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第2話
見覚えのない、母親と比較的近い年齢の女性の行動に一瞬戸惑ったが、すぐ後ろを歩いていた少女が早足で優良を追い抜き、女性のもとへ駆けていった。
嬉しそうに母親であろう女性に話しかけ、そのまま車内へと入っていく少女には、見覚えがあった。クラスは違うが、同じ塾に通っている少女だ。
中学受験用の進学塾は、クラスを試験の成績で分けている。優良は一番成績が良いクラスに所属していて、入塾してから一度もクラスを落としたことはない。そのため、他のクラスの人間のことはほとんど知らない。
それでも少女の顔をなんとなく覚えていたのは、少女が優良のクラスに友達がいるらしく、時折遊びに来て話しているのを見かけていたからだ。少女のマフラーは手編みらしく、少しくたびれてはいたが、なんだかとても暖かそうに見えた。
自然と、自分の首に巻かれたカシミアのマフラーへ手をやる。
昨年、父親が学会でドイツに行った際に土産で買ってきたものだ。
弟も色違いのものを買ってきて、電話では赤がいいと言っていた弟は気が変わったのか、青を選んだ。
整った顔立ちの弟のために用意された深紅のマフラーは、自分が巻くとなんだかひどく不釣り合いに見えた。
「ごめんねお兄ちゃん。翼ったら、最初は赤がいいって言ったのに」
「別にいいよ、僕はどっちでもよかったから」
母親を安心させるようにそう言えば、ホッとしたような顔をされる。
別に、いつものことだ。この家の主役は翼で、全ては翼を中心にまわっている。
気まぐれで、少し我が儘ではあったが、顔はテレビに出ている子役よりもよっぽど可愛く、運動神経も良ければ頭も良い。
マフラーのことだって、別に優良へ嫌がらせをしようとしたわけでもなく、ただ自分が欲しい方を選んだだけだ。
そして自分が要求を口にすれば、両親はそれを聞き入れることも知っている。
幼い頃から、自分は両親から愛されているという絶対的な自信があるからこそできることだろう。優良には、とても真似できないことだった。そんなことをした日には、両親は怒るどころか、ひどく顔を歪め、こう思うはずだ。
「ああ、やっぱり、こんな子引き取るんじゃなかった」と。
東京と神奈川の境にある武蔵小杉(むさしこすぎ)は、十分もあれば電車で都内に出られる利便さが買われている新興住宅街で、駅の傍には新しいタワーマンションがいくつも立ち並んでいる。
優良の家は一軒家で、駅から十五分ほど歩いた閑静な住宅街にあるため、駅前とは随分雰囲気が違っていた。
普段通り、仕事帰りの大人たちに交じって自宅へと向かっていた優良だが、今日はいつもより足が重く感じた。
家に帰ったところで誰もいないだろうし、冷たくなった夕食がテーブルの上に置かれているだけだ。
塾がある日はいつも夕方頃にコンビニで買ったおにぎりを食べているが、さすがに気が引けるのか、夕食は優良の分もきちんと用意されている。
ただ、母親は帰ってきた優良に声こそかけてくれるが、夕食を食べるのは一人きりだった。
それでも最初は優良を気遣うように、何かしらの会話をしていたのだが、ぎこちない会話はすぐに終わってしまう。そして母親は、さり気なくリビングの方へ行ってしまうのだ。
結婚前は父親と同じ医師をしていた母親は、今は在宅で医療監修の仕事をしている。
ノートパソコンを開くと、そのまま母親の視線はディスプレイへと向かい、優良の方は一切向かなくなる。
もっと自分が話し上手で、それこそ翼のように会話を盛り上げることができたら、母親も笑ってダイニングにいてくれるだろうか。そんなふうにいつも思っていた。
ミュージカルが終わるのは二十一時だという話だが、休日前のこの時間は都内も渋滞しているだろう。誰もいない家に一人帰るのは、どうしても気が重たかった。
少しだけ時間を潰そうと、優良は自宅からは真反対の、多摩川(たまがわ)の方へと足を向けた。
昼間は散歩や川沿いで遊ぶ子どもたちで比較的人通りがある多摩川も、この時間はとても静かだった。十一月の今は、雨も少ないため、水の量は少ない。近づいても大丈夫だろうと判断し、川沿いへと向かった。
水辺に近づくと、さすがに少し風が冷たく感じたが、水面を見つめていると、どこか心が落ち着いた。
ライトアップされた丸子橋(まるこばし)を見上げれば、明るい光に照らされていたが、その下は暗がりとなっている。
橋を見ると、いつも遠い昔に言われた言葉を思い出す。
「あんたは、橋の下で拾われた子どもなんだよ」
当時五歳になったばかりの優良に、父方の祖母が母親に聞こえないよう、こっそりと優良に言ったことがあった。どうせ言ったところで、意味がわからないと思ったのだろう。
その時の祖母の意地の悪そうな顔は今でもよく覚えているし、普段から自分を見つめる視線は、翼を見つめる優しいものとは明らかに違っていた。
自分はこの家の子どもではなく、橋の下から拾われてきた子ども。
祖母から言われた言葉は優良の胸に突き刺さり、小さな心臓が痛くてたまらなかった。
だから、おばあちゃんは僕には何も買ってくれないんだ。だから、お父さんもお母さんも、いつも翼の名前を最初に呼ぶんだ。僕が赤ちゃんの頃の写真はほとんどないのに、翼の写真はたくさんあるんだ。
優良が幼いながらも感じてきた不安は、祖母の言葉をきっかけにますます強くなった。だから優良は、今まで以上に手のかからない、良い子になろうとした。
祖母の話は勿論嘘で、優良は橋の下から拾われてきた子どもではない。
特別養子縁組制度、優良が自分と両親に血のつながりがないと知ったのは一年以上前、小学五年生の夏休みのことだ。
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