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第3話
きっかけは、半年ほど前の、正月の話だった。
家には珍しく遠縁の親戚も集まっており、客間で所狭しとみなは酒を飲んでいた。
大人たちが集まっている間、優良は翼と一緒にリビングでテレビを見ていた。けれど、翼が喉が渇いたと騒いだため、何か飲み物をもらえないかと優良は大人たちのいる和室へ向かったのだ。
その時、酔った女性、父の姉が母に言った言葉が聞こえてきた。
「その年齢で男の子二人の母親なんて大変よね。まさか、もらって一年も経たないで子どもができるなんて思いもしなかったでしょ? こんなことなら、わざわざもらう必要なかったんじゃない?」
「まあ……それはそうなんですけど。だけど、お兄ちゃんは良い子ですし、翼にも兄弟がいた方がよかったと思うので」
自分は、もらわれてきた子ども……。あまりにもショッキングなその言葉に、優良はしばらくその場から動くことができなくなってしまった。
聞き間違いではないはずだ。伯母は酔っていたが、母親は酒を飲まないため意識はしっかりしていた。
七月の終わり、その日、母親は翼を連れて出かけていたため、優良は家の中で一人勉強をしていた。
ちょうど父親の職場が変わり、児童手当を新しく申請する際に母親は戸籍謄本を取り寄せていたことは知っている。
だから、リビングの棚の上に置かれたそれを、その時にこっそり盗み見たのだ。
あんなの祖母の冗談だ、自分はこの家の子どもだと心のどこかで信じていた可能性は、謄本を見たことによりゼロになった。
『民法八一七条の二』。優良の戸籍謄本には、しっかりとそれが記載されていた。
優良は箪笥に仕舞われた翼の母子手帳を探し出すと、母親が通っていた産院の名前を確認する。
インターネットで調べてみたら、初期の頃に通っていたその産院は不妊治療で有名な医院だった。
おそらく、両親は長い間不妊治療を続けていて、一度は諦めて生まれたばかりの自分を養子にした。
けれどその一年後、奇跡的に翼を授かった。自分は、この家の誰とも血のつながりがない。
どくどくという心臓の鼓動が激しくなり、エアコンで部屋の空調は整えられているはずなのに、ひどく喉が渇いた。ジージーという蝉の声が、ことさらよく聞こえた。
物心がついた頃には感じていた心細さと疎外感の正体が、ようやくわかった。
川沿いに長い時間いたからだろう、頬にあたる風にぶるりと身を震わせる。
別に、血がつながりがないからといって、あからさまな差をつけられたことはない。
むしろ、それがわからぬよう、少なくとも周囲には悟られぬよう、両親は努めてくれていた。
ブランド物の子ども服を着せてもらい、塾にまで通わせてもらい、三食きちんと食べさせてもらっている。
それでも、中学受験だって翼とあからさまに差がつかないようにすることになったのだし、三年生の説明会から参加していた翼とは違い、優良が塾に入ったのは五年の途中からだった。
この成績なら御三家も狙えると講師から太鼓判を押されれば、「翼も頑張るのよ。お兄ちゃんが色々教えてくれるし、よかったわね」と、母は翼に笑いかけた。
実の親に育てられていても、虐待によって命を落とす子どもだっているのだ。
自分は、十分に恵まれているし、幸せだ。自分が両親との血のつながりがないことを知ってから、優良は何度もそう言い聞かせてきた。
だけど……それでもやっぱり自分と翼は違う。「翼にも兄弟がいた方が」――あの時、母親は伯母にそう言った。優良にあの家で求められているのは、物わかりの良い、翼の兄というポジションで、優良自身が求められているわけではない。
いつしか自分の呼称は「お兄ちゃん」になり、「優良」と名前で呼ばれることはなくなった。
両親はなるべく差がつかぬよう、努力してくれていることもわかっている。
ただ、そんな気遣いさえ優良にとっては辛く、寂しかった。
これだけよくしてもらっているのに、これ以上を望むのは贅沢だということもわかっている。
それでも、埋められようのない心の孤独は日々蓄積していて、時折自分の存在すら消したくなる。
自分は、必要とされていない子ども。……ここにいては、いけない子ども。
もしこのまま川に身を投げれば、両親は泣いてくれるだろうか。
だけど、どこかで思うはずだ。死んだのが、翼でなくてよかったと。
……やめよう、考えたって仕方のないことだ。
見上げた夜空には、きれいな三日月が輝いていた。気のせいだろうか、いつもよりも光の量が多いように感じる。
「きれい……」
ずっと見ていたい、そんな不思議な気分だった。とはいえ時間帯も時間帯であるため、ずっとそうしているわけにもいかない。
大きく息を吐き、気を取り直して最後にもう一度川へと視線を向ける。
「え……?」
優良の目に入ってきたのは、何かに照らされたように光を帯びている川だった。
先ほどまでは、いつもと変わらない、夜の川だったはずだ。
丸子橋はライトアップされているが、その光は橋の下までは届かない。
夜光虫という、青白い光を放つプランクトンの存在が頭を過ったが、写真で見たその色とは明らかに違っていた。
金に近い、眩しいほどの柔らかい光。それは、空の上の三日月から発せられたものだった。しかも、光はゆっくりと優良の方へと近づいてくる。
さらに水がうねりをあげて揺れ、光る川はまるで生き物のように大きくなった。
「な……!」
逃げよう、そう思った時にはすでに遅かった。
まったく予想できない動きをする川の水が、優良をとらえようと大きくしぶきをあげて迫ってくる。
カツンと音がし、手に持っていたスマートフォンが下に落ちた。
「たっ」
助けて、優良の言葉が、声になる前に、身体が水に包まれる。
凍えるような水の冷たさを想像していたが、光る水は不思議と冷たくはなかった。
むしろ心地がよいくらいで、その温かさに戸惑いながらも懸命に手足を動かしたが、身体の自由は一切きかなくなっていた。
それでもなお、必死にもがいていたが、突如そこで強い眠気に誘われる。
『……どうかお眠りなさい、愛しい子』
穏やかで優しい、きれいな声が耳元に聞こえる。
『お母、さん……?』
ぼんやりとした意識の中、美しい女性が微笑むのが微かに見えた。
優良の意識は、そこで完全に途絶えた。
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