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深海④
「ああ、すみません気付きませんで。こんにちは、紅林 さん」
声の主はジョリーの御曹司だった。相変わらず体に合っていないスーツを着ている。
「もう店舗の場所聞いたろ? 今回でハッキリしたな、どちらが今後期待されているか。そりゃ、似たような商品なら安い方が良いに決まってるからなぁ。これからは、やっぱりジョリーの時代だよな。ま、恨むなよ」
商業施設の一等地を手に入れた紅林は、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「似たような」じゃなくて、お前らがただ真似てるだけだろうと、呆れてものが言えなくなる。
陳腐な挑発や優位性を自慢するところなど、三十路を過ぎているのに紅林の言動は子供っぽい。
「我が社には値段なりのこだわりと矜持がありますよ。それに期待の有無ではなく、低価格を好んだ施設側の単純な都合でしょう。今回はこちらと縁がなかったので、我々は撤退します」
「なんだ、勝負しないのかよ。ウチと張り合う前に怖気づいちゃった?」
馬鹿か。と、喉まで出かかった。
「リソースと手間を割いてまで、あの場所に執着するメリットはゼロと言うことです。同じ労力をかけるなら、別の企画を立ち上げてもっと有意義な店を作ります」
商業施設のメリットは、建物自体に集客力があることと、施設も宣伝してくれるので広告費が多少は浮くことだ。しかしデメリットも大きい。
テナント料は毎月売り上げによって変動し、売り上げが多いほど賃料も高くなる。もちろん、売り上げが低くても下限額のテナント料を支払わなければならない。
あの区画で利益を上げるのは相当な努力と工夫が必要だろう。
それなのに一等地にあるジョリーより格下のような印象を与えかねず、全く努力に見合わない。どう考えても出店はマイナスでしかなかった。
「つまんねーの。逃げるんだ」
「逃げるが勝ちと言う言葉もございましょう。少なくない額の金を動かすんです。引き際を間違えたら、大ダメージですから」
「はいはい。言い訳ごくろーさん。じゃ、もっと有意義な店づくりがんばってねー」
棒読みで告げながら紅林がひらひらと手を振る。事務所へと消えて行く背中を見送りながら、ぎりっと奥歯を噛み締めた。久我は車に乗り込むと、「くっそ!」と思い切りハンドルを叩く。自分に腹が立って仕方なかった。
もっと早く施設側の動きに気付いていたら、回避できた事態かもしれない。
もっと上手く動けていたら、ジョリーの鼻を明かせたかもしれない。
玲旺がいなかった二週間、ずっと浮ついていた自分の不甲斐なさがどうにも許せなかった。注意力は散漫になり、取引先へのフォローも疎かになっていた。誰よりも玲旺を支えていたいのに、今のままでは取り返しのつかない失態をおかして、足を引っ張りかねない。
滅入りながらも上司に電話で事の顛末を報告すると『君らしくないミスだね』と驚かれ、久我は言葉に詰まる。
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