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第4話

 2  身体が、温かいぬくもりに包まれている。先ほどまでの不思議な光ではなく、感じるのは誰かの体温だ。  昔、誰かにこんなふうに抱きしめられたことがあった。  自分でも思い出すことができないくらい、遠い遠い昔。  もっとも、今自分を抱いている腕はその腕よりも遥かに逞しく、力強そうだ。  朦朧としていた意識が、少しずつはっきりしていき、耳からは誰かの声が聞こえてくる。  このまま眠っていたかったが、その声が自分に対してかけられていることがわかる。  高くはないが、低すぎもしない。聞いていて、とても心地よい声だった。  その声につられるように、優良はうっすらと自身の瞳を開く。  目の前にあったのは、美しい少年の顔だった。  外国の、人……?  年の頃は、十七、八歳だろうか。優良よりも年上の、高校生くらいに見えた。  色素の薄い肌の色に、銀色の髪と、アイスブルーの瞳。顔立ちも彫りは深いが、西洋人に比べるとエキゾチックだ。だが、明らかに自分と同じ東洋人の容姿ではない。  しかも、何か香をつけているのか、とても良いにおいがする。  王子様、みたいだ……。  きらきらと光る少年の髪を、優良はぼうっと眺める。 「気づいたか! ……大丈夫か?」  驚いたような、けれど心配げな少年の声が、優良の耳に優しく入ってくる。 「は、はい……」  少年が話しているのも、自分が発した言葉も、明らかに日本語ではなかった。  日本語どころか、これまで一度も聞いたことがない言語だ。  けれど、不思議と優良は彼の言葉が理解できたし、そして自分も同じ言葉を発することができた。 「よかった」  優良の言葉に、硬質で無表情だった少年の表情が柔らかくなる。優しく、美しい笑顔に優良も自然と笑みが浮かべる。  その瞬間、少年の切れ長の瞳が見開かれ、その表情に優良はハッとする。  意識がはっきりし、冷静になると、少年の逞しい腕に抱き留められ、さらに見つめられているこの状況がとても恥ずかしくなってくる。 「あ、あの」  慌てて上半身だけでも起き上がろうとするが、それは少年によって阻まれた。 「急に起き上がらない方がいい。長い間水の中にいたし、身体も冷えていた。どこか痛いところや、動かないところはないか?」  よく見れば、優良の身体は肌触りのよい、絹のような青い布に包まれており、さらに少年の腕によって支えられていた。  水の中、ということはやはりあのまま自分は川に引きずり込まれ、おぼれてしまったのだろうか。 「大丈夫です。どこも痛くありません」  言いながら、ゆっくりと首を動かして周りを見渡す。  あれからだいぶ時間が経っているのか、あたりはすでに明るくなっている。 「え……?」  けれど、周囲を見渡し、自分の状況を確認すると。そこには信じられない光景が広がっていた。  てっきりあのまま、下流の方に流されてしまったのだと思ったが、優良の目に入ったのはまったく見覚えのない風景だったからだ。  自分が浸かっていたのだという川を確認してみるが、見慣れた多摩川ではない。  多摩川どころか、おそらく日本の河川ではないだろう。  日本に、こんなに川幅の広い川は存在しない……!  中学入試は膨大な知識を詰め込むのが必要とされるため、日本の河川の特徴や名前はほとんど覚えている。川幅のある利根川(とねがわ)でさえ水のある部分は一キロには満たず、初めて日本の川を見た外国人は川ではなく滝だと表現したという話だってある。  けれど、今優良の目の前に広がる川はとにかく広く、目を細めて向こう岸が微かに見えるくらいだ。  川だけではない。川を囲む、ごつごつとしたいくつもの大きな岩や、その先に広がる高原。 「ここは……どこですか?」  呆然としながら、自分を支えてくれている少年へと視線を戻す。  よくよく見てみれば、少年の恰好も日本のものとは違っていた。まるでどこかの民族衣装のような、白いブラウスのようなシャツに、銀色の刺繍が施された青色の上衣に、ゆったりとしたズボン。  優良の問いに、少年は一瞬訝し気な顔をしたが、すぐにその口を開く、 「お前は……」 「エルトゥール様!」  