって逃げた。
布団にくるまり、相手を睨む。しかし、回転の勢いがつきすぎた。そのまま向こう側へ落ちそうになり、花島の両手で布団ごと引き戻される。
「あんたが、わけわからないことを言うから!」
ひやりとした真澄は、負け惜しみで声を荒らげる。
「……わかってるくせに。恋人を演じるんだよ。雰囲気は出さなくちゃ。真澄さん、今日の目玉焼きは?」
「両面焼いて、中は半熟!」
叫ぶと、花島が笑顔で部屋を出ていく。残された真澄は、身体に巻きついた布団から抜け出すのに苦労した。そのあとで、あぐらを組んで、膝に頬杖をつく。
「毎朝、毎朝、これだもんな……」
ぼやきながら、片手で前髪をかきあげる。ため息はこぼさなかった。
代わりに簡単なストレッチをして部屋を出る。トイレと洗面所へ寄って、あれこれとすっきりしてからリビングへ出た。
ひときわ広い空間には、リビングとダイニング、そしてキッチンまでが、ひと続きに収まっている。天井の高さや家具配置の効果もあり、実際以上の奥行きを感じられる造りだ。
花島が立っている一番奥のキッチンはアイランド型で、そのそばにも廊下へ出るドアがついていた。
一段低くなっているリビングの脇を抜け、六人掛けダイニングテーブルの真ん中の椅子を引いた。右側全面の掃き出し窓の向こうは観葉植物が茂っている。小さな庭のようだが、日差しはちゃんと入ってくる設計だ。今朝も爽やかに、光が溢れていた。
パジャマ代わりのだぼっとしたTシャツとハーフパンツで席に着いた真澄は、いつものように牛乳のグラスへ手を伸ばす。
初めて泊まった翌日から、朝食は花島の手作りだ。片付けはふたりでする。夜はそれぞれ、テイクアウトで済ませることが多かった。
「今日のスケジュールは、夕方まで立ち稽古で変更なし?」
向かい側から差し出された木製の皿を、真澄は片手で受け取った。ベビーリーフのサラダと厚切りベーコン。それから両面焼きの目玉焼き。すでに塩と黒胡椒が振られ、オリーブオイルが回しかけてある。
軽く焼いたバゲットは別皿に置かれていた。
「そのはずだけど。ケータイ見るの、忘れた」
答えながら、夢のことを思い出す。
真澄が見る夢はこれまで、同じ場面ばかりを繰り返していた。変化が現れたのは、花島のマンションで寝起きするようになってからだ。
最初は、いつもの夢と『同時上映二本立て』の感覚があり、目が覚めてもはっきりおぼえていないことが多かった。それが日毎に鮮明な映像へ変わっていき、うなされるようになったのは三日ほど前のことだ。
花島に揺すり起こされ、自分の脇腹を思わず押さえてしまうほど、リアルな夢。
あれは、達也が生きていた最後の一日だ。
「こっちは雑誌のグラビア撮影だけど、夕方には終わるはずだから迎えにいくね」
ぼんやりしている隙に、さらりと言われ、まだ朝食に手をつけていなかった真澄は眉をひそめる。あやうく、うなずいてしまうところだった。
「どうして」
まっすぐに問いかけたが、花島が臆することはない。いつものように小首を傾げ、甘くてやわらかい微笑みを向けてくる。
「話題作りのためでしょ? 今夜はレストランで食事をしようよ。イタリアンは好き?」
「そこまでする必要はない。もうネットには出回ってるし、いいじゃん」
「出回ってるから、気楽に外へ出られる。コースよりは、家庭的なほうがいいかな。席の予約を入れておくね」
勝手に話を進められ、むすっとした真澄は目を据わらせた。眉根に深いしわを刻む。
「あんた、人の話を聞いてないだろ。オレね、いらないって言ったんだよ」
「……わかってる。でも、真面目に受け止めていたら、動くものも動かないじゃないか」
「動くって、なんだよ」
問い返した真澄の脳裏に、夢で見た場面が唐突によみがえって過ぎる。話の途中だが、気もそぞろになった。
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