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第7話
あれは廃倉庫の中だ。外で降り続ける雨を吸い込んだようなコンクリートは不快にジメジメと湿っていた。
夢と違い、真澄が持っている達也の記憶には、匂いや感触がない。
真澄が小さい頃の記憶も同じだ。人間の記憶は常に断片的で、抜け落ちて忘れている事柄も少なくない。
一方で、夢には匂いも感触も、そのときどきの達也の感情も反映されていた。それは、真澄が達也だった頃に生きてきた時間の記憶だ。
夢の中の出来事が昨日のことのように思われ、真澄はいままでにない違和感を覚える。
現実と過去の境界線が、ふっと揺らぐ。
「たまには外で気晴らしをしようよ」
花島の声で、真澄は我に返る。朝食を摂っている花島がうつむき加減に言った。
「稽古場と家の往復ばかりだから、プレッシャーでこわい夢を見るんだ」
「こわい、ゆめ……?」
繰り返して首をひねる。その表現はそぐわない。
ナイフで刺される痛みは生々しくて、いちいち衝撃を受けてしまうが、こわいと思ったことは一度もなかった。
「違うの?」
花島に尋ねられ、真澄はコーヒーマグの取っ手に指を絡める。マグカップからは温かい湯気が立ちのぼり、煎った豆の香ばしさが漂う。
「……そういう夢じゃない」
真澄は不機嫌に答えた。
「どんな、夢?」
やわらかな花島の口調はいつも通りだ。彼だけは雑談のつもりでいるのだろう。だから、真澄も適当に答えた。
「ん? ……説明が難しい」
ごまかしてコーヒーを飲む。
「そうなんだ。でも、寝言で名前を呼んでたよ」
「え?」
マグカップのふちをくちびるに当てた真澄はぴたりと止まる。
秘密を知られたかのように心臓が跳ねた。
「チヒロって……」
そう言われた瞬間、真澄の緊張が一気に解けた。笑いがこぼれる。
チヒロは、花島の名前だ。花島智紘。
ふざけて真澄をからかっているのだ。
「なーんだ。冗談か! やめろよ、けっこう深刻な夢なんだから」
「本当だよ。覚えてない?」
「ありえないんだって。オレ、夢の中ではヤクザなんだよ」
真澄は笑いながら答えた。それが前世だとは言わない。
「じゃあ、真澄さんは、どうして、ぼくのことを呼んだの?」
不思議そうに問いかけてくる花島の視線が、まっすぐに真澄をとらえた。
雰囲気のある整った目元だ。きっと母親に似ているのだろう。そして、男性的な薄いくちびるが父親似。どちらも美形に違いない。
「知らない」
コーヒーを飲み、真澄は、首を左右に振った。さりげなく目を伏せて、視線をはずす。
花島から見つめられると、不思議にドギマギしてしまう。顔がいいから性質が悪い。
からかい半分に口説かれて、悪い気がしないのも問題だった。
舞台のためだとわかっていても、美形の口からこぼれ出る甘いセリフは心地良く聞こえる。女にチヤホヤされた達也の人生を漠然と思い出す。
真澄としては、恋をしたことがなかった。この身体は、男とも女とも未経験だ。
しかし、前世の記憶では、どちらの身体も知っている。恋のような感情のやりとりもあった。泣きたくなるような、憤りしか残らないような、過激な愛憎のやりとりもしている。だから、今世で恋をしようとは思えない。もうじゅうぶんだ。
そうでなくても、抑制薬を飲んでいるオメガの性欲は薄い。ヒートのときだけ爆発的に性的欲求を感じるタイプもいるが、たいていは抑制薬の効果で衝動も抑えられていた。
暴走してしまったときは、鎮静剤の出番だ。
達也の奔放さは幻のようで、自分のしてきたことだとは信じられないこともある。
女と恋をして抱き合い、たまには男にも手を出した。真澄として生きてみて初めて、とんでもなく貞操観念が欠如しているのだとわかったぐらいに乱れていた。
ヤクザとしての生き方をしていたときには、まるで気がつかなかったことがたくさんある。そもそも、幸せな子ども時代が存在するとは思わなかった。
その上で不思議なのが、達也の記憶に『第二の性』が存在しないことだ。
ベッドを共にした、どの相手を思い出しても、ベータだったのか、オメガだったのか、判然としない。達也自身がアルファだった確証もなかった。ただ、真澄の価値観で判断すると、達也の性欲の強さはアルファ、もしくは、アルファ因子を持つ男性ベータだ。
そのあたりのことを考えると、真澄はすべてが嘘のように思えて怖くなってしまう。夢も記憶も、自分の思い込みかもしれないからだ。
「なぁ、花島。もしオレがあんたの名前を呼んだとしたら……。あんたが、人の夢に勝手に出てきてるってことだよな」
「え? そうなる?」
フォークで目玉焼きの黄身を破ったばかりの花島が目を丸くした。
「だって、そうだろ。オレの夢って、規則正しいんだ……」
過去の記憶と現在の記憶の境はあいまいだが、どちらが達也で、どちらが真澄なのかははっきりしている。夢の中では、真澄として、達也の中に入っている。記憶の追認だ。
「人の夢をかきまわすのはやめてくれよ……。今夜のメシって、本当に舞台のため?」
「どっちも違う」
ふたつの質問に対して、ひとつの答えが返ってくる。花島はテーブルに肘をつき、長い指であご先を支えながら言った。
「でも、付き合ってくれるなら、どっちでもいいな」
ふっと細くなった目元に色気がにじむ。
真澄の中の淡い性欲が刺激され、なぜか、あくどい気分になる。それは達也の感覚だ。真澄としては理解に苦しむ、凶暴性を秘めた欲望でもある。
もやもやとした感覚を花島へのライバル心だと判断する真澄は、片方のくちびるの端を引きあげた。不遜に微笑む。
「ややこしいんだよ。付き合うって、晩メシだよな?」
「どっちでもいいよ」
「よくねーの!」
大声で言い返し、真澄は深いため息をつく。花島といると調子が狂う。屈託のないふりを忘れてしまい、地が出てくる。
だから、達也の記憶の中にある積極的欲情を思い出して戸惑うのだ。
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