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第6話

        ***         ***  パッと目が開く。  いきなり水中から引き出されたかのような目覚めだ。  部屋に差し込む光の穏やかさだけが、変わらぬ朝の訪れを教えている。  長いまつげを震わせて、真澄はかすかな息を継ぐ。現実の在り処があいまいになり、ふたつの人生が交錯して重なり合う。  腹を押さえようとした手が、だれかの腕に当たった。 「おはよう」  ささやきかける声に驚かなかったのは、やはり、聞こえのいい美声だったからだ。  ぼんやりしたままで向けた視線の先には、花島がいる。肩につきそうな髪をハーフアップにして、オーバーサイズのパジャマを着ていた。  細い縞模様が洒落ているが、大きく開いた胸元からちらりと見える鎖骨が妙に色っぽく、気づいた途端に目のやり場に困ってしまう。 「また、うなされてた……?」   かすれた声で尋ねると、花島の眉根がほんの少し狭くなる。 「かわいそうに。今度の舞台が、相当のプレッシャーなんだね」 「は?」  腕で目元を押さえながら深呼吸を繰り返していた真澄は、低い声を返した。  腕を額へずらし、あたりを見る。  部屋の明かりはついていないが、窓のカーテンが半分開き、じゅうぶんに明るい。爽やかな初夏の朝だ。 「部屋の居心地は、悪くないよね?」  小首を傾げる花島はベッドの端に座り、布団の上から真澄の脇腹を押さえている。そっと優しく、載せているだけの仕草だ。  一緒に暮らし始めて七回目の朝。ちょうど一週間が過ぎた。  花島を調子づかせるようで明言は避けてきたが、明らかに快適な毎日だ。都内の閑静な住宅街の一画にある低層マンション。その最上階に花島の暮らす部屋はあった。  言い換えれば、その階に作られているのは花島の部屋だけだ。  床面積の三分の一が観葉植物に彩られたウッドデッキで、3LDKの部屋はどれも広々としている。真澄が寝泊まりするのは洋室の客間で、ダブルベッドとチェストが向かい合わせに置かれ、チェスト側の壁には細枠のフレームが並んでいた。どれも穏やかな雰囲気のモノクロ写真だ。 「……あんたと暮らすストレスだ」  負け惜しみを言って、ぷいっと顔を背けた。そのまま、寝返りを打ち、背中を向けて丸くなる。  真澄の第二の性は明かしていない。しかし花島は勘づいているらしい。毎日飲まなければならない『ヒート抑制薬』を、新しい暮らしで飲み忘れないよう、一日に一度、水を渡された。決まった時間に、必ずだ。 「そうだね。ぼくも、緊張してるよ」  鷹揚な性格の花島は、真澄の言葉のトゲを気にもかけない。  悪く言えばマイペースだが、自分をしっかりと持っているがゆえに、他人の機嫌に左右されない、とも言える。 「……起きておいで。朝食ができるから」  花島が動いても、高級なベッドは軋みひとつ鳴らさなかった。『金持ちケンカせず』という言葉が真澄の脳裏を過ぎていく。花島は、まさしくそれを体現している。  「ねぇ、真澄さん」  やわらかな声で呼びかけられる。振り向かずにいると、息づかいが耳元をかすめた。 「おはようのキスは、いつからする?」  まるで口説くようなニュアンスが、花島にはよく似合う。 「しないって、言ってんだろ!」  真澄はゴロゴロと転がって逃げた。 布団にくるまり、相手を睨む。しかし、回転の勢いがつきすぎた。そのまま向こう側へ落ちそうになり、花島の両手で布団ごと引き戻される。 「あんたが、わけわからないことを言うから!」  ひやりとした真澄は、負け惜しみで声を荒らげる。 「……わかってるくせに。恋人を演じるんだよ。雰囲気は出さなくちゃ。真澄さん、今日の目玉焼きは?」 「両面焼いて、中は半熟!」  叫ぶと、花島が笑顔で部屋を出ていく。残された真澄は、身体に巻きついた布団から抜け出すのに苦労した。そのあとで、あぐらを組んで、膝に頬杖をつく。 「毎朝、毎朝、これだもんな……」  ぼやきながら、片手で前髪をかきあげる。ため息はこぼさなかった。  代わりに簡単なストレッチをして部屋を出る。トイレと洗面所へ寄って、あれこれとすっきりしてからリビングへ出た。  ひときわ広い空間には、リビングとダイニング、そしてキッチンまでが、ひと続きに収まっている。天井の高さや家具配置の効果もあり、実際以上の奥行きを感じられる造りだ。  花島が立っている一番奥のキッチンはアイランド型で、そのそばにも廊下へ出るドアがついていた。  一段低くなっているリビングの脇を抜け、六人掛けダイニングテーブルの真ん中の椅子を引いた。右側全面の掃き出し窓の向こうは観葉植物が茂っている。小さな庭のようだが、日差しはちゃんと入ってくる設計だ。今朝も爽やかに、光が溢れていた。  パジャマ代わりのだぼっとしたTシャツとハーフパンツで席に着いた真澄は、いつものように牛乳のグラスへ手を伸ばす。  初めて泊まった翌日から、朝食は花島の手作りだ。片付けはふたりでする。夜はそれぞれ、テイクアウトで済ませることが多かった。 「今日のスケジュールは、夕方まで立ち稽古で変更なし?」  向かい側から差し出された木製の皿を、真澄は片手で受け取った。ベビーリーフのサラダと厚切りベーコン。それから両面焼きの目玉焼き。すでに塩と黒胡椒が振られ、オリーブオイルが回しかけてある。  軽く焼いたバゲットは別皿に置かれていた。 「そのはずだけど。ケータイ見るの、忘れた」  答えながら、夢のことを思い出す。  真澄が見る夢はこれまで、同じ場面ばかりを繰り返していた。変化が現れたのは、花島のマンションで寝起きするようになってからだ。  最初は、いつもの夢と『同時上映二本立て』の感覚があり、目が覚めてもはっきりおぼえていないことが多かった。それが日毎に鮮明な映像へ変わっていき、うなされるようになったのは三日ほど前のことだ。  花島に揺すり起こされ、自分の脇腹を思わず押さえてしまうほど、リアルな夢。  あれは、達也が生きていた最後の一日だ。 「こっちは雑誌のグラビア撮影だけど、夕方には終わるはずだから迎えにいくね」  ぼんやりしている隙に、さらりと言われ、まだ朝食に手をつけていなかった真澄は眉をひそめる。あやうく、うなずいてしまうところだった。 「どうして」  まっすぐに問いかけたが、花島が臆することはない。いつものように小首を傾げ、甘くてやわらかい微笑みを向けてくる。 「話題作りのためでしょ? 今夜はレストランで食事をしようよ。イタリアンは好き?」 「そこまでする必要はない。もうネットには出回ってるし、いいじゃん」 「出回ってるから、気楽に外へ出られる。コースよりは、家庭的なほうがいいかな。席の予約を入れておくね」  勝手に話を進められ、むすっとした真澄は目を据わらせた。眉根に深いしわを刻む。 「あんた、人の話を聞いてないだろ。オレね、いらないって言ったんだよ」 「……わかってる。でも、真面目に受け止めていたら、動くものも動かないじゃないか」 「動くって、なんだよ」  問い返した真澄の脳裏に、夢で見た場面が唐突によみがえって過ぎる。話の途中だが、気もそぞろになった。

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