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せめてもの餞③

 玲旺は相槌も打たずに黙ったままだった。重い空気に耐えられず、久我が「出張はどうだった?」と話題を変える。玲旺は時折考え込むような仕草をしながら、向こうでの出来事をいつもの口調で億劫そうに答えた。  どうにか事故も起さず会社の駐車場に戻り、サイドブレーキを引いて久我はホッと小さく息を吐く。 「ねぇ久我さん」  思い詰めたような玲旺が、シートベルトを外す久我の手を握った。 「俺、さっきの奴とは違うよ」  急に何を言い出すのかと、驚いて玲旺の顔を見る。再会してからずっと玲旺は平然としていたので、てっきりもう諦めてくれたのだとばかり思っていた。玲旺は熱のこもった目で真っ直ぐにこちらを見つめ返し、逃げ場のない狭い車内で運転席に身を乗り出す。 「俺を選べよ。一緒にロンドンへ行こう」  息を飲んだ久我の喉が鳴り、怯えたように首を小さく振った。 「それは……出来ない。怖いんだよ。いつか愛想を尽かされてお前が離れていくと思ったら、恐ろしくてこれ以上近づけない」 「このままでも俺は離れていくんだぞ、わかってんだろ? 今俺を選ばなかったら、千回後悔するぞ」 「……千回じゃ、済まないだろうな」  久我は弱々しく笑った。簡単に想像できる未来だった。あの時玲旺を受け入れていればと、未練たらしく毎日毎日後悔するだろう。  玲旺は苛立ったように手を伸ばすと、久我のネクタイを掴んだ。それを思い切り自分の方にたぐり寄せ、乱暴に唇を重ねる。驚いた久我は目を見開いたが、玲旺も目を閉じずに怒ったように睨みつけていた。視線を合わせたままのキスに戸惑ったが、舌先を追われているうちに思わず久我も玲旺の歯列をなぞってしまう。  早く唇を離さなければと思いつつ、玲旺の握るネクタイが顔を逸らせない理由を与えてくれた。逃げられないから仕方ないと自分に言い訳しながら、玲旺のガラス細工のような瞳に魅入る。 「なんで俺じゃダメなの……?」  久我の肩に顔を埋めた玲旺が、涙交じりに呟いた。頭を撫でてやりたい衝動に駆られたが、久我は伸ばしかけた手を空中で止める。 「違う。桐ケ谷が駄目なんじゃなくて、俺が桐ケ谷に相応しくないんだ。俺よりもっと良い奴を見つけたら、きっと簡単に忘れられるよ」  しがみついたまま離れない玲旺を諭すように語り掛けた。  これでわかってくれるだろうか。そんな事を考えていたら、玲旺に思い切り胸を叩かれた。ドンと鈍い音がして、痛みと驚きで思わずのけ反る。  玲旺は涙を堪えながらも射るような視線で久我を見据えていた。 「だったら、簡単に忘れられない男になれよ!」  車内に響く玲旺の声には、平伏したくなるような凛々しさがあった。涙で潤んでいてもなお、双眸には強い光が宿っている。 「年齢とか関係ないだろ! 絶対に安全な恋愛なんてこの世にあるのかよ。気ぃ抜いたらあっという間に壊れる脆いもんだから、みんな一生懸命大事に守ってんじゃねぇのかよ!」

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