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今日は飲もう②

「桐ケ谷は居酒屋に一度も来たことが無かったの?」  その問いかけに、意識を目の前のグラスから久我に戻した。 「十歳からずっとイギリスにいたので、日本での経験値は低いかもしれません。連れだって遊び歩くような友達もいませんでしたし」  人との係わり方に問題があったので自業自得なのだが、少し不憫な自分が笑えた。一瞬眉根を寄せた吉田が、空気を変えるために新しい話題を振ってくれる。 「そう言えば、報告書見たよ! 桜華大の『優秀な生徒には特注のベスト』って良い案だよね」 「ああ、あれは桐ケ谷じゃなきゃ思い付かないよな。緑川さんも喜んでいたろ?」  玲旺は少し目を伏せ「ええ、まぁ」と曖昧に頷いた。いつまでも営業部に居られないと言う緑川の言葉を思い出すと、気が沈んでいく。 「なんか、今日の桐ケ谷元気ないなぁ」 「きっと、今までの疲れが出たんですよ。だから、今日は桐ケ谷くんの慰労会です」  鈴木が笑顔で頷きながら、追加オーダーするために店員を呼んだ。玲旺は久我の表情を横目で見ながら、「実は」と口を開く。 「一週間後に見合いがあって、少し気が重いんです」  久我の眉がわずかに上がったが、表情の変化はそれだけだった。 「へぇ、見合い? 嫌なら断ればいいのに」 「そうもいきませんよ」  もう少し驚いてくれてもいいのに、と思いながら玲旺はグラスを空にした。 「そりゃあ、桐ケ谷くんはフォーチュン創業家の跡取りですからね。色々しがらみもあるんでしょう。こうして話していると、そんな凄い人って事つい忘れてしまいますが」 「うん、忘れちゃうよね。普通に同僚って感じ」  鈴木も吉田の意見に同意したので、玲旺は思わず身を乗り出す。 「え。俺が社長の息子ってこと忘れちゃうの? そんなこと言われたの初めてだから嬉しい」  日々の業務でそんな気配は薄々感じていたが、改めて言われると新鮮だった。 「良かったね。ま、今日は飲もうよ」  久我が冷酒用のガラスの徳利を持ち上げて、玲旺の前に置いた酒器に日本酒を注ぐ。  営業部で腫れ物扱いしないで貰えているのは、やはり久我のお陰だ。そう強く思いながら、酒器を口元へ運んだ。  しばらく談笑していると、鈴木の呂律が回らなくなって来た。吉田がケラケラ笑っている鈴木の荷物を持ち「もう帰るよ」と声を掛ける。 「すみませんここで失礼しますね。鈴木さん危なっかしいんで、送っていきます。久我さんもだいぶ飲んでますけど、どうされます?」 「まだもうちょっと桐ケ谷と飲んでいくよ」  玲旺の都合は聞かずに久我が勝手に答える。「じゃあ」と言って財布を出そうとした吉田を久我が止めた。 「いいよ、今日は奢らせて。いつもありがとう」  吉田は躊躇したが、まだ飲みたいと鈴木が駄々をこねだしたので大人しく退散することを選んだ。「ご馳走様です」と恐縮しながら鈴木を連れて店を出ていく。 「吉田さんって有能だよね。俺が常務になったら秘書に欲しいと思ってるんだけど、秘書課に連れて行っていい?」 「ふーん」  久我は席を立ち、今まで吉田がいた玲旺の向かいの椅子に座り直した。横に並んでいた時は気付かなかったが、正面から見ると顔が少し赤い。 「俺の事は連れて行ってくれないんだ。冷たいなぁ」 「だって久我さんが秘書課に来てもしょうがないでしょ。営業部が悲鳴を上げるよ」  久我はグイッと酒を煽った後、頬杖をついたまま玲旺の顔をじっと見た。

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