少年の言葉に、第三者の声がかかる。  優良が声のした方を振り向けば、目の前の少年と同じくらいの年の少年がこちらへ向かって駆けてくる。  少年に比べれば肌は浅黒く、髪色は赤に近い茶色だが、衣装は同じようなものを纏っている。 「布をバザールでいくつか買ってきました。子どもは……」 「ああ、無事に目を覚ました」  赤毛の少年が、優良の方を見る。 「無事で何よりだ。……お前、危ないところだったんだぞ。エルトゥール様が気づいて助けなければ、あのまま水に沈んでもおかしくなかった」 「あ……」  そういえば、動転してしまい、未だ礼を言えていなかったことに気づく。 「助けてくださり、ありがとうございます。えっと、エルトゥール様……」  さり気なく上半身を起こし、目の前にいる少年、エルトゥールへと頭を下げる。 「いや、最初は沐浴でもしているのかと思ったが、どうも様子が違っていたからな。何もないのなら、よかった」 「は、はい……」  美しい青い瞳で見つめられ、優良は小さく頷く。  けれど、そんな穏やかな雰囲気に対し、二人を見ていた少年は表情を厳しくする。 「そもそも、神聖なカストゥール川で水を浴びようとするなど、時期が時期なら懲罰ものだぞ!? お前一体どこの集落のものだ」 「え……?」  どこに住んでいる者なのか、少年が問うているのはそういうことなのだろう。  けれど、そう言われても優良はなんと答えればいいのかわからない。 「えっと……僕は……」  逡巡していると、エルトゥールが少年から受け取った布を優良へとかけてくれる。  厚い生地のものが多いのは、おそらく身体の体温を下げないためだろう。  優良は渡された布の一つを、髪を拭くために頭の上に乗せる。  けれど、そこでふとエルトゥールの手が止まった。 「先ほどから思っていたが、見たことがない衣服だな。もしかしてお前、異国の者か?」 「何!?」  エルトゥールの言葉に、少年の表情がますます険しくなる。  まるで掴みかからんばかりの勢いで、優良がびくりと身体を震わせれば、横にいたエルトゥールが前に出て庇ってくれる。 「やめろサヤン、怯えている」 「しかし……」 「たとえ異国の者でも、この年齢だ、間者だとは考えにくい。それに、アナトリアはどんな民族や神を信ずる者でも受け入れるのが信条だ。お前だって、それはわかっているだろう?」  エルトゥールの言葉に、サヤンは一瞬、苦々しく表情を歪めたが、すぐにしっかりと頷いた。 「髪も瞳の色も黒というのも、珍しいな。大丈夫、悪いようにはしない。どこの国の者だ?」  優良を怖がらせないように、エルトゥールが穏やかに問う。  信じてもらえるかはわからないし、現在の状況を一番信じられていないのは優良だ。  だけど、今は正直に話すしかない。 「僕の住んでいたのは、日本という国の、東京という街です」 「ニホン? 聞いたことがない国だな、お前、嘘をつくなら」 「待て」  サヤンの言葉を、エルトゥールが遮る。  そして、その大きな手でそっと優良の前髪に触れる。 「あ、あの……?」 「印……」 「え?」  優良の額には、昔から四葉のような小さな痣がある。  色も薄く、さらに前髪を下ろしていると気づかれないため、指摘されたことはほとんどないが、髪を拭いた時に前髪に癖がつき、今は額が見えていた。  サヤンもエルトゥールの言葉に、優良の額へと視線を向けた。  エルトゥールは優良の顔と、そして身体を注意深く、まじまじと見つめる。 「エルトゥール様……もしやこの子どもは……」 「ああ。神の愛し子の、可能性がある……」  神の、愛し子……?  一体、どういう意味だろうか。困惑から、優良が不安気にエルトゥールを見上げる。  優良を安心させるためだろう、エルトゥールはゆっくりと頷き、声をかけた。 「名前は?」 「え?」 「お前の、名だ」 「優良です。宝生(ほうしょう)、優良です」 「ユラか、良い名前だな」  エルトゥールは優良の名を呼び、笑んだ。  けれど、その微笑みは今までのものとは違い、どこか寂し気に見えた。

